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第五章「盲愛の寺」
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七月二日、大坂和睦の勅使である近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保が、本願寺の前門跡顕如の使いとして藤井藤左衛門、矢木駿河守、平井越後守を連れてきた。
雑賀へと無事下向できたことと、金子のお礼に、との挨拶らしい。
取次ぎは、松井友閑と佐久間信盛である。
信盛は、あいも変わらずむすっとしている。
そんな顔で殿の前に出たら、殿がまたなんと思うか………………と思ったが、使者に会ったのは、信忠であった。
殿は、少々体調が悪いと、信忠に任せたらしいが………………奥で、茶を楽しんでいた。
織田家の当主は信忠で、これぐらいなら儂がでることでもなかろうと、息子に任せたらしい。
あと、信盛と顔をあわせるのが嫌だそうだ ―― 以前は、互いに茶器を褒め合い、一時は信盛の屋敷に住むほど仲も良かったが、いまや同室するのも嫌なのようだ。
「それで、顕如殿からは?」
「銀子百枚、これにて太刀をお見立てくださいとのことでした」
信忠の代わりに、利治が銀子を差し出す。
殿は、それに目もくれず、「うむ」と、太若丸が点てた茶を啜った。
「それで……、右衛門尉はどうか?」
「これといって口を開くこともなく、憮然と座しておりました」
「左様か……」
「いますぐにでも罰せられたほうがよろしいのでは?」
信忠の言葉に、殿は首を振った。
「大坂もまもなく……とはいうものの、城に残っている雑賀らが、まだ新しい門跡をたきつけておるようではないか。ここで総大将を替えるようなことをしてみろ、大坂も攻め時と、再び息を吹き返そう。それだけなら良いが、右衛門尉が大坂方に寝返っては面倒なことになろう、ことによるとあやつの下につけた与力らも旗を翻すやもしれん。ここは大坂方が城から完全に退いたのちに、間髪入れずに切り捨てよう」
「畏まり候。ならば、大坂方から城を受け取る際に、受取役を入れねばなりませぬが………………」
信盛を入れるわけにはいくまい。
「善七郎を行かせる」
殿は、近習の矢部家定を受取兼ねて検使役とした。
「あとは、右衛門尉を罰するついでに、右近大夫(氏勝)らも………………」
殿は、頷いた。
それを確かめると、信忠と利治は腰をあげた。
だが、後ろに控えていた宿老林秀貞は座ったままだ。
「行くぞ」と、信忠が声をかけると、「大殿と、しばしお話ししたきことがござりまするので」と、そのまま座していた。
信忠は、ふんと鼻を鳴らし、出て行った。
殿は、信忠の足音が遠のき、聞こえなくなるのを確かめたあと、太若丸に秀貞にも茶を点てるように促した。
太若丸は茶を点て、乱が秀貞の前に菓子を出す。
「佐渡(秀貞)と、こうやって茶を飲み交わすのも久しぶりじゃな」
「左様で」
と、茶を一口含んだ。
「近頃は勘九郎とともに顔を見せなんだが、どこか具合でも悪いのか?」
「いえ、もう年なだけでござります。某の代わりをするものもおりまする故」
「うむ、左様か。それで……、話とはなんじゃ?」
「お人払いを………………」
「斯様に大事な話か?」
秀貞が頷くのを見て、太若丸と乱を残し、近習たちを下がらせた。
「それで?」
秀貞は、重々しく口を開く、
「永遠の暇をいただきとうござりまする」
白髪頭を下げる。
「なに? 隠居するか? うむ、まあ、佐渡も良い歳じゃからな。林家は如何にする? 新次郎(林通政)は……、傳左衛門(林一吉)に跡を継がせるか?」
秀貞の嫡男であった通政は、伊勢長島の一向門徒との戦いで、信長が退却する際に殿を務め、華々しく散っている。
「織田家家老としての林家は、某の代にて終わりにさせていただきたいと存じ上げまする」
一瞬の間のあと、
「織田家を……出るというか?」
殿は、怖いぐらいに無表情のまま訊ねた。
秀貞は、頭を下げたままだ。
殿は、脇息をとんとんと指で叩きながら、
「勘九郎(信忠)の後見はどうする?」
「某のような古い頭のものは、用なしでござりましょう。新しいものらがおりまするので」
それは、斎藤利治のことか?
「傳左衛門は?」
「あれでは、織田家の家老は務まりますまい」
殿は、しばらく考えたのち、徐に口を開く。
「林家が出るとなれば……、勘九郎は家臣に見限られた当主として、嘲られようぞ」
「さすれば、如何様な理由でも構いませぬので、追放していただければ……と」
「そこまでして……、織田家と命運をともにしたくないと申すか?」
それには答えず、秀貞は深々と頭を下げた。
殿も、これに答えず、ただただ脇息を指先で弾いていた。
結局のところ、秀貞への返答はせずに、これを帰した。
殿は、憮然としている………………というより、呆然としているようだ。
乱が、「酒の用意をいたしましょうか?」という問いに、心ここにあらずのような体で、頷いていた。
乱が用意した酒を、太若丸が杯に注いでいると、
「儂は………………、愚君か?」
聞くというよりも、ただ胸の内を呟いているようだったので、答えずにいた。
雑賀へと無事下向できたことと、金子のお礼に、との挨拶らしい。
取次ぎは、松井友閑と佐久間信盛である。
信盛は、あいも変わらずむすっとしている。
そんな顔で殿の前に出たら、殿がまたなんと思うか………………と思ったが、使者に会ったのは、信忠であった。
殿は、少々体調が悪いと、信忠に任せたらしいが………………奥で、茶を楽しんでいた。
織田家の当主は信忠で、これぐらいなら儂がでることでもなかろうと、息子に任せたらしい。
あと、信盛と顔をあわせるのが嫌だそうだ ―― 以前は、互いに茶器を褒め合い、一時は信盛の屋敷に住むほど仲も良かったが、いまや同室するのも嫌なのようだ。
「それで、顕如殿からは?」
「銀子百枚、これにて太刀をお見立てくださいとのことでした」
信忠の代わりに、利治が銀子を差し出す。
殿は、それに目もくれず、「うむ」と、太若丸が点てた茶を啜った。
「それで……、右衛門尉はどうか?」
「これといって口を開くこともなく、憮然と座しておりました」
「左様か……」
「いますぐにでも罰せられたほうがよろしいのでは?」
信忠の言葉に、殿は首を振った。
「大坂もまもなく……とはいうものの、城に残っている雑賀らが、まだ新しい門跡をたきつけておるようではないか。ここで総大将を替えるようなことをしてみろ、大坂も攻め時と、再び息を吹き返そう。それだけなら良いが、右衛門尉が大坂方に寝返っては面倒なことになろう、ことによるとあやつの下につけた与力らも旗を翻すやもしれん。ここは大坂方が城から完全に退いたのちに、間髪入れずに切り捨てよう」
「畏まり候。ならば、大坂方から城を受け取る際に、受取役を入れねばなりませぬが………………」
信盛を入れるわけにはいくまい。
「善七郎を行かせる」
殿は、近習の矢部家定を受取兼ねて検使役とした。
「あとは、右衛門尉を罰するついでに、右近大夫(氏勝)らも………………」
殿は、頷いた。
それを確かめると、信忠と利治は腰をあげた。
だが、後ろに控えていた宿老林秀貞は座ったままだ。
「行くぞ」と、信忠が声をかけると、「大殿と、しばしお話ししたきことがござりまするので」と、そのまま座していた。
信忠は、ふんと鼻を鳴らし、出て行った。
殿は、信忠の足音が遠のき、聞こえなくなるのを確かめたあと、太若丸に秀貞にも茶を点てるように促した。
太若丸は茶を点て、乱が秀貞の前に菓子を出す。
「佐渡(秀貞)と、こうやって茶を飲み交わすのも久しぶりじゃな」
「左様で」
と、茶を一口含んだ。
「近頃は勘九郎とともに顔を見せなんだが、どこか具合でも悪いのか?」
「いえ、もう年なだけでござります。某の代わりをするものもおりまする故」
「うむ、左様か。それで……、話とはなんじゃ?」
「お人払いを………………」
「斯様に大事な話か?」
秀貞が頷くのを見て、太若丸と乱を残し、近習たちを下がらせた。
「それで?」
秀貞は、重々しく口を開く、
「永遠の暇をいただきとうござりまする」
白髪頭を下げる。
「なに? 隠居するか? うむ、まあ、佐渡も良い歳じゃからな。林家は如何にする? 新次郎(林通政)は……、傳左衛門(林一吉)に跡を継がせるか?」
秀貞の嫡男であった通政は、伊勢長島の一向門徒との戦いで、信長が退却する際に殿を務め、華々しく散っている。
「織田家家老としての林家は、某の代にて終わりにさせていただきたいと存じ上げまする」
一瞬の間のあと、
「織田家を……出るというか?」
殿は、怖いぐらいに無表情のまま訊ねた。
秀貞は、頭を下げたままだ。
殿は、脇息をとんとんと指で叩きながら、
「勘九郎(信忠)の後見はどうする?」
「某のような古い頭のものは、用なしでござりましょう。新しいものらがおりまするので」
それは、斎藤利治のことか?
「傳左衛門は?」
「あれでは、織田家の家老は務まりますまい」
殿は、しばらく考えたのち、徐に口を開く。
「林家が出るとなれば……、勘九郎は家臣に見限られた当主として、嘲られようぞ」
「さすれば、如何様な理由でも構いませぬので、追放していただければ……と」
「そこまでして……、織田家と命運をともにしたくないと申すか?」
それには答えず、秀貞は深々と頭を下げた。
殿も、これに答えず、ただただ脇息を指先で弾いていた。
結局のところ、秀貞への返答はせずに、これを帰した。
殿は、憮然としている………………というより、呆然としているようだ。
乱が、「酒の用意をいたしましょうか?」という問いに、心ここにあらずのような体で、頷いていた。
乱が用意した酒を、太若丸が杯に注いでいると、
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