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肖像画*窓辺の乙女〈1〉
しおりを挟む四月も半ばを過ぎた土曜日の夕刻。
幸運にも店内に客の姿は無く、僕と来海サンはレジ・カウンターでおしゃべりに花を咲かせていた。
僕たちが夢中で話をするとしたらミステリ関連に決まっている。この時もクリスチアナ・ブランドの名短編〈ジェミニー・クリケット事件〉はアメリカ版とイギリス版どちらが好きかを熱く語り合っていると、セーブル色の扉が開いて一人の青年が入って来た。グレイのスーツに勿忘草色のネクタイ。スッキリ刈り上げた髪はやや長めの前髪を柔らかに後ろへ流している。足を止めることなくまっすぐに僕たちのいるレジ前へやって来て一礼した。
差し出された名刺には、
〈 □□法律事務所 弁護士 矢仙 仁 〉
「……弁護士さん?」
「昨年の11月に司法修習考試を無事終えて――成り立てホヤホヤです。今日は、藁にもすがる思いでやって来ました。ぜひ、お知恵を貸していただきたいんです」
僕と同年代の青年はそう言って口を引き結んだ。凪いだ湖面を思わせる微笑み。悲しみは底深く沈殿させている。
「最愛の人を亡くしました。でも、その話をするつもりはありません。今はとにかく、約束したものを取り戻したい――それだけです」
「どうぞ、お座りください」
僕は椅子――空いていた黄色い方、ゴッホの椅子――を勧めた。
「詳細を聞かせていただけますか?」
ここで、勘の良い我が相棒・来海サンがサッと立ち上がる。
「深刻なお話のようですので、私は席を外します」
「とんでもない」
即座に若き弁護士が首を振る。
「僕の事務所でも重要案件はチームで対応します。あなたもスタッフなのでしょう? どうぞここにいて、ぜひ一緒に話を聞いてください」
再び来海サンが腰を下ろすのを待って、青年は椅子に座った。両手を軽く握って膝に置くと話し始めた。
「名刺にあるように――僕は矢仙仁、彼女の名前は郡樺音といいます。樺音さんは美術館の学芸員、美大出身で自身も絵を描きます。僕たちは家も近所、幼稚園からの幼馴染みで、いつからか人生を共にするならお互い以外いないと考えるようになりました」
有能な弁護士らしい、要点を突いた無駄のない語り口だ。
「十日前の四月六日が僕の誕生日で、僕はその日に正式に彼女にプロポーズしようと計画していたんです。遡って、一か月前の三月初旬の月曜の夕方――月曜は樺音の公休日なので――僕は仕事の帰りに彼女の自宅に寄りました。子供時代からしょっちゅう行き来している間柄です。玄関を開けてくれた母親に手土産を渡し、僕は彼女の自室のある二階へ直行しました。その際、驚かそうと思って、ノックせずにいきなりドアを開けたんです。子供染みた真似をしたものです。窓辺で絵を描いていた樺音は吃驚して飛び上がりました。そして慌てて僕を振り返って言いました。
『目を閉じて!』
大急ぎでイーゼルをむこう向きにする気配。
『もう、ひどい! この絵は、あなたの誕生日のサプライズプレゼントとしてこっそり描いてたのよ』
『そうとは知らず、ゴメン。あ、でも大丈夫、全然見てないからね』
『ふぅん? じゃ、許したげる』
眼を開けるとそこには彼女の満面の笑顔がありました。その素晴らしい笑顔に圧倒されて、ただもうモゴモゴ言い訳を言う僕。
『そ、それにさ、僕だって、誕生日に君を驚かせることがある。でも、その日まで秘密だよ!』
『まぁ、何かしら?』
ああ! あの瞬間、時が止まればよかった……」
ここで矢仙さんは俯いたものの、すぐ顔を上げた。
「続けます。泣く時間なら、存分にあるのだから。これから先、一生」
ポケットからハンカチを出して瞼を拭うと話を再開した。
「お察しの通り、幸福な誕生日は遂に訪れませんでした。その日は二人だけで会う約束をしていたのですが、当日の朝、通勤途中の事故で樺音は不帰の人となりました。正直言って、葬儀とその後の数日間、僕は、頭の中が真っ白で、ほとんど記憶がないんです」
暫しの沈黙。考えを纏めるようにじっと床を見ていた。やがて静かに顔を上げる。
「昨日、ふいに思い出して、勇気を出して彼女の自宅を尋ねました。仏壇に手を合わせた後で、僕は切り出しました。
『樺音さんが僕の誕生日に絵をプレゼントすると言っていたんです。もしよろしければそれをいただけますか?』
ご両親は快諾してくれました。お二人とも現在は引退なさっていますが職業は高校教師で、僕にとっては家族同然の、子供の頃から慣れ親しんだおじさん、おばさんです。こんなことがなかったらお父さん、お母さんと呼ぶはずの人たちでした。
『そんな約束があったとは知らなかった! すまなかったな、仁君、気がつかなくて』
『どうぞ、あの子の部屋へ行って、持って行ってちょうだい』
一人娘を亡くして、ご自身たちも辛いだろうに。お二人は気を使って、独りの方が探しやすいだろうと、僕だけを樺音の部屋へ送り出しました。階段を上がって、部屋の前に立って、深呼吸してからドアを開けました――」
眩しそうに瞬きをして矢仙さんは言った。
「あの日に返ったような気がしました。部屋はきちんと整頓されていて、何一つ変わっていません。違う処と言えば、勿論、彼女本人がいなかった。そして、イーゼルが片付けられていました。部屋の隅のスチール製の棚に今まで描いた絵を置いているのを知っていたので、僕はすぐにそちらへ行き、探し始めました。不思議なことに遭遇したのはこの時です。あの絵が何処にもないんです」
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