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第五章「盲愛の寺」
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十兵衛は、そのまま坂本へ戻ると言っていたが、秀吉からの報せに足止めをくらった。
甲斐への進軍を見計らうように、毛利も動いた。
毛利勢の穂井田元清が児島へと侵攻、これを守るために宇喜多基家が出陣したが討ち死。
大将を失ってしまった宇喜多勢であったが、何とか八浜で食い止めた。
基家は、宇喜多家先代当主直家の養子となり、十歳になったばかりの現当主秀家の名代を務めるなどの、行く末を嘱望されていた。
その基家を失ったのだから、宇喜多家が浮足立つのも分かる。
これはまずいと、秀吉はすぐに宇喜多家への助力に向かった。
宇喜多家は、毛利との最前線にいる。
これを破られれば……、また再び宇喜多が毛利方につけば……、秀吉としては大打撃だ。
秀吉は、二万の兵で出陣。
それとともに、児島の常山に羽柴秀勝を向かわせ、秀勝はここを奪取 ―― 秀勝にとって初陣であり、これを聞いた殿は酷く喜んでいた。
秀吉は、宇喜多が旗を翻すことがないことを確認すると、宇喜多の兵一万をあわせて三万で毛利勢の守る備中へと雪崩れ込んだ。
毛利勢もここが勝負の分かれ目と、備中・備前の境界線に七つの城を築かせ、これを迎え撃つ ―― 北より宮路山、冠山、備中高松、加茂、日幡、庭瀬、松島の備中七城(境目七城)である。
秀吉は、そのひとつ ―― 毛利方清水宗治率いる五千の兵が立て籠もる備中高松城に狙いをつけ、対峙する竜王山に布陣。
沼城であったことに加え、敵方の巧みな戦法になかなか手が出せない、ならばと備中・備後二国をやるとの条件で開城を促したが、これも拒否されたらしい。
「羽柴殿は、鳥取と同じく、兵糧攻めを考えておるようですな」
十兵衛は、秀吉から送られてきた書状に目を通しながら言った。
「兵糧攻め? それでいつになったら落ちるのだ?」
「鳥取のときは………………」
十兵衛は太若丸を見た ―― 四月余り………………と、答える。
「四月? その前の三木を落とすのに、どのぐらいかかった?」
あれは確か、二年ぐらいかかったはず。
「此度の相手は、毛利ぞ? あちらも、ここが勝負時と背水の陣で挑むはず。毛利が大軍をもってやってきてみろ、今年中に落とせるのか? 毛利を潰せるのか?」
秀吉は、得意の兵糧攻めで、こちらの被害をできる限り少なくしようとの考えのようだが、殿は、それが気に食わないようだ。
「儂も、今年が勝負時なのだぞ! あいつが備中高松を落とすのを待っていたら、死んでしまうわ! もしやあいつは、儂が死ぬのを待っておるのではあるまいな?」
「そのようなことは、ないかと………………」
「勘九郎は、あの武田をふた月もかからずに落としたぞ。生ぬるい! 押しきれと伝えよ!」
「しかし、それですと、御味方に相当の被害が………………」
「構わん! 幾ら犠牲を出してでも構わん、早急に落とせと申せ!」
「流石に……、羽柴殿、宇喜多殿あわせて三万の兵だけでは、毛利に対抗するのは難しいかと………………、さすれば、某が助力に向かいまするが?」
「十兵衛が? いや、おぬしは狸退治があろうが?」
「ならば………………、狸も、西の鵺も退治できるように策を考えまするか?」
「斯様な策などあるのか?」
「思案いたしまする」
「うむ……、分かった。一色(満信)、長岡(細川藤孝)に、すぐにでも出陣できるよう仕度をせよと伝えよ」
その夜、十兵衛は太若丸の屋敷に泊まることとなった。
濁酒と適当な肴を目の前に、十兵衛はじっと考えていた ―― 毛利と徳川両方を倒す策………………か?
それとも………………?
太若丸は邪魔にならぬように傍らに座し、その思案に暮れる横顔を眺める。
相変わらず惚れ惚れする顔である。
このままずっと眺めていたい。
ずっと十兵衛の傍にいたい ―― その想いは、あの時から変わっていはいない。
ずっと………………と眺めていると、ふいに十兵衛と目が合い、ふと笑った顔に、また惚れ直してしまった。
「濁酒を頂きましょう」
差し出した杯に、濁酒を注ぐ。
「こうやって……、ふたりっきりになるのは、随分久しぶりですな」
左様ですね………………
「しかし、権太殿とも、随分長い付き合いになりましたな。あの村で出会ってから、もう何年ですか?」
十五、六年にもなろうか?
「あのときは、可愛い稚児さんでしたが、いまは立派な武士だ」
十兵衛様は、立派なお殿様でございまする。
「素性も宜しからぬ流浪人が、一国一城の主になれたのも、大殿のお陰………………」
確かに、それもあろう。
だが、そこまでに至ったのは、十兵衛が汗水流したお陰ではないか?
「まあ、良くとらえれば左様ですが……、どんなに力を尽くして働こうとも、それを認め、引っ張り上げてもらえる人がおらねば、流した汗も水の泡………………、それを思えば、某は運が良い、大殿に出会えたのですから………………、そして………………、大殿を倒すことができるのですから」
囲炉裏の火のせいか、十兵衛の目が獲物を狙う野獣のようにきらりと光った。
十兵衛の天下取りの一番の壁は、もちろん織田家である。
信長に、現当主信忠、さらに北畠信雄(信勝からまた改名した)、神戸信孝、信包………………その結束は固い。
「確かに、強固ではありまするが、大黒柱を切り倒してしまえば、如何なる城も簡単に倒れるもの」
信長、信忠を倒せば、織田家は滅ぶ。
現当主の信忠は、若さゆえに功を焦り、自ら罠にはまろう。
厄介なのは信長である。
いまは戦場にでることはほとんどないが、これまで幾多の死線を潜り抜けてきた悪運の持ち主。
大軍を以てして攻めても、逃げられればお終い。
一度で喉元に食らいつかねば、その倍で返される。
これを確実に殺るには、絶対に逃げだせないような状況を作らねばなるまい、如何にすべきか?
十兵衛が、腕を組んで天を仰ぎ見る ―― 思案するときの癖だ。
昔はよく見たものだが、あれで良い案が浮かぶのだろうか?
ならばと、太若丸も腕を組み、天井を見上げる。
囲炉裏に吊るした鍋から湯煙が沸きあがり、格子に組まれた火棚の間を抜けていく………………ああ、思い当たった!
「本能寺!」
十兵衛も同じようだ。
信長は本能寺を己の宿舎というよりも、敵をそこにおびき寄せ、閉じ込めてしまおうという意図で手を加えていたはず………………
「大殿を本能寺から出られないようしてしまえば、こちらのものです」
十兵衛は、にやりと笑う………………その嫌らしい笑みときたら………………
「あとは、どうやって大殿を誘い込むか?」
兎よりも警戒心の強い信長である。
生半可な筋立てでは、のこのこと罠にはまってはくれないであろう。
信長を罠にはめるには………………
「狸退治の筋書きができたと?」
信長の問いに、十兵衛は頷いた。
「それは、如何様な?」
「先の礼と称して、徳川殿を本能寺に招かれてはいかがでしょうか?」
「本能寺に? うむ……」、信長は不服そうである、「しかし、あそこではあまりにも貧相ではないか? それよりも、この安土の方が良かろう。この安土を見せて、誰がまことの天下人か、見せつけてやろう。それに近々、帝の女房衆も下ってくるそうだ」
何用で?
「三職のいずれかを推認すると、武家伝奏の勧修寺殿がゆうてきたと、吉兵衛(村井貞勝)から書状がきた」
太政大臣、関白、征夷大将軍の三職のうち、どれでも信長が欲するものを申せ………………と、朝廷も大胆なことを言ってきたらしい。
武田を滅ぼし、東は北条を傘下におさめ、西は毛利を追い詰めているいま、朝廷としては、どうしても信長を配下にいれておきたいのだろう ―― でなければ、何をするわ分からない………………という怖さがあるのだろう。
ちなみに、このときの太政大臣は今年二月に補任されたばかりの近衛前久、関白は一条内基、征夷大将軍はいまだ足利義昭である。
「いずれかを……、お受けになるので?」
十兵衛は探り探り訊ねる。
「儂がか?」、信長は一笑する、「なぜ儂が、あいつらの下につかねばならぬ? 儂は、神になるのじゃぞ?」
「御尤もで」
「が……、織田家として全てを受ける」
「それは……、如何様な?」
「勘九郎(信忠)に太政大臣を、三介(信雄)に関白を、三七(信孝)に征夷大将軍をやる」
やるなどと………………信長が補任するのではないのだが………………
「織田家が三職を受けるところを狸に見せつけ、誰が天下の主か、教えてやるわい」
「それは………………」、十兵衛は笑顔で言った、「宜しいですな」
その心中は如何ほどか?
「されど、狸のことです、大殿を化かしにくるやもしれませぬ。ここは、しっかりと仕留めた方が得策でござりまする。それに、安土は大殿が神として降臨なされる場所、ここを汚すのは如何ほどかと。それよりは、本能寺に差し込んで、確実に仕留めたほうが宜しいかと」
「うむ……、確かに。しかし、どう仕留める? 狸は臆病者じゃからのう、自ら罠には飛び込んでこんぞ」
「さすれば、狸が安心できるように、大殿は僅かなお供だけで本能寺に入ってもらいまする。されど、それだけでは疑り深い狸のこと、罠に入るのを嫌がるでしょう。そのために、某に羽柴殿の助力のためにと中国出陣をご命じくだされ。また、惟住(丹羽)殿には四国へと」
織田家家臣団の筆頭格柴田勝家は越前にいる、猛将の滝川一益は上野である、羽柴秀吉は備中高松で毛利と対峙中、ここに十兵衛が助力に向かい、家臣団次席格の惟住(丹羽)長秀が四国へと出兵となると、主要な家臣団が出払い、信長本陣を守るは僅かな手勢となる。
「なるほど、さすれば流石の狸も、儂の招きを断れぬか?」
「某は、西へと出兵するかに見せかけ、桂川を渡って鳥羽へと進出、大殿が狸をしこたま酔わせていただき、気持ちよく寝込んだところを襲撃!」
「うむ、十兵衛、おぬしも悪よのう、本能寺を逃げられぬ落とし穴として使う気か。面白い! 面白いぞ! 流石は十兵衛じゃ!」
信長は大喜びだ。
「それに際して、大殿にもお願いがござります」
「うむ、分かった、狸にしこたま酒を飲ませばよいのじゃな? 足腰立たないほど飲ませてやるぞ」
「はあ、それもございまするが………………」
「なんじゃ? 他に何かあるのか? 申してみい、狸退治のためなら、何でもしようぞ」
「ならば……、大殿にも死んでいただきたく………………」
先ほどのまでの笑顔の信長はどこへやら、急に険しい顔になった。
「この儂に……、死ねと?」
十兵衛は、信長をまっすぐと見つめ、「左様にござりまする」
「どういうことじゃ、十兵衛?」
落ち着いた口調だが、蟀谷あたりがひくついている。
「どうもこうもありませぬ、死んでもらいたいと申しておりまする」
「おぬし………………」、信長は立ち上がると、乱から刀を奪い取り、抜いた、「もう一度ゆうてみよ、十兵衛」
十兵衛の喉元に、切っ先を突きつける。
だが、十兵衛は恐れもせず、ぎっと睨みつけている。
「儂に死ねと!」
「左様でござりまする。大殿には一度死んでいただき、神として復活していただきたいと」
「なんと、神とな?」
「死んでいただきたいと申したのは、あくまで言葉のあやにござりまする。某が本能寺を襲撃いたしまする前に、大殿はお逃げ遊ばし、しばらくどこかで隠れていただき、数日して、この安土で神として復活なさっていただきたいのです」
「なるほど、なるほど」
「大殿が亡くなったと聞けば、織田家の中で必ず我こそはと天下を狙うものが出てきましょう。そのものに対して、神となられた大殿が、某に追討命令を出していただければ、某らは神の兵として、北は奥州から西は鎮西、はては唐天竺、南蛮まで平らかにしていくことでしょう」
信長は刀を下ろすと、城が揺れるほどに大笑いした。
「良かろう、十兵衛、死んでやる! 死んで神となり、この世を儂のものにしてやる! 十兵衛、その策を進めよ!」
「畏まり候」
徳川家康を饗応するためにと、十兵衛がその役を仰せつかった。
細かい打合せの後、殿が不意に口を開いた。
「ときに十兵衛、家臣らのなかで、裏を返しそうなやつは……、誰じゃ?」
「羽柴殿」
殿は、にやりと笑った。
甲斐への進軍を見計らうように、毛利も動いた。
毛利勢の穂井田元清が児島へと侵攻、これを守るために宇喜多基家が出陣したが討ち死。
大将を失ってしまった宇喜多勢であったが、何とか八浜で食い止めた。
基家は、宇喜多家先代当主直家の養子となり、十歳になったばかりの現当主秀家の名代を務めるなどの、行く末を嘱望されていた。
その基家を失ったのだから、宇喜多家が浮足立つのも分かる。
これはまずいと、秀吉はすぐに宇喜多家への助力に向かった。
宇喜多家は、毛利との最前線にいる。
これを破られれば……、また再び宇喜多が毛利方につけば……、秀吉としては大打撃だ。
秀吉は、二万の兵で出陣。
それとともに、児島の常山に羽柴秀勝を向かわせ、秀勝はここを奪取 ―― 秀勝にとって初陣であり、これを聞いた殿は酷く喜んでいた。
秀吉は、宇喜多が旗を翻すことがないことを確認すると、宇喜多の兵一万をあわせて三万で毛利勢の守る備中へと雪崩れ込んだ。
毛利勢もここが勝負の分かれ目と、備中・備前の境界線に七つの城を築かせ、これを迎え撃つ ―― 北より宮路山、冠山、備中高松、加茂、日幡、庭瀬、松島の備中七城(境目七城)である。
秀吉は、そのひとつ ―― 毛利方清水宗治率いる五千の兵が立て籠もる備中高松城に狙いをつけ、対峙する竜王山に布陣。
沼城であったことに加え、敵方の巧みな戦法になかなか手が出せない、ならばと備中・備後二国をやるとの条件で開城を促したが、これも拒否されたらしい。
「羽柴殿は、鳥取と同じく、兵糧攻めを考えておるようですな」
十兵衛は、秀吉から送られてきた書状に目を通しながら言った。
「兵糧攻め? それでいつになったら落ちるのだ?」
「鳥取のときは………………」
十兵衛は太若丸を見た ―― 四月余り………………と、答える。
「四月? その前の三木を落とすのに、どのぐらいかかった?」
あれは確か、二年ぐらいかかったはず。
「此度の相手は、毛利ぞ? あちらも、ここが勝負時と背水の陣で挑むはず。毛利が大軍をもってやってきてみろ、今年中に落とせるのか? 毛利を潰せるのか?」
秀吉は、得意の兵糧攻めで、こちらの被害をできる限り少なくしようとの考えのようだが、殿は、それが気に食わないようだ。
「儂も、今年が勝負時なのだぞ! あいつが備中高松を落とすのを待っていたら、死んでしまうわ! もしやあいつは、儂が死ぬのを待っておるのではあるまいな?」
「そのようなことは、ないかと………………」
「勘九郎は、あの武田をふた月もかからずに落としたぞ。生ぬるい! 押しきれと伝えよ!」
「しかし、それですと、御味方に相当の被害が………………」
「構わん! 幾ら犠牲を出してでも構わん、早急に落とせと申せ!」
「流石に……、羽柴殿、宇喜多殿あわせて三万の兵だけでは、毛利に対抗するのは難しいかと………………、さすれば、某が助力に向かいまするが?」
「十兵衛が? いや、おぬしは狸退治があろうが?」
「ならば………………、狸も、西の鵺も退治できるように策を考えまするか?」
「斯様な策などあるのか?」
「思案いたしまする」
「うむ……、分かった。一色(満信)、長岡(細川藤孝)に、すぐにでも出陣できるよう仕度をせよと伝えよ」
その夜、十兵衛は太若丸の屋敷に泊まることとなった。
濁酒と適当な肴を目の前に、十兵衛はじっと考えていた ―― 毛利と徳川両方を倒す策………………か?
それとも………………?
太若丸は邪魔にならぬように傍らに座し、その思案に暮れる横顔を眺める。
相変わらず惚れ惚れする顔である。
このままずっと眺めていたい。
ずっと十兵衛の傍にいたい ―― その想いは、あの時から変わっていはいない。
ずっと………………と眺めていると、ふいに十兵衛と目が合い、ふと笑った顔に、また惚れ直してしまった。
「濁酒を頂きましょう」
差し出した杯に、濁酒を注ぐ。
「こうやって……、ふたりっきりになるのは、随分久しぶりですな」
左様ですね………………
「しかし、権太殿とも、随分長い付き合いになりましたな。あの村で出会ってから、もう何年ですか?」
十五、六年にもなろうか?
「あのときは、可愛い稚児さんでしたが、いまは立派な武士だ」
十兵衛様は、立派なお殿様でございまする。
「素性も宜しからぬ流浪人が、一国一城の主になれたのも、大殿のお陰………………」
確かに、それもあろう。
だが、そこまでに至ったのは、十兵衛が汗水流したお陰ではないか?
「まあ、良くとらえれば左様ですが……、どんなに力を尽くして働こうとも、それを認め、引っ張り上げてもらえる人がおらねば、流した汗も水の泡………………、それを思えば、某は運が良い、大殿に出会えたのですから………………、そして………………、大殿を倒すことができるのですから」
囲炉裏の火のせいか、十兵衛の目が獲物を狙う野獣のようにきらりと光った。
十兵衛の天下取りの一番の壁は、もちろん織田家である。
信長に、現当主信忠、さらに北畠信雄(信勝からまた改名した)、神戸信孝、信包………………その結束は固い。
「確かに、強固ではありまするが、大黒柱を切り倒してしまえば、如何なる城も簡単に倒れるもの」
信長、信忠を倒せば、織田家は滅ぶ。
現当主の信忠は、若さゆえに功を焦り、自ら罠にはまろう。
厄介なのは信長である。
いまは戦場にでることはほとんどないが、これまで幾多の死線を潜り抜けてきた悪運の持ち主。
大軍を以てして攻めても、逃げられればお終い。
一度で喉元に食らいつかねば、その倍で返される。
これを確実に殺るには、絶対に逃げだせないような状況を作らねばなるまい、如何にすべきか?
十兵衛が、腕を組んで天を仰ぎ見る ―― 思案するときの癖だ。
昔はよく見たものだが、あれで良い案が浮かぶのだろうか?
ならばと、太若丸も腕を組み、天井を見上げる。
囲炉裏に吊るした鍋から湯煙が沸きあがり、格子に組まれた火棚の間を抜けていく………………ああ、思い当たった!
「本能寺!」
十兵衛も同じようだ。
信長は本能寺を己の宿舎というよりも、敵をそこにおびき寄せ、閉じ込めてしまおうという意図で手を加えていたはず………………
「大殿を本能寺から出られないようしてしまえば、こちらのものです」
十兵衛は、にやりと笑う………………その嫌らしい笑みときたら………………
「あとは、どうやって大殿を誘い込むか?」
兎よりも警戒心の強い信長である。
生半可な筋立てでは、のこのこと罠にはまってはくれないであろう。
信長を罠にはめるには………………
「狸退治の筋書きができたと?」
信長の問いに、十兵衛は頷いた。
「それは、如何様な?」
「先の礼と称して、徳川殿を本能寺に招かれてはいかがでしょうか?」
「本能寺に? うむ……」、信長は不服そうである、「しかし、あそこではあまりにも貧相ではないか? それよりも、この安土の方が良かろう。この安土を見せて、誰がまことの天下人か、見せつけてやろう。それに近々、帝の女房衆も下ってくるそうだ」
何用で?
「三職のいずれかを推認すると、武家伝奏の勧修寺殿がゆうてきたと、吉兵衛(村井貞勝)から書状がきた」
太政大臣、関白、征夷大将軍の三職のうち、どれでも信長が欲するものを申せ………………と、朝廷も大胆なことを言ってきたらしい。
武田を滅ぼし、東は北条を傘下におさめ、西は毛利を追い詰めているいま、朝廷としては、どうしても信長を配下にいれておきたいのだろう ―― でなければ、何をするわ分からない………………という怖さがあるのだろう。
ちなみに、このときの太政大臣は今年二月に補任されたばかりの近衛前久、関白は一条内基、征夷大将軍はいまだ足利義昭である。
「いずれかを……、お受けになるので?」
十兵衛は探り探り訊ねる。
「儂がか?」、信長は一笑する、「なぜ儂が、あいつらの下につかねばならぬ? 儂は、神になるのじゃぞ?」
「御尤もで」
「が……、織田家として全てを受ける」
「それは……、如何様な?」
「勘九郎(信忠)に太政大臣を、三介(信雄)に関白を、三七(信孝)に征夷大将軍をやる」
やるなどと………………信長が補任するのではないのだが………………
「織田家が三職を受けるところを狸に見せつけ、誰が天下の主か、教えてやるわい」
「それは………………」、十兵衛は笑顔で言った、「宜しいですな」
その心中は如何ほどか?
「されど、狸のことです、大殿を化かしにくるやもしれませぬ。ここは、しっかりと仕留めた方が得策でござりまする。それに、安土は大殿が神として降臨なされる場所、ここを汚すのは如何ほどかと。それよりは、本能寺に差し込んで、確実に仕留めたほうが宜しいかと」
「うむ……、確かに。しかし、どう仕留める? 狸は臆病者じゃからのう、自ら罠には飛び込んでこんぞ」
「さすれば、狸が安心できるように、大殿は僅かなお供だけで本能寺に入ってもらいまする。されど、それだけでは疑り深い狸のこと、罠に入るのを嫌がるでしょう。そのために、某に羽柴殿の助力のためにと中国出陣をご命じくだされ。また、惟住(丹羽)殿には四国へと」
織田家家臣団の筆頭格柴田勝家は越前にいる、猛将の滝川一益は上野である、羽柴秀吉は備中高松で毛利と対峙中、ここに十兵衛が助力に向かい、家臣団次席格の惟住(丹羽)長秀が四国へと出兵となると、主要な家臣団が出払い、信長本陣を守るは僅かな手勢となる。
「なるほど、さすれば流石の狸も、儂の招きを断れぬか?」
「某は、西へと出兵するかに見せかけ、桂川を渡って鳥羽へと進出、大殿が狸をしこたま酔わせていただき、気持ちよく寝込んだところを襲撃!」
「うむ、十兵衛、おぬしも悪よのう、本能寺を逃げられぬ落とし穴として使う気か。面白い! 面白いぞ! 流石は十兵衛じゃ!」
信長は大喜びだ。
「それに際して、大殿にもお願いがござります」
「うむ、分かった、狸にしこたま酒を飲ませばよいのじゃな? 足腰立たないほど飲ませてやるぞ」
「はあ、それもございまするが………………」
「なんじゃ? 他に何かあるのか? 申してみい、狸退治のためなら、何でもしようぞ」
「ならば……、大殿にも死んでいただきたく………………」
先ほどのまでの笑顔の信長はどこへやら、急に険しい顔になった。
「この儂に……、死ねと?」
十兵衛は、信長をまっすぐと見つめ、「左様にござりまする」
「どういうことじゃ、十兵衛?」
落ち着いた口調だが、蟀谷あたりがひくついている。
「どうもこうもありませぬ、死んでもらいたいと申しておりまする」
「おぬし………………」、信長は立ち上がると、乱から刀を奪い取り、抜いた、「もう一度ゆうてみよ、十兵衛」
十兵衛の喉元に、切っ先を突きつける。
だが、十兵衛は恐れもせず、ぎっと睨みつけている。
「儂に死ねと!」
「左様でござりまする。大殿には一度死んでいただき、神として復活していただきたいと」
「なんと、神とな?」
「死んでいただきたいと申したのは、あくまで言葉のあやにござりまする。某が本能寺を襲撃いたしまする前に、大殿はお逃げ遊ばし、しばらくどこかで隠れていただき、数日して、この安土で神として復活なさっていただきたいのです」
「なるほど、なるほど」
「大殿が亡くなったと聞けば、織田家の中で必ず我こそはと天下を狙うものが出てきましょう。そのものに対して、神となられた大殿が、某に追討命令を出していただければ、某らは神の兵として、北は奥州から西は鎮西、はては唐天竺、南蛮まで平らかにしていくことでしょう」
信長は刀を下ろすと、城が揺れるほどに大笑いした。
「良かろう、十兵衛、死んでやる! 死んで神となり、この世を儂のものにしてやる! 十兵衛、その策を進めよ!」
「畏まり候」
徳川家康を饗応するためにと、十兵衛がその役を仰せつかった。
細かい打合せの後、殿が不意に口を開いた。
「ときに十兵衛、家臣らのなかで、裏を返しそうなやつは……、誰じゃ?」
「羽柴殿」
殿は、にやりと笑った。
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職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
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