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第五章「盲愛の寺」
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「……とはいうものの、あいつは当面、東を見ることになろう、伊予だけでは不安じゃからのう」
「徳川殿は?」
「ん? んん……」、殿は盤上を見つめながら、「伊予だけでは……、まだまだ不安じゃからのう」
徳川家康は、昨年末に高天神城を囲んでいた。
高天神城は、遠江と駿河の国境近くにあり、遠州灘の港を抑える要所である。
海のない武田にとっては、喉から手が出るほど欲しい城である。
天正二(一五七四)年、武田勝頼に攻められた際、城方であった小笠原氏が織田・徳川に助力をもとめたが、これに答えることができず、小笠原氏が武田に寝返り落城。
此度は、これを奪還すべく、家康がその周囲に砦を築き、昨年末には自ら近くの砦に陣を張った。
殿も、昨年末に使者を送り、家康の陣容を確認させている。
今年に入ってすぐには、勝頼が動くとの報せが入り、急ぎ信忠が動き、清州に入ったが、これは空振りに終わった。
どうも、勝頼はこの城を諦めたらしい ―― この城に兵糧などを運び入れるには、かなりの道のりを要し、労力と費用がいるようだ ―― この状況下で援軍を出すよりは、一端はここを諦め、次の策を考えているようだ。
城方も、援軍なしといとうことで………………、
「羽林(家康)から使いがあり、城方が助命を求めていると」
城方の城将は岡部丹波守元信 ―― 兵糧も尽きかけ、助力もなく、これまでと、武田領である小山城まで差し出して、助命を求めた。
家康は、どうしたものかと相談の使いを送ってきた。
「お許しになるので?」
「ん? んんん……」、殿は閃いたとばかりに、十兵衛の打った駒をとって、「いや、そのままに……と。東での武田の威光はまだまだ凄まじいものがある。だが、これが助力を出せずに見殺しとなれば、武田の威信も下がろう。徳川も、長い城攻めで兵も兵糧も消耗しよう。さすれば甲斐、相模、三河の均衡もちょうど良くなる」
「御尤もで」
「四国も、同様にさせるぞ」
「同様……とは?」
「土佐は、駄々を捏ねておるしょうじゃな」
斎藤内蔵助利三から、例の一件を伝え聞いた長宗我部元親は、『納得いかん!』となったらしい。
当然だ、約束を反故にされたのだから。
「天下は誰の手にあるかを……、しっかりと分からせねばならぬな」、殿は十兵衛の駒を取った、「四国に、山城(三好山城守康慶)を送る。阿波は、三好の本貫、どうしても欲しいというてな……、まあ、土佐を黙らせるには、ちょうど良かろう」
十兵衛の心境は如何に?
盤に顔を埋めるようにして考え込んでいるが………………怒っている?
「天下で思い出したが……、今度京で馬揃えをやろうかと思うてな」
十兵衛が、おっと顔をあげた。
「この前の左義長で、早駆けをやったであろう」
十五日、左義長(どんど焼き)の余興にと、馬廻りや近江衆に思い思い着飾らせて、爆竹を鳴らして馬を駆けさせた。
殿も、眉をかき、黒い南蛮風の笠をかぶり、唐錦の側次に赤い母衣のようなものをなびかせ、足には虎皮の行縢をつけて、芦毛馬を颯爽とかけた。
連枝衆も着飾って集まり、馬場で駆けたあとは、そのまま城下を駆け抜けて、町衆らも見に来て盛況だった。
これの仕度を取り仕切ったのが、十兵衛である。
「これを見た近衛殿が、京でも開かれてはと申されてな。それは面白いとなってな」
「はあ、それは宜しいですな……」
十兵衛は、再び盤上に視線を移す。
「それで、近衛殿と話して、吉日としてよい来月の二十八日にと日取りを決めた。朝廷(みかど)のほうは近衛殿に任せることなってな」
「はあ、左様で」
十兵衛は、指先をあっちこっちと動かして、考え込んでいる ―― あまり殿の話を聞いていないようだ。
「で、こちらの仕度も、十兵衛、そなたに任せる」
「はっ……」、十兵衛はしばらく腕組みをして、盤を見つめていたが、「えっ? いまなんと?」
「うむ、馬揃えの仕度を、そなたに任せる、頼んだぞ」
と、殿はにこにこ笑っている。
「はあ?」、突然のことに、十兵衛は差そうとした駒を落としてしまった、「馬揃えの仕度を? 某が?」
「うむ、こういう細かいことを差配できるのは、おぬしだけだろう。左義長をあれほど盛り上げたのじゃ、近衛殿にも話したら、おぬし以外にはなかろうとなってな。頼むぞ」
「いやいや」と、珍しく十兵衛が慌てた、「馬揃えを某が? それも京で? ということは、帝もご覧なるので?」
「もちろん。これは、織田家が天下人として威勢を示すにちょうど良いと思ってな。一門や家臣、全部呼べ!」
「全部? 全部というと?」
「うむ、修理亮(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)や……、ともかく呼べるものは全員呼べ。織田家臣団が、乱れなく馬を駆ける姿をみれば、帝や公家衆だけでなく、町衆も安心するであろう」
なるほど、信盛ら家臣を追放して、織田家内が混乱していると思われたくないのか。
「それに、家内の連中も少々浮足立っておるからな」
ちらりとこちらに目をやる ―― 殿も、やはり気が付いていたか。
「それは良きことかと存じまするが……、それをいつやると?」
「来月の二十八日じゃな」
ひと月ほどしかない。
「ひと月で……、いや、それは………………」
各地に散らばっている武将らを呼ぶために書状を送ったり、催しをする馬場を選定し、それを整えたり、帝がご覧になるならば、その桟敷席の仕度もせねばなるまいし、帝だけなく、公家衆はどなたを呼べばいいのか、そのための席をどうするか、もちろんお土産も必要であろう、武将らもただ集まるだけではいくまい、この日にあわせた装束や武具を用意しなければならないし、己だでなく従者も着飾らせなければならないし、その金はどうするのか、彼らが京に上がってきたときの宿の仕度に、飯の仕度、馬の世話は誰がするのか………………やることは沢山ある………………これをひと月でやれと?
「おぬしなら、できるであろう。頼むぞ!」
これは大変なことになったと、将棋の駒を片付けながら太若丸は思った。
それでなくとも、己の領地の差配で忙しいのに、京の馬揃えの仕度をしろと………………
太若丸は、十兵衛が落とした駒をつまみ上げ、しげしげと見つめる。
もしや殿は、十兵衛のことを本当にただの〝駒〟として見ているのでは?
「本日は、惟任様は太若丸様のお屋敷に泊まられるので?」
不意に声をかけられ振り返ると、乱がいた。
「よろしいですね、惟任様と一緒にいられて」
また、こいつは………………
そんな暇などない ―― 十兵衛は、
「宿の仕度をしてもらって申し訳ないが、すぐに坂本に帰って、馬揃えの仕度をせねばなりませぬ」
と、夕刻にも関わらず、舟で坂本へと引き上げていった。
「徳川殿は?」
「ん? んん……」、殿は盤上を見つめながら、「伊予だけでは……、まだまだ不安じゃからのう」
徳川家康は、昨年末に高天神城を囲んでいた。
高天神城は、遠江と駿河の国境近くにあり、遠州灘の港を抑える要所である。
海のない武田にとっては、喉から手が出るほど欲しい城である。
天正二(一五七四)年、武田勝頼に攻められた際、城方であった小笠原氏が織田・徳川に助力をもとめたが、これに答えることができず、小笠原氏が武田に寝返り落城。
此度は、これを奪還すべく、家康がその周囲に砦を築き、昨年末には自ら近くの砦に陣を張った。
殿も、昨年末に使者を送り、家康の陣容を確認させている。
今年に入ってすぐには、勝頼が動くとの報せが入り、急ぎ信忠が動き、清州に入ったが、これは空振りに終わった。
どうも、勝頼はこの城を諦めたらしい ―― この城に兵糧などを運び入れるには、かなりの道のりを要し、労力と費用がいるようだ ―― この状況下で援軍を出すよりは、一端はここを諦め、次の策を考えているようだ。
城方も、援軍なしといとうことで………………、
「羽林(家康)から使いがあり、城方が助命を求めていると」
城方の城将は岡部丹波守元信 ―― 兵糧も尽きかけ、助力もなく、これまでと、武田領である小山城まで差し出して、助命を求めた。
家康は、どうしたものかと相談の使いを送ってきた。
「お許しになるので?」
「ん? んんん……」、殿は閃いたとばかりに、十兵衛の打った駒をとって、「いや、そのままに……と。東での武田の威光はまだまだ凄まじいものがある。だが、これが助力を出せずに見殺しとなれば、武田の威信も下がろう。徳川も、長い城攻めで兵も兵糧も消耗しよう。さすれば甲斐、相模、三河の均衡もちょうど良くなる」
「御尤もで」
「四国も、同様にさせるぞ」
「同様……とは?」
「土佐は、駄々を捏ねておるしょうじゃな」
斎藤内蔵助利三から、例の一件を伝え聞いた長宗我部元親は、『納得いかん!』となったらしい。
当然だ、約束を反故にされたのだから。
「天下は誰の手にあるかを……、しっかりと分からせねばならぬな」、殿は十兵衛の駒を取った、「四国に、山城(三好山城守康慶)を送る。阿波は、三好の本貫、どうしても欲しいというてな……、まあ、土佐を黙らせるには、ちょうど良かろう」
十兵衛の心境は如何に?
盤に顔を埋めるようにして考え込んでいるが………………怒っている?
「天下で思い出したが……、今度京で馬揃えをやろうかと思うてな」
十兵衛が、おっと顔をあげた。
「この前の左義長で、早駆けをやったであろう」
十五日、左義長(どんど焼き)の余興にと、馬廻りや近江衆に思い思い着飾らせて、爆竹を鳴らして馬を駆けさせた。
殿も、眉をかき、黒い南蛮風の笠をかぶり、唐錦の側次に赤い母衣のようなものをなびかせ、足には虎皮の行縢をつけて、芦毛馬を颯爽とかけた。
連枝衆も着飾って集まり、馬場で駆けたあとは、そのまま城下を駆け抜けて、町衆らも見に来て盛況だった。
これの仕度を取り仕切ったのが、十兵衛である。
「これを見た近衛殿が、京でも開かれてはと申されてな。それは面白いとなってな」
「はあ、それは宜しいですな……」
十兵衛は、再び盤上に視線を移す。
「それで、近衛殿と話して、吉日としてよい来月の二十八日にと日取りを決めた。朝廷(みかど)のほうは近衛殿に任せることなってな」
「はあ、左様で」
十兵衛は、指先をあっちこっちと動かして、考え込んでいる ―― あまり殿の話を聞いていないようだ。
「で、こちらの仕度も、十兵衛、そなたに任せる」
「はっ……」、十兵衛はしばらく腕組みをして、盤を見つめていたが、「えっ? いまなんと?」
「うむ、馬揃えの仕度を、そなたに任せる、頼んだぞ」
と、殿はにこにこ笑っている。
「はあ?」、突然のことに、十兵衛は差そうとした駒を落としてしまった、「馬揃えの仕度を? 某が?」
「うむ、こういう細かいことを差配できるのは、おぬしだけだろう。左義長をあれほど盛り上げたのじゃ、近衛殿にも話したら、おぬし以外にはなかろうとなってな。頼むぞ」
「いやいや」と、珍しく十兵衛が慌てた、「馬揃えを某が? それも京で? ということは、帝もご覧なるので?」
「もちろん。これは、織田家が天下人として威勢を示すにちょうど良いと思ってな。一門や家臣、全部呼べ!」
「全部? 全部というと?」
「うむ、修理亮(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)や……、ともかく呼べるものは全員呼べ。織田家臣団が、乱れなく馬を駆ける姿をみれば、帝や公家衆だけでなく、町衆も安心するであろう」
なるほど、信盛ら家臣を追放して、織田家内が混乱していると思われたくないのか。
「それに、家内の連中も少々浮足立っておるからな」
ちらりとこちらに目をやる ―― 殿も、やはり気が付いていたか。
「それは良きことかと存じまするが……、それをいつやると?」
「来月の二十八日じゃな」
ひと月ほどしかない。
「ひと月で……、いや、それは………………」
各地に散らばっている武将らを呼ぶために書状を送ったり、催しをする馬場を選定し、それを整えたり、帝がご覧になるならば、その桟敷席の仕度もせねばなるまいし、帝だけなく、公家衆はどなたを呼べばいいのか、そのための席をどうするか、もちろんお土産も必要であろう、武将らもただ集まるだけではいくまい、この日にあわせた装束や武具を用意しなければならないし、己だでなく従者も着飾らせなければならないし、その金はどうするのか、彼らが京に上がってきたときの宿の仕度に、飯の仕度、馬の世話は誰がするのか………………やることは沢山ある………………これをひと月でやれと?
「おぬしなら、できるであろう。頼むぞ!」
これは大変なことになったと、将棋の駒を片付けながら太若丸は思った。
それでなくとも、己の領地の差配で忙しいのに、京の馬揃えの仕度をしろと………………
太若丸は、十兵衛が落とした駒をつまみ上げ、しげしげと見つめる。
もしや殿は、十兵衛のことを本当にただの〝駒〟として見ているのでは?
「本日は、惟任様は太若丸様のお屋敷に泊まられるので?」
不意に声をかけられ振り返ると、乱がいた。
「よろしいですね、惟任様と一緒にいられて」
また、こいつは………………
そんな暇などない ―― 十兵衛は、
「宿の仕度をしてもらって申し訳ないが、すぐに坂本に帰って、馬揃えの仕度をせねばなりませぬ」
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