本能寺燃ゆ

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第五章「盲愛の寺」

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 六月の終わりになって、刑部の屋敷から赤子の泣き声と、男の野太い声が聞こえてきた。

「おお、よしよし、どれどれ襁褓かな? お乳かな? 襁褓は大丈夫、おお、これはお乳か」

「何やってるんですか、あんたが胸を出してどうするんですか!」

 大騒ぎである。

 安に遅れて、内蔵助もやってきた。

 太若丸の屋敷では、刑部の妻らに用意させた肴で濁酒を飲みながら、騒ぎを聞いていた十兵衛らが笑っていた。

「相変わらず、騒がしい夫婦じゃな」

 と、藤田伝五行政ふじたでんごゆきまさが酒を飲みながら煩そうに顔を顰める。

「いやいや、仲睦ましいことで羨ましい」

 と、明智左馬助秀満は笑う。

「しかし、我が子の顔見たさに、黒井を留守にするとは………………」

 と、溝尾庄兵衛茂朝みおぞおしょうべいしげともは眉を顰めた。

「まあ、良いではござらんか、子は誰も可愛いものでござります」

 と、十兵衛は微笑んでいた。

 久々の十兵衛の家臣揃い踏みである。

 残念なことに、明智次右衛門光忠だけは、八上城に残って様々な処理をしているとのことである。

「次郎右衛門殿にも、お会いしたかったですな」

 と、稲葉刑部少輔が、伝五の空いた杯に酒を注ぐ。

「あやつ、初めて城をもらって色々と張り切っておるのよ。そんな心配せんでも、下のものに命じてやらせろと言ったのじゃがな」

「初めての城ですからな。もともと細かいところに気を使う男ですから、次右衛門は。下のものには任せておけんのでしょう」

 と、左馬助。

「それが間違いのもとじゃ。よいか、主君は動かんでよい、山のようにどっしりと構え、考え、何事かあれば、家臣に命じてやらせればよいじゃ。主君があっちこっちと動いていたは、肝心なときに大将がおらんと、家臣らが不安がるぞ。だいたい、大将があれやこれやと口を出してはいかん、一度命じたら、あとは家臣らがやりやすいようにじっと待っておるのが良い。そんな大将、儂なら願い下げじゃ」

「そうで、ござりましょうや? 某は、細部まで気遣う主君のほうがようございますが」

 と、庄兵衛。

「おぬしの言う細かさとは、十露盤勘定じゃろ?」と、伝五は空で十露盤の玉をはじくように、指先を動かす、「そんなもの、戦場で何の役に立つ? 良いか、戦で大事は、槍とこの足じゃ!」

 たんと膝を叩く。

「十露盤も、十分に役に立ちまするぞ。戦に大事は兵糧、それをどれぐらい集めなければならないかと、算術するのはこれでございまする」

 と、庄兵衛は懐から使い古した十露盤を取り出し、じゃらじゃらといわせる。

「ええい、それを鳴らすな。その音を聞くと、虫唾が走る」

 そういう行政の目の前で、茂朝は嫌みのようにじゃらじゃらといわせた。

 それを十兵衛や左馬助は、笑って見ていた。

「ええい、そうやって細かいと下のものがついてこんぞ! 内蔵助を見てみい、内蔵助を。あいつなんぞ、下のものに任せっきりで、子作りばかりしておるが、なにも大事なかろうが」

「まあ、確かに」 

 と、左馬助は頷く。

「大丈夫ですか、そんなので?」

 刑部は心配そうである。

 まあ、従兄妹の嫁入り先である、心配になるのは当然か。

 そういうところに、がらりと戸を開けて入ってくるのが内蔵助である。

「いやいや、参った参った、なかなか寝なくて」

 と、にこにこ顔で刑部の隣に腰を下ろした。

 刑部が、聊か不審そうな顔で見ている。

「どうなされた、刑部殿? 濁酒を」

 と、自ら杯を突きつけ、強請っていた。

 みな、くすくすと笑っている。

 内蔵助は立て続けに三杯呷って、

「で、大殿のご様子は如何ほどでしたかな?」

 と、別の話をしてきた。

「うむ、息災であられえた」

 十兵衛が答えた。

「それは何より。それで、品々のほうは?」

「喜ばれておられた」

「それも、何より」

 と、内蔵助は喜び、さらに酒を煽った。

 此度の十兵衛の登城は、双名洲(四国)全土に着々と勢力を伸ばしている長宗我部元親ちょうそかべもとちかからの献上品を披露するためである。

 鷹十六羽に、砂糖三千斤 ―― 殿は酷く喜ばれ、砂糖は馬廻り組のものらに分け与えられた。

 四国は、阿波・讃岐・土佐の三国を細川家が、伊予を河野こうの家が守護していた。

 が、先の大乱と内紛によって、細川家が零落、その重臣であった三好氏が阿波を支配、讃岐には十河そごう氏、香川かがわ氏が台頭、伊予も河野家の力が弱まり、西園寺さいおんじ氏や宇都宮氏が表舞台に躍り出た。

 土佐は国人らが支配する ―― 本山もとやま氏、吉良きら氏、安芸あき氏、津野つの氏、香宗我部こうそかべ氏、大平おおひら氏、長宗我部氏の土佐七雄である。

 そこに京から下ってきた公家の一条いちじょう氏も加わり、まさに群雄割拠。

 そこから頭角を現したのが、長宗我部氏であった。

 あれよあれよという間に近隣の国人らを排除していき、元親によって天正二(一五七四)年には土佐一国を支配した。

 それ以降、元親は阿波・讃岐・伊予へと触手を伸ばし、残すは阿波に僅かに残された十河(三好)存保まさやすの領地と伊予のみである。

 此度の献上品は、四国制覇を盤石にしようと、更なる織田家との繋がりの強化するためのものである。

「ならば、引き続き長宗我部が双名洲をどうにでもしてよいのだな? 上々、上々、早速土佐の出来人(元親)に報せよう」

 内蔵助は満足そうに、ひとり頷く。

 内蔵助の義理の妹が、元親に嫁いでいる。

 元親の妻は、幕府の奉公衆であった石谷光政いしがいみつまさの次女である ―― 幕府とのつながりを持つことで、土佐七雄のなかでの立場を確固たるものにするためであろう。

 光政には男児がいなかったので、同じ土岐氏の流れを組む明智家に縁のあった斎藤利賢さいとうとしたかの嫡男頼辰よりときを長女の婿として迎い入れ、後継ぎとした。

 内蔵助利三は、利賢の次男、頼辰の弟である。

 土佐の出来人とは、その縁である。

 縁者であり、仲介役の内蔵助にしたら、良い報せであろう。

 夜中でありながら、いますぐにでも腰を上げようとしたので、

「あいや、待たれ」

 と、十兵衛が止めた。

「分かっておりますよ、某だって、そんなにせっかちではありませぬよ。しょんべんですよ、しょんべん」

 と、笑いながら席を外した。

「相変わらずじゃ」

 と、左馬助や伝五らは笑っていたが、十兵衛だけは笑ってはいない。

 まあ、当然といえば、当然か、殿からあんなことを言われては………………
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