本能寺燃ゆ

hiro75

文字の大きさ
上 下
465 / 498
第五章「盲愛の寺」

78

しおりを挟む
「……とはいうものの、あいつは当面、東を見ることになろう、伊予だけでは不安じゃからのう」

「徳川殿は?」

「ん? んん……」、殿は盤上を見つめながら、「伊予だけでは……、まだまだ不安じゃからのう」

 徳川家康は、昨年末に高天神城を囲んでいた。

 高天神城は、遠江と駿河の国境近くにあり、遠州灘の港を抑える要所である。

 海のない武田にとっては、喉から手が出るほど欲しい城である。

 天正二(一五七四)年、武田勝頼に攻められた際、城方であった小笠原氏が織田・徳川に助力をもとめたが、これに答えることができず、小笠原氏が武田に寝返り落城。

 此度は、これを奪還すべく、家康がその周囲に砦を築き、昨年末には自ら近くの砦に陣を張った。

 殿も、昨年末に使者を送り、家康の陣容を確認させている。

 今年に入ってすぐには、勝頼が動くとの報せが入り、急ぎ信忠が動き、清州に入ったが、これは空振りに終わった。

 どうも、勝頼はこの城を諦めたらしい ―― この城に兵糧などを運び入れるには、かなりの道のりを要し、労力と費用がいるようだ ―― この状況下で援軍を出すよりは、一端はここを諦め、次の策を考えているようだ。

 城方も、援軍なしといとうことで………………、

「羽林(家康)から使いがあり、城方が助命を求めていると」

 城方の城将は岡部丹波守元信おかべたんばのかみもとのぶ ―― 兵糧も尽きかけ、助力もなく、これまでと、武田領である小山城まで差し出して、助命を求めた。

 家康は、どうしたものかと相談の使いを送ってきた。

「お許しになるので?」

「ん? んんん……」、殿は閃いたとばかりに、十兵衛の打った駒をとって、「いや、そのままに……と。東での武田の威光はまだまだ凄まじいものがある。だが、これが助力を出せずに見殺しとなれば、武田の威信も下がろう。徳川も、長い城攻めで兵も兵糧も消耗しよう。さすれば甲斐、相模、三河の均衡もちょうど良くなる」

「御尤もで」

「四国も、同様にさせるぞ」

「同様……とは?」

「土佐は、駄々を捏ねておるしょうじゃな」

 斎藤内蔵助利三から、例の一件を伝え聞いた長宗我部元親は、『納得いかん!』となったらしい。

 当然だ、約束を反故にされたのだから。

「天下は誰の手にあるかを……、しっかりと分からせねばならぬな」、殿は十兵衛の駒を取った、「四国に、山城(三好山城守康慶みよしやましろのかみやすよし)を送る。阿波は、三好の本貫、どうしても欲しいというてな……、まあ、土佐を黙らせるには、ちょうど良かろう」

 十兵衛の心境は如何に?

 盤に顔を埋めるようにして考え込んでいるが………………怒っている?

「天下で思い出したが……、今度京で馬揃えをやろうかと思うてな」

 十兵衛が、おっと顔をあげた。

「この前の左義長で、早駆けをやったであろう」

 十五日、左義長(どんど焼き)の余興にと、馬廻りや近江衆に思い思い着飾らせて、爆竹を鳴らして馬を駆けさせた。

 殿も、眉をかき、黒い南蛮風の笠をかぶり、唐錦の側次に赤い母衣のようなものをなびかせ、足には虎皮の行縢をつけて、芦毛馬を颯爽とかけた。

 連枝衆も着飾って集まり、馬場で駆けたあとは、そのまま城下を駆け抜けて、町衆らも見に来て盛況だった。

 これの仕度を取り仕切ったのが、十兵衛である。

「これを見た近衛殿が、京でも開かれてはと申されてな。それは面白いとなってな」

「はあ、それは宜しいですな……」

 十兵衛は、再び盤上に視線を移す。

「それで、近衛殿と話して、吉日としてよい来月の二十八日にと日取りを決めた。朝廷(みかど)のほうは近衛殿に任せることなってな」

「はあ、左様で」

 十兵衛は、指先をあっちこっちと動かして、考え込んでいる ―― あまり殿の話を聞いていないようだ。

「で、こちらの仕度も、十兵衛、そなたに任せる」

「はっ……」、十兵衛はしばらく腕組みをして、盤を見つめていたが、「えっ? いまなんと?」

「うむ、馬揃えの仕度を、そなたに任せる、頼んだぞ」

 と、殿はにこにこ笑っている。

「はあ?」、突然のことに、十兵衛は差そうとした駒を落としてしまった、「馬揃えの仕度を? 某が?」

「うむ、こういう細かいことを差配できるのは、おぬしだけだろう。左義長をあれほど盛り上げたのじゃ、近衛殿にも話したら、おぬし以外にはなかろうとなってな。頼むぞ」

「いやいや」と、珍しく十兵衛が慌てた、「馬揃えを某が? それも京で? ということは、帝もご覧なるので?」

「もちろん。これは、織田家が天下人として威勢を示すにちょうど良いと思ってな。一門や家臣、全部呼べ!」

「全部? 全部というと?」

「うむ、修理亮(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)や……、ともかく呼べるものは全員呼べ。織田家臣団が、乱れなく馬を駆ける姿をみれば、帝や公家衆だけでなく、町衆も安心するであろう」

 なるほど、信盛ら家臣を追放して、織田家内が混乱していると思われたくないのか。

「それに、家内の連中も少々浮足立っておるからな」

 ちらりとこちらに目をやる ―― 殿も、やはり気が付いていたか。

「それは良きことかと存じまするが……、それをいつやると?」

「来月の二十八日じゃな」

 ひと月ほどしかない。

「ひと月で……、いや、それは………………」

 各地に散らばっている武将らを呼ぶために書状を送ったり、催しをする馬場を選定し、それを整えたり、帝がご覧になるならば、その桟敷席の仕度もせねばなるまいし、帝だけなく、公家衆はどなたを呼べばいいのか、そのための席をどうするか、もちろんお土産も必要であろう、武将らもただ集まるだけではいくまい、この日にあわせた装束や武具を用意しなければならないし、己だでなく従者も着飾らせなければならないし、その金はどうするのか、彼らが京に上がってきたときの宿の仕度に、飯の仕度、馬の世話は誰がするのか………………やることは沢山ある………………これをひと月でやれと?

「おぬしなら、できるであろう。頼むぞ!」

 これは大変なことになったと、将棋の駒を片付けながら太若丸は思った。

 それでなくとも、己の領地の差配で忙しいのに、京の馬揃えの仕度をしろと………………

 太若丸は、十兵衛が落とした駒をつまみ上げ、しげしげと見つめる。

 もしや殿は、十兵衛のことを本当にただの〝駒〟として見ているのでは?

「本日は、惟任様は太若丸様のお屋敷に泊まられるので?」

 不意に声をかけられ振り返ると、乱がいた。

「よろしいですね、惟任様と一緒にいられて」

 また、こいつは………………

 そんな暇などない ―― 十兵衛は、

「宿の仕度をしてもらって申し訳ないが、すぐに坂本に帰って、馬揃えの仕度をせねばなりませぬ」

 と、夕刻にも関わらず、舟で坂本へと引き上げていった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

1333

干支ピリカ
歴史・時代
 鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。 (現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)  鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。  主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。  ご興味を持たれた方は是非どうぞ!

大航海時代 日本語版

藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった――― 関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった ―――鎖国前夜の1631年 坂本龍馬に先駆けること200年以上前 東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン 『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝

糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。 その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。 姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...