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第五章「盲愛の寺」
110(了)
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十兵衛とともに、勝龍寺に逃げ込み、ひとまず休むことにした。
十兵衛のために何か飯でも、なければ茶でもと思って御勝手を見たが、すでに先客がいた。
どうやら足軽のようだが、何をしているのか問うと、十兵衛に頼まれて食うものを探していたという。
十兵衛が?
誰もが疲弊し、腹の減っているときに、己だけ飯を食うようなことをしようか?
もしや、盗み食いしようとしていたのでは?
勝手な行動は、軍法で禁じられているはずだが?
問い詰めると、申し訳ございませんと頭を掻きながら出て行った。
まあいい、坂本に戻ったら、十兵衛に話して、あのものを処断してもらおう。
それよりも、何かないか………………あるのは僅かな粟だけか、まあ、腹の足しにはなるだろう、他に味噌でもないかと探していると、十兵衛が呼んでいると庄兵衛がやってきた。
「何をしているのです?」
十兵衛のために何か食べるものを………………と思ったのですが、
「兵糧を運び込む余裕もありませんでしたからね。まあ、坂本に帰ればたくさんありますから、それまで我慢です」
それは仕方がないと、十兵衛のもとに向かった。
十兵衛と八郎がいた。
意外に十兵衛は元気そうだ。
これなら、まだまだ一緒に戦えると思ったが、
「権太殿は、これより三河に赴いていただきたい」
突然のことに、言葉もなかった。
な、な、何故?
混乱する頭で、絞りだしたのが、それだ。
「某らは、これより坂本へ向かい、織田方を迎え撃つ」
それならば、吾も一緒に。
十兵衛は首を振る。
「この戦の一件が越前や甲斐、上野に伝われば、織田方が総力をあげて、坂本へと押し寄せましょう。あの〝猿〟のこと、得意の兵糧攻めを仕掛けてくるでしょう。そうなると、近江でこちら側についたものらも、離反していきましょう。坂本にはそれなりの蓄えはあるが、助力なくてはこの形勢をひっくり返すこともできませぬ。そこで権太殿には、徳川殿のもとに助力を願いに向かってもらいたいのです」
そんなことなら、他の使番でも………………
「あの徳川殿を懐柔したのは、権太殿ですよ、権太殿以外のものがいましょうか?」
確かに、家康の臥所の様子を知っているので、これで脅せば靡こうが………………
だが、この状況下で、十兵衛と離れるのは、嫌だ!
もし、いま離れたら………………
「これは、権太殿にしか、頼めぬ大事です」
し、しかし………………
「徳川殿の助力がなければ、坂本はもちませぬ、天下を取れませぬ。これは、惟任家だけでなく、天下泰平のためなのですよ」
それは分っている、だが、十兵衛のことが………………
「心配なされぬな、某は死にはいたしませぬ」
満面の笑顔 ―― あの人好きのする、心が穏やかに、だが、胸が躍ってしまうような笑顔………………吾は………………吾は、この笑顔だが好きだ!
この笑顔のために!
権太は頷いた。
「忝い」
十兵衛は八郎に、権太を家康のところまで送り届けてくれと頼んだ。
八郎は、礼次第だと答える。
「この成りなので、いますぐにと大した礼はできぬが………………」
懐を探ったり、挟箱を探ったりしていたが、
「おっ!」
と、何かを取り出した。
「売れば、いくらか金になろう」
いつぞや、信長からもらった香炉だ。
「安い礼だな」
と、八郎は受け取った。
「無事帰ってくれば、天下の半分をくれてやるよ」
八郎は笑ったが、十兵衛は真剣な顔で、
「権太殿を頼む」
八郎はしばらく十兵衛の顔を見つめていたが、しっかりとうなずい頷いた。
権太に、「ゆくぞ」と促した。
権太は、零れ落ちそうになる涙を堪え、十兵衛をしっかりと見据えて、武運を祈った。
「坂本で会いましょう」
十兵衛は、最後まで笑顔だった。
その夜、十兵衛たちは勝龍寺を出て、坂本へと向かう。
権太は三河へ………………
本当に、このまま行っていいのか?
このまま別れて大丈夫なのか?
もしや十兵衛は、死ぬつもりで権太と別れたのではないか?
道連れはできぬと、権太をわざと三河へ………………
いや、そんなはずはない。
あの十兵衛が、自ら死を選ぶはずはない。
鬼でも、神でも使う十兵衛が、諦めの悪い十兵衛が、最後の最後まで最善を尽くす十兵衛が、死ぬはずがないのだ。
だが………………
どうしても………………
嫌な予感がする………………
あの笑顔が………………気になる………………
大丈夫だ………………
きっと大丈夫だ………………
きっと………………
きっと………………
本当に………………そうか?
もし、あれが今生の別れなどになったら………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………そうだ、あれが最期になったら!
権太は踵を返し、走った。
「おい、どうした?」、八郎が慌てて追いかけてくる、「馬鹿が! どこへ行く?」
夜の小道を、藪の中を、林の中を、小雨が落ちる中を………………走って、走って、走りぬいた………………愛しい人の背中を追って………………初めて村を出たときの、あの夜のように………………
どれだけ走ったか、前方に薄明かりが見えてきた。
松明の光?
十兵衛たちか?
それにしても何やら騒がしい………………
『逃がすな! 殺れ! 殺れ!』
『あいつを捕まえろ!』
山賊か?
襲われている?
「お前、思ったよりも足が速いな。ん? あれは……」、追いついた八郎が目を凝らした、「落ち武者狩りか? まさか……?」
山賊ではない、百姓でもないよようだ、襲っている連中は陣笠を被っている ―― ということは、足軽連中か?
『こっちは殺ったぞ!』
『そいつはどうでもいい、こっちだ!』
『逃げたぞ、そっちに行った!』
と、怒声をあげている。
辺りには、刀や槍、陣笠とともに、具足を身に着けた兵の死体が、あっちこっちで倒れている。
陣笠には、桔梗の紋が………………明智の兵!
やはり十兵衛が狙われている。
騒いでいる連中を尻目に進んでいくと、見知った男が天を仰いで寝転がっている。
口からは血を流し、白目を剥いているのは、庄兵衛だ。
じゃあ、あちらで追い回されているのは………………
『こっちも殺ったぞ!』
声があがった。
足軽たちが、わっと集まり、
『止めだ!』
と、倒れた男に次々に刀を突きつける。
十兵衛!
権太は考えるまもなく、庄兵衛の傍に落ちていた刀を拾上げ、連中めがけて突進していた。
だが、簡単に躱されてしまった。
「まだ手下がいたか? こいつも殺れ!」
連中の視線が、こっちに向いた。
殺られる………………と思った瞬間、
「馬鹿たれが!」
八郎が駆けつけ、足軽連中のひとりを切り殺した。
「くそっ! やれ!」
足軽たちが、一斉に八郎に襲い掛かる。
八郎は、素早い身のこなしでこれを躱し、ひとり、もうひとりと倒していくが、
「くそっ、こいつら、ただの足軽じゃねぇな」
相手もかなり手ごわいようだ。
八郎と足軽連中がやり合っている最中に、ひとりの男が、十兵衛の懐に手を突っ込み、何やら抜き取って逃げようとしている。
「逃がすか!」
八郎が懐から苦無を取り出し投げつけると、そいつの背中に突き刺さった。
他の連中も始末し、それでも逃げようとするのを男を何とか捕まえ、桔梗文の陣笠を剥ぎ取る。
現れた顔は、勝龍寺のお勝手で食料を漁っていたあいつだ!
褒章欲しさに、敵に寝返ったか?
「てめぇ! 何者だ? 伊賀でも甲賀でもねぇな? どこ犬だ! 誰に頼まれた? 藤吉郎か?」
男は、しばらく逃げようと暴れていたが、八郎の馬鹿力に観念したのか、最後はぎりぎりと歯ぎしりを立て、口元から血を流して絶命した。
手から落ちたのは、金糸の袱紗 ―― べちょりと泥水の上に落ちる。
「これが狙いか? まったく、どこの間者だ? それにしてもお前、弱えぇくせに見境なく飛び込むんじゃねぇ! お前まで殺られたいのか!」
そんなつもりはない。
ただ、十兵衛を助けただけだ………………そうだ、十兵衛は?
男は、うつ伏せに倒れていた。
微かだが、声はする。
うう……、ううう……と唸りながら、雨でぬかるむ土の上を、まるで芋虫が這い進むように、両手を伸ばしてもがいていた。
まだ、息はある!
権太が抱き起こそうとすると、それよりも早く八郎が十兵衛にまたがり、襟首に刀をあてがった。
「天下取りの最期がこれとは…………、締まらねぇな、十兵衛よ………………、昔のよしみだ、楽にあの世に送ってやるよ。先に行った弾正親子の首でも取って、あの世で天下を取りな」
やめろ!
喉が裂けるほどに叫んで、八郎を突き飛ばす。
「痛てぇな! 何をする?」
あんたこそ、何をする!
十兵衛は、まだ生きてるんだ!
「馬鹿が! こいつは、もう駄目だ、急所をやられている。これ以上は、何をしたって苦しむだけだぞ!」
いや、生きている!
うらが、手当てするんだ。
なんとしても、助けるんだ。
権太は、呻き声をあげる十兵衛に縋りついた。
うらだって、分かっている………………この状況ではもう………………でも、でも………………
「そんなに言うんなら、お前がやってやれ! 夢から覚めて苦しまないように、てめぇの手で始末をつけてやれよ! こいつのことを想っていたんだろう、惚れていたんだろう、なら……、お前があの世に連れて行ってやれ! あの世で、天下を取らせてやれ!」
八郎が、刀を渡してくる。
権太は、震える手でそれを受け取る。
十兵衛は………………
十兵衛は………………
初めて村に来たときの十兵衛、夕闇の中で悲しく笑う十兵衛、村を出ていく十兵衛、御山の麓で再会した時の十兵衛、信長のもとにいけといった十兵衛、戦場で命を落としかけ必死で看病をした十兵衛、幾多の戦を潜り抜けてきた十兵衛、そして安土の玉座へと座り、天下人となった十兵衛………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………十兵衛は………………
十兵衛の首筋に刀をあてがう。
十兵衛は………………
十兵衛は………………
ふと、それは呻き声ではなく、何事が呟いているのだと分かった。
なにを?
「……ならぬ……、行かねば……ならぬ………………」
どこに?
「て、天下を………………取りに………………………………………………………………………………」
視線の先に見えるは、泥にまみれた金糸の袱紗………………
権太がぐっと手に力を入れると、その声は闇夜に沈んでいった。
溢れ出る想いで、目の前が霞んでみえない………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
※ ※ ※
六月十四日、明智左馬助光満は、山崎の敗戦を知り、安土城での籠城戦は無理と、坂本へと撤退 ―― そのとき、琵琶湖を馬で駆け渡ったとか。
坂本で、知恩院から抜け出した明智次右衛門光忠と合流、山崎からあがってきた堀秀政に攻められたが、これを果敢に防戦。
だが、多勢に無勢で、もはやここまでと、光満は光秀が所蔵していた刀など名品が焼失するは無念と、その目録とともに堀秀政に差し出した。
このとき、光秀秘蔵の脇差がなかったので、それを問うと、『これは光秀愛蔵のもの、死出の山で光秀に渡す』と、光満自らの腰に差したとか。
最期は、光秀の子どもや、自らの妻子らを刺し殺し、坂本に火をつけて、光忠とともに自刃した。
藤田伝五行政は奮戦しながらも、淀まで撤退、勝龍寺が落城したのを見て最期と悟り、自刃して果てた。
六月十八日、敗戦のあと行方をくらましていた斎藤内蔵助利三は、潜伏していた近江志賀郡堅田で捕まり、京市中引き廻しのうえ、六条河原で処刑された。
その遺体はのちに、十兵衛とともに三条粟田口で晒されたが、彼と親しかった絵師の海北友松らが夜間に盗み出し、真妙堂に丁重に葬った。
ちなみに、利三の娘〝福〟は、のちに徳川家光の乳母〝春日局〟となり、友松亡き後の妻子たちを手厚く保護したとか………………それは、また随分先の話である。
さて、惟任(明智)日向守光秀であるが、山崎の戦いの翌日には、小栗栖の山中に転がっていた首を、百姓どもが信孝らのもとへと持ってきた。
しかし、その損傷が激しくて、はたしてこれが光秀のものか分からない。
こんな金柑頭だったような気もするが、違うような気もする。
ただ、近くに信長が褒美として与えた香炉が落ちていたのと、その香のお陰で、首からは良き匂いがしたそうで、恐らくこれだろうと、焼け落ちた本能寺の前に晒された。
そして六月二十三日には、胴体と首をつなぎ合わせて、斎藤利三とともに三条粟田口で磔にされた。
ここに、明智光秀の天下取りは終わる。
※ ※ ※
御山の麓に、ふたりの姿があった。
焼け落ちた城跡を眺めながら、石段をあがっていく。
しばらく上がって、
「ここまでだ、坊主」
と、後ろの男は言った。
ありがとうございますと、頭を下げる。
「しかし、またこんなところに戻ってこなくても………………」
御山の寺もほとんど焼け落ちてしまったが、それでも僅かに残った御堂で、むかし馴染みたちが細々と、これまでの戦いで亡くなったものたちを弔っているらしい。
うらも、またここで、この方の、いやこの方々の御魂を弔おうかと………………
手には、大きな包みがある。
「まったく、あいつには迷惑をかけらっぱなしだったが、最後の最後までこれとはな、礼も貰いそびれたわけだし………………」
宜しかったのですか?
あの香炉を置いてきて?
男は、鼻で笑う。
「あれで、あの首がやつのものだと思うだろうよ。いいさ、どうせまた取り返しにいく。さてと、俺は………………」
どうなさるので?
「そうさな………………」、男は夏日にきらきらと煌めく湖面を眺めながら、「商人も飽きたところだ、ひと暴れするのも悪くはない、天下でも……取りに行くか………………? なんてな」
あばよ! と、石段を下りて行った。
その背中に頭をさげ、再び登っていく。
「ああ、そうだ、姉さんが、よろしくってさ!」
男の声に振り替えると、すでに姿はなかった。
何のことだろうかと首を傾げながら、上へと上がっていくと、ふと………………ああ、そういうことか………………愉快で………………悲しくて………………陽光に輝く緑が眩しく、煌めいていた。
(第五章・了)
十兵衛のために何か飯でも、なければ茶でもと思って御勝手を見たが、すでに先客がいた。
どうやら足軽のようだが、何をしているのか問うと、十兵衛に頼まれて食うものを探していたという。
十兵衛が?
誰もが疲弊し、腹の減っているときに、己だけ飯を食うようなことをしようか?
もしや、盗み食いしようとしていたのでは?
勝手な行動は、軍法で禁じられているはずだが?
問い詰めると、申し訳ございませんと頭を掻きながら出て行った。
まあいい、坂本に戻ったら、十兵衛に話して、あのものを処断してもらおう。
それよりも、何かないか………………あるのは僅かな粟だけか、まあ、腹の足しにはなるだろう、他に味噌でもないかと探していると、十兵衛が呼んでいると庄兵衛がやってきた。
「何をしているのです?」
十兵衛のために何か食べるものを………………と思ったのですが、
「兵糧を運び込む余裕もありませんでしたからね。まあ、坂本に帰ればたくさんありますから、それまで我慢です」
それは仕方がないと、十兵衛のもとに向かった。
十兵衛と八郎がいた。
意外に十兵衛は元気そうだ。
これなら、まだまだ一緒に戦えると思ったが、
「権太殿は、これより三河に赴いていただきたい」
突然のことに、言葉もなかった。
な、な、何故?
混乱する頭で、絞りだしたのが、それだ。
「某らは、これより坂本へ向かい、織田方を迎え撃つ」
それならば、吾も一緒に。
十兵衛は首を振る。
「この戦の一件が越前や甲斐、上野に伝われば、織田方が総力をあげて、坂本へと押し寄せましょう。あの〝猿〟のこと、得意の兵糧攻めを仕掛けてくるでしょう。そうなると、近江でこちら側についたものらも、離反していきましょう。坂本にはそれなりの蓄えはあるが、助力なくてはこの形勢をひっくり返すこともできませぬ。そこで権太殿には、徳川殿のもとに助力を願いに向かってもらいたいのです」
そんなことなら、他の使番でも………………
「あの徳川殿を懐柔したのは、権太殿ですよ、権太殿以外のものがいましょうか?」
確かに、家康の臥所の様子を知っているので、これで脅せば靡こうが………………
だが、この状況下で、十兵衛と離れるのは、嫌だ!
もし、いま離れたら………………
「これは、権太殿にしか、頼めぬ大事です」
し、しかし………………
「徳川殿の助力がなければ、坂本はもちませぬ、天下を取れませぬ。これは、惟任家だけでなく、天下泰平のためなのですよ」
それは分っている、だが、十兵衛のことが………………
「心配なされぬな、某は死にはいたしませぬ」
満面の笑顔 ―― あの人好きのする、心が穏やかに、だが、胸が躍ってしまうような笑顔………………吾は………………吾は、この笑顔だが好きだ!
この笑顔のために!
権太は頷いた。
「忝い」
十兵衛は八郎に、権太を家康のところまで送り届けてくれと頼んだ。
八郎は、礼次第だと答える。
「この成りなので、いますぐにと大した礼はできぬが………………」
懐を探ったり、挟箱を探ったりしていたが、
「おっ!」
と、何かを取り出した。
「売れば、いくらか金になろう」
いつぞや、信長からもらった香炉だ。
「安い礼だな」
と、八郎は受け取った。
「無事帰ってくれば、天下の半分をくれてやるよ」
八郎は笑ったが、十兵衛は真剣な顔で、
「権太殿を頼む」
八郎はしばらく十兵衛の顔を見つめていたが、しっかりとうなずい頷いた。
権太に、「ゆくぞ」と促した。
権太は、零れ落ちそうになる涙を堪え、十兵衛をしっかりと見据えて、武運を祈った。
「坂本で会いましょう」
十兵衛は、最後まで笑顔だった。
その夜、十兵衛たちは勝龍寺を出て、坂本へと向かう。
権太は三河へ………………
本当に、このまま行っていいのか?
このまま別れて大丈夫なのか?
もしや十兵衛は、死ぬつもりで権太と別れたのではないか?
道連れはできぬと、権太をわざと三河へ………………
いや、そんなはずはない。
あの十兵衛が、自ら死を選ぶはずはない。
鬼でも、神でも使う十兵衛が、諦めの悪い十兵衛が、最後の最後まで最善を尽くす十兵衛が、死ぬはずがないのだ。
だが………………
どうしても………………
嫌な予感がする………………
あの笑顔が………………気になる………………
大丈夫だ………………
きっと大丈夫だ………………
きっと………………
きっと………………
本当に………………そうか?
もし、あれが今生の別れなどになったら………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………そうだ、あれが最期になったら!
権太は踵を返し、走った。
「おい、どうした?」、八郎が慌てて追いかけてくる、「馬鹿が! どこへ行く?」
夜の小道を、藪の中を、林の中を、小雨が落ちる中を………………走って、走って、走りぬいた………………愛しい人の背中を追って………………初めて村を出たときの、あの夜のように………………
どれだけ走ったか、前方に薄明かりが見えてきた。
松明の光?
十兵衛たちか?
それにしても何やら騒がしい………………
『逃がすな! 殺れ! 殺れ!』
『あいつを捕まえろ!』
山賊か?
襲われている?
「お前、思ったよりも足が速いな。ん? あれは……」、追いついた八郎が目を凝らした、「落ち武者狩りか? まさか……?」
山賊ではない、百姓でもないよようだ、襲っている連中は陣笠を被っている ―― ということは、足軽連中か?
『こっちは殺ったぞ!』
『そいつはどうでもいい、こっちだ!』
『逃げたぞ、そっちに行った!』
と、怒声をあげている。
辺りには、刀や槍、陣笠とともに、具足を身に着けた兵の死体が、あっちこっちで倒れている。
陣笠には、桔梗の紋が………………明智の兵!
やはり十兵衛が狙われている。
騒いでいる連中を尻目に進んでいくと、見知った男が天を仰いで寝転がっている。
口からは血を流し、白目を剥いているのは、庄兵衛だ。
じゃあ、あちらで追い回されているのは………………
『こっちも殺ったぞ!』
声があがった。
足軽たちが、わっと集まり、
『止めだ!』
と、倒れた男に次々に刀を突きつける。
十兵衛!
権太は考えるまもなく、庄兵衛の傍に落ちていた刀を拾上げ、連中めがけて突進していた。
だが、簡単に躱されてしまった。
「まだ手下がいたか? こいつも殺れ!」
連中の視線が、こっちに向いた。
殺られる………………と思った瞬間、
「馬鹿たれが!」
八郎が駆けつけ、足軽連中のひとりを切り殺した。
「くそっ! やれ!」
足軽たちが、一斉に八郎に襲い掛かる。
八郎は、素早い身のこなしでこれを躱し、ひとり、もうひとりと倒していくが、
「くそっ、こいつら、ただの足軽じゃねぇな」
相手もかなり手ごわいようだ。
八郎と足軽連中がやり合っている最中に、ひとりの男が、十兵衛の懐に手を突っ込み、何やら抜き取って逃げようとしている。
「逃がすか!」
八郎が懐から苦無を取り出し投げつけると、そいつの背中に突き刺さった。
他の連中も始末し、それでも逃げようとするのを男を何とか捕まえ、桔梗文の陣笠を剥ぎ取る。
現れた顔は、勝龍寺のお勝手で食料を漁っていたあいつだ!
褒章欲しさに、敵に寝返ったか?
「てめぇ! 何者だ? 伊賀でも甲賀でもねぇな? どこ犬だ! 誰に頼まれた? 藤吉郎か?」
男は、しばらく逃げようと暴れていたが、八郎の馬鹿力に観念したのか、最後はぎりぎりと歯ぎしりを立て、口元から血を流して絶命した。
手から落ちたのは、金糸の袱紗 ―― べちょりと泥水の上に落ちる。
「これが狙いか? まったく、どこの間者だ? それにしてもお前、弱えぇくせに見境なく飛び込むんじゃねぇ! お前まで殺られたいのか!」
そんなつもりはない。
ただ、十兵衛を助けただけだ………………そうだ、十兵衛は?
男は、うつ伏せに倒れていた。
微かだが、声はする。
うう……、ううう……と唸りながら、雨でぬかるむ土の上を、まるで芋虫が這い進むように、両手を伸ばしてもがいていた。
まだ、息はある!
権太が抱き起こそうとすると、それよりも早く八郎が十兵衛にまたがり、襟首に刀をあてがった。
「天下取りの最期がこれとは…………、締まらねぇな、十兵衛よ………………、昔のよしみだ、楽にあの世に送ってやるよ。先に行った弾正親子の首でも取って、あの世で天下を取りな」
やめろ!
喉が裂けるほどに叫んで、八郎を突き飛ばす。
「痛てぇな! 何をする?」
あんたこそ、何をする!
十兵衛は、まだ生きてるんだ!
「馬鹿が! こいつは、もう駄目だ、急所をやられている。これ以上は、何をしたって苦しむだけだぞ!」
いや、生きている!
うらが、手当てするんだ。
なんとしても、助けるんだ。
権太は、呻き声をあげる十兵衛に縋りついた。
うらだって、分かっている………………この状況ではもう………………でも、でも………………
「そんなに言うんなら、お前がやってやれ! 夢から覚めて苦しまないように、てめぇの手で始末をつけてやれよ! こいつのことを想っていたんだろう、惚れていたんだろう、なら……、お前があの世に連れて行ってやれ! あの世で、天下を取らせてやれ!」
八郎が、刀を渡してくる。
権太は、震える手でそれを受け取る。
十兵衛は………………
十兵衛は………………
初めて村に来たときの十兵衛、夕闇の中で悲しく笑う十兵衛、村を出ていく十兵衛、御山の麓で再会した時の十兵衛、信長のもとにいけといった十兵衛、戦場で命を落としかけ必死で看病をした十兵衛、幾多の戦を潜り抜けてきた十兵衛、そして安土の玉座へと座り、天下人となった十兵衛………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………十兵衛は………………
十兵衛の首筋に刀をあてがう。
十兵衛は………………
十兵衛は………………
ふと、それは呻き声ではなく、何事が呟いているのだと分かった。
なにを?
「……ならぬ……、行かねば……ならぬ………………」
どこに?
「て、天下を………………取りに………………………………………………………………………………」
視線の先に見えるは、泥にまみれた金糸の袱紗………………
権太がぐっと手に力を入れると、その声は闇夜に沈んでいった。
溢れ出る想いで、目の前が霞んでみえない………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
※ ※ ※
六月十四日、明智左馬助光満は、山崎の敗戦を知り、安土城での籠城戦は無理と、坂本へと撤退 ―― そのとき、琵琶湖を馬で駆け渡ったとか。
坂本で、知恩院から抜け出した明智次右衛門光忠と合流、山崎からあがってきた堀秀政に攻められたが、これを果敢に防戦。
だが、多勢に無勢で、もはやここまでと、光満は光秀が所蔵していた刀など名品が焼失するは無念と、その目録とともに堀秀政に差し出した。
このとき、光秀秘蔵の脇差がなかったので、それを問うと、『これは光秀愛蔵のもの、死出の山で光秀に渡す』と、光満自らの腰に差したとか。
最期は、光秀の子どもや、自らの妻子らを刺し殺し、坂本に火をつけて、光忠とともに自刃した。
藤田伝五行政は奮戦しながらも、淀まで撤退、勝龍寺が落城したのを見て最期と悟り、自刃して果てた。
六月十八日、敗戦のあと行方をくらましていた斎藤内蔵助利三は、潜伏していた近江志賀郡堅田で捕まり、京市中引き廻しのうえ、六条河原で処刑された。
その遺体はのちに、十兵衛とともに三条粟田口で晒されたが、彼と親しかった絵師の海北友松らが夜間に盗み出し、真妙堂に丁重に葬った。
ちなみに、利三の娘〝福〟は、のちに徳川家光の乳母〝春日局〟となり、友松亡き後の妻子たちを手厚く保護したとか………………それは、また随分先の話である。
さて、惟任(明智)日向守光秀であるが、山崎の戦いの翌日には、小栗栖の山中に転がっていた首を、百姓どもが信孝らのもとへと持ってきた。
しかし、その損傷が激しくて、はたしてこれが光秀のものか分からない。
こんな金柑頭だったような気もするが、違うような気もする。
ただ、近くに信長が褒美として与えた香炉が落ちていたのと、その香のお陰で、首からは良き匂いがしたそうで、恐らくこれだろうと、焼け落ちた本能寺の前に晒された。
そして六月二十三日には、胴体と首をつなぎ合わせて、斎藤利三とともに三条粟田口で磔にされた。
ここに、明智光秀の天下取りは終わる。
※ ※ ※
御山の麓に、ふたりの姿があった。
焼け落ちた城跡を眺めながら、石段をあがっていく。
しばらく上がって、
「ここまでだ、坊主」
と、後ろの男は言った。
ありがとうございますと、頭を下げる。
「しかし、またこんなところに戻ってこなくても………………」
御山の寺もほとんど焼け落ちてしまったが、それでも僅かに残った御堂で、むかし馴染みたちが細々と、これまでの戦いで亡くなったものたちを弔っているらしい。
うらも、またここで、この方の、いやこの方々の御魂を弔おうかと………………
手には、大きな包みがある。
「まったく、あいつには迷惑をかけらっぱなしだったが、最後の最後までこれとはな、礼も貰いそびれたわけだし………………」
宜しかったのですか?
あの香炉を置いてきて?
男は、鼻で笑う。
「あれで、あの首がやつのものだと思うだろうよ。いいさ、どうせまた取り返しにいく。さてと、俺は………………」
どうなさるので?
「そうさな………………」、男は夏日にきらきらと煌めく湖面を眺めながら、「商人も飽きたところだ、ひと暴れするのも悪くはない、天下でも……取りに行くか………………? なんてな」
あばよ! と、石段を下りて行った。
その背中に頭をさげ、再び登っていく。
「ああ、そうだ、姉さんが、よろしくってさ!」
男の声に振り替えると、すでに姿はなかった。
何のことだろうかと首を傾げながら、上へと上がっていくと、ふと………………ああ、そういうことか………………愉快で………………悲しくて………………陽光に輝く緑が眩しく、煌めいていた。
(第五章・了)
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主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。
ご興味を持たれた方は是非どうぞ!
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大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
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【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
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永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
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本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
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