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寝静まったロンドンの夜を斬り裂く――
エドガーはこの感じが大好きだ。そう、疾風になった気分。
昼間、我が物顏に往来を占領している馬車や荷車たちもこの時間は消え失せて、縦横無尽に走り回るのはメッセンジャーボーイズ!
1851年、ポール・J・ロイター卿は通信社〈テレグラフ・エージェンシー〉を創建した。その際、船便で届く世界中からの貴重な情報を、何処よりも早くそれを必要とする人々に伝達するために組織したのが、その名の通り、〈少年伝令部隊〉だった。
まだ電信機器が未発達だったこの頃、10歳~16、7歳までの少年たちに揃いの制服――グレイの地に緑の縁取りの上着、揃いの膝丈のズボン、帽子付き――を着せ大都市ロンドンに解き放った。三交代制で昼番・夜番編成。特に圧巻が夜番だ。少年たちは足にローラースケートを履いて凄まじいスピードで走り回った。石畳の道路が立てる騒音に『眠れない』と毎夜苦情が殺到したほどだ。
エドガー・タッカーは14歳。そんなメッセンジャーボーイに採用されて未だ半年の新参者である。だが、持ち前のすばしっこさで今や一目置かれている。唯一、どうしても抜けないのがヒュー・バード、まさに今、眼前を奔るあの背中――
一番駆け配達者には3ポンドのボーナスが出る。万が一途中でへばったり抜かされたなら交代してボーナスの権利を勝ち取れる、それが社のルールだ。
とはいえ、ヒユ―を追いかけるヤツなどいない。彼がヘマをすることなどあり得ないから。仲間は皆、ヒユ―の取らなかった伝言に飛びつくのが常だ。確実に3ポンドを稼ぐために。
「だが、僕は違う、負けるもんか! 今日こそ先に玄関に入ってやる」
「ふん、またおまえか、エド? 諦めが悪いな。俺を抜くには100年早いさ」
弾丸のようにシティ・オブ・ウェストミンスター地区の闇を斬り裂いて疾走する二人。
6月初旬の月の輝く今宵、目指すはメリルボーンストリート……
やがて見えて来た、あれだ、白い煉瓦の建物。ジョージ朝様式の古風な棟続きの集合住宅の一番端。低い階段を一気に飛び越えて玄関扉に突進する。ノッカーを掴んだのは――
ヒューだった。高らかに響く声。
「ルパート・シーモアさん! テレグラフ・エージェンシーです。メッセージをお持ちしましたっ!」
エドガーは自分の帽子を毟り取って悔しがった。
「クソッ、あと少しだったのに」
「悪いな、エド。だが中々の腕――いや、足だったぜ。チビ助にしては褒めてやるよ」
「え?……そ、それは、どうも、ヒュー」
実は、正直なところエドガーはヒューが嫌いではない。むしろ誰よりも憧れて尊敬していた。
ヒュー・バードは背が高くて大人びている。夜空のような漆黒の髪、そのせいか灰色の瞳がチカッと瞬く星に見える。ああ、いつか自分もあんな風になりたい。背だって、今はヒューの肩の辺りだけど、せめて鼻先くらいには届きたいものだ。だから、こんな風に率直に褒めらると息がつまるほど嬉しかった。頬を染めて返事の代わりに親指を立て身を翻す。さあ、早く社へ戻って届いてる別の伝言を運ぶとするか。夜は長い。3ポンド稼ぐチャンスはまだある。その時、肩に手が伸びて引き戻された。
「待てよ、エド、どうも様子がオカシイ。変だぞ」
「?」
いつまでたってもドアが開かない。
確かに、ここの住人ルパート・シーモア氏は少々変わり者と言われている。
貴族の家柄で、在野の宗教・聖書研究家だそうだ。30代ながらその分野で評価が高く著書も数冊出している。だが、人嫌いで付き合っている友人もほとんどいない。執事はおろか召使すら置いていなかった。だから、いつもはシーモア氏自身がドアを開きメッセージを受け取ってチップを手ずから渡してくれるのだが。
それにしても遅すぎる。ヒューはドアに耳を押し当てた。
「だめだ、近づいて来る気配さえない……あ!」
何気なく押しやるとドアが開いた。鍵がかかっていない――
ヒューは振り返って言った。
「エド、一緒に入ってみようぜ」
玄関ホールは真っ暗でシンと静まり返っていた。狭い廊下を挟んで向かって左が応接室と食堂、その奥がキッチンのはず。そちらのドアはぴったりと閉まっていた。左側が書斎でシーモア氏はいつもここにいる。こちらはドアが薄く開いていた。首だけ入れて覗き込んだ刹那、二人は凍りついた。
なんと異様な光景――
床中にビー玉が派手に散らばっている。壁の前に置かれた大きなマホガニーの机は引き出しが全て引き出されて、椅子がひっくり返り、その椅子の横にシーモア氏自身が仰向けに倒れていた。
シーモア氏は全裸で、右手にガウンを掴み、左手は一冊の本の上に投げ出されていた。
何より印象深いのは、胸に突き刺さったナイフだ。
窓から射す月の光がこれら全てを一幅の絵画のごとく浮き上がらせている。
エドガーが我に返ったのは真横にいたヒューが動いたせいだ。ヒューはローラースケートを脱ぐと颯爽と部屋へ入って行くではないか。反射的にエドガーもその背を追った。
「気をつけろ、エド、マーブルを踏むなよ」
「うん、わかってる……」
転がっているマーブルは勿論、椅子や、何より、シーモア氏の死体を慎重に避けて机へ辿り着く。机の上には紙片が一枚。
〈 宝 盗まれた だがニセモノ ニセモノを持つ者が 殺人者――〉
そこまで書いてシーモア氏は力尽きたらしく、最後の線はクニャリと曲がって唐突に終わっていた。
これぞ、瀕死のシーモア氏が残したダイイングメッセージ……?
「書置きに触るなよ、見るだけにしろ」
ヒューが囁いた。それから、片目をつぶって、
「なんてこった、今日ばかりはシーモア氏の方がメッセンジャーだな」
絶妙な時に絶妙なことを言う。こんな処もエドガーがヒューを尊敬する理由だ。ウィンクを返すエドガー。ヒューの視線は紙片からシーモア氏に移動していた。釣られてエドもそっちを見る。
思いのほかシーモア氏の顔は静かだった。苦悶というより思索するように眉を寄せ、見開かれたままの青い目はじっと天井を睨んでいる。グッショリ濡れた金色の髪。胸に刺さったナイフは見ないようにして、両手を凝視する。右手のガウン、次に左手の先を眺めてエドガーはギョッとした。手の下に月を見た気がしたからだ。反射的に振り返って窓を見る。ああ、良かった! 月は盗まれていない。ちゃんと空に残っている。
馬鹿なことを考えたものだ、とすぐエドガーは苦笑した。やはり、生まれて初めて死体を見て動揺しているのだ。
月が覗いている窓から風が吹いて来た。ゴブラン織りのカーテンが微かに揺れている。
「これからどうするの、ヒュー?」
「勿論、警察へ知らせるさ!」
ローラースケートを履いて、二人は再び本業のメッセンジャーボーイに戻った。
月夜のロンドンをヴィクトリア・エンバーメント通りまでブッ飛ばす。
そこに移転したばかりのニュー・スコットランドヤード、ロンドン警視庁がある。
エドガーはこの感じが大好きだ。そう、疾風になった気分。
昼間、我が物顏に往来を占領している馬車や荷車たちもこの時間は消え失せて、縦横無尽に走り回るのはメッセンジャーボーイズ!
1851年、ポール・J・ロイター卿は通信社〈テレグラフ・エージェンシー〉を創建した。その際、船便で届く世界中からの貴重な情報を、何処よりも早くそれを必要とする人々に伝達するために組織したのが、その名の通り、〈少年伝令部隊〉だった。
まだ電信機器が未発達だったこの頃、10歳~16、7歳までの少年たちに揃いの制服――グレイの地に緑の縁取りの上着、揃いの膝丈のズボン、帽子付き――を着せ大都市ロンドンに解き放った。三交代制で昼番・夜番編成。特に圧巻が夜番だ。少年たちは足にローラースケートを履いて凄まじいスピードで走り回った。石畳の道路が立てる騒音に『眠れない』と毎夜苦情が殺到したほどだ。
エドガー・タッカーは14歳。そんなメッセンジャーボーイに採用されて未だ半年の新参者である。だが、持ち前のすばしっこさで今や一目置かれている。唯一、どうしても抜けないのがヒュー・バード、まさに今、眼前を奔るあの背中――
一番駆け配達者には3ポンドのボーナスが出る。万が一途中でへばったり抜かされたなら交代してボーナスの権利を勝ち取れる、それが社のルールだ。
とはいえ、ヒユ―を追いかけるヤツなどいない。彼がヘマをすることなどあり得ないから。仲間は皆、ヒユ―の取らなかった伝言に飛びつくのが常だ。確実に3ポンドを稼ぐために。
「だが、僕は違う、負けるもんか! 今日こそ先に玄関に入ってやる」
「ふん、またおまえか、エド? 諦めが悪いな。俺を抜くには100年早いさ」
弾丸のようにシティ・オブ・ウェストミンスター地区の闇を斬り裂いて疾走する二人。
6月初旬の月の輝く今宵、目指すはメリルボーンストリート……
やがて見えて来た、あれだ、白い煉瓦の建物。ジョージ朝様式の古風な棟続きの集合住宅の一番端。低い階段を一気に飛び越えて玄関扉に突進する。ノッカーを掴んだのは――
ヒューだった。高らかに響く声。
「ルパート・シーモアさん! テレグラフ・エージェンシーです。メッセージをお持ちしましたっ!」
エドガーは自分の帽子を毟り取って悔しがった。
「クソッ、あと少しだったのに」
「悪いな、エド。だが中々の腕――いや、足だったぜ。チビ助にしては褒めてやるよ」
「え?……そ、それは、どうも、ヒュー」
実は、正直なところエドガーはヒューが嫌いではない。むしろ誰よりも憧れて尊敬していた。
ヒュー・バードは背が高くて大人びている。夜空のような漆黒の髪、そのせいか灰色の瞳がチカッと瞬く星に見える。ああ、いつか自分もあんな風になりたい。背だって、今はヒューの肩の辺りだけど、せめて鼻先くらいには届きたいものだ。だから、こんな風に率直に褒めらると息がつまるほど嬉しかった。頬を染めて返事の代わりに親指を立て身を翻す。さあ、早く社へ戻って届いてる別の伝言を運ぶとするか。夜は長い。3ポンド稼ぐチャンスはまだある。その時、肩に手が伸びて引き戻された。
「待てよ、エド、どうも様子がオカシイ。変だぞ」
「?」
いつまでたってもドアが開かない。
確かに、ここの住人ルパート・シーモア氏は少々変わり者と言われている。
貴族の家柄で、在野の宗教・聖書研究家だそうだ。30代ながらその分野で評価が高く著書も数冊出している。だが、人嫌いで付き合っている友人もほとんどいない。執事はおろか召使すら置いていなかった。だから、いつもはシーモア氏自身がドアを開きメッセージを受け取ってチップを手ずから渡してくれるのだが。
それにしても遅すぎる。ヒューはドアに耳を押し当てた。
「だめだ、近づいて来る気配さえない……あ!」
何気なく押しやるとドアが開いた。鍵がかかっていない――
ヒューは振り返って言った。
「エド、一緒に入ってみようぜ」
玄関ホールは真っ暗でシンと静まり返っていた。狭い廊下を挟んで向かって左が応接室と食堂、その奥がキッチンのはず。そちらのドアはぴったりと閉まっていた。左側が書斎でシーモア氏はいつもここにいる。こちらはドアが薄く開いていた。首だけ入れて覗き込んだ刹那、二人は凍りついた。
なんと異様な光景――
床中にビー玉が派手に散らばっている。壁の前に置かれた大きなマホガニーの机は引き出しが全て引き出されて、椅子がひっくり返り、その椅子の横にシーモア氏自身が仰向けに倒れていた。
シーモア氏は全裸で、右手にガウンを掴み、左手は一冊の本の上に投げ出されていた。
何より印象深いのは、胸に突き刺さったナイフだ。
窓から射す月の光がこれら全てを一幅の絵画のごとく浮き上がらせている。
エドガーが我に返ったのは真横にいたヒューが動いたせいだ。ヒューはローラースケートを脱ぐと颯爽と部屋へ入って行くではないか。反射的にエドガーもその背を追った。
「気をつけろ、エド、マーブルを踏むなよ」
「うん、わかってる……」
転がっているマーブルは勿論、椅子や、何より、シーモア氏の死体を慎重に避けて机へ辿り着く。机の上には紙片が一枚。
〈 宝 盗まれた だがニセモノ ニセモノを持つ者が 殺人者――〉
そこまで書いてシーモア氏は力尽きたらしく、最後の線はクニャリと曲がって唐突に終わっていた。
これぞ、瀕死のシーモア氏が残したダイイングメッセージ……?
「書置きに触るなよ、見るだけにしろ」
ヒューが囁いた。それから、片目をつぶって、
「なんてこった、今日ばかりはシーモア氏の方がメッセンジャーだな」
絶妙な時に絶妙なことを言う。こんな処もエドガーがヒューを尊敬する理由だ。ウィンクを返すエドガー。ヒューの視線は紙片からシーモア氏に移動していた。釣られてエドもそっちを見る。
思いのほかシーモア氏の顔は静かだった。苦悶というより思索するように眉を寄せ、見開かれたままの青い目はじっと天井を睨んでいる。グッショリ濡れた金色の髪。胸に刺さったナイフは見ないようにして、両手を凝視する。右手のガウン、次に左手の先を眺めてエドガーはギョッとした。手の下に月を見た気がしたからだ。反射的に振り返って窓を見る。ああ、良かった! 月は盗まれていない。ちゃんと空に残っている。
馬鹿なことを考えたものだ、とすぐエドガーは苦笑した。やはり、生まれて初めて死体を見て動揺しているのだ。
月が覗いている窓から風が吹いて来た。ゴブラン織りのカーテンが微かに揺れている。
「これからどうするの、ヒュー?」
「勿論、警察へ知らせるさ!」
ローラースケートを履いて、二人は再び本業のメッセンジャーボーイに戻った。
月夜のロンドンをヴィクトリア・エンバーメント通りまでブッ飛ばす。
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