457 / 498
第五章「盲愛の寺」
70
しおりを挟む
六月の終わりになって、刑部の屋敷から赤子の泣き声と、男の野太い声が聞こえてきた。
「おお、よしよし、どれどれ襁褓かな? お乳かな? 襁褓は大丈夫、おお、これはお乳か」
「何やってるんですか、あんたが胸を出してどうするんですか!」
大騒ぎである。
安に遅れて、内蔵助もやってきた。
太若丸の屋敷では、刑部の妻らに用意させた肴で濁酒を飲みながら、騒ぎを聞いていた十兵衛らが笑っていた。
「相変わらず、騒がしい夫婦じゃな」
と、藤田伝五行政が酒を飲みながら煩そうに顔を顰める。
「いやいや、仲睦ましいことで羨ましい」
と、明智左馬助秀満は笑う。
「しかし、我が子の顔見たさに、黒井を留守にするとは………………」
と、溝尾庄兵衛茂朝は眉を顰めた。
「まあ、良いではござらんか、子は誰も可愛いものでござります」
と、十兵衛は微笑んでいた。
久々の十兵衛の家臣揃い踏みである。
残念なことに、明智次右衛門光忠だけは、八上城に残って様々な処理をしているとのことである。
「次郎右衛門殿にも、お会いしたかったですな」
と、稲葉刑部少輔が、伝五の空いた杯に酒を注ぐ。
「あやつ、初めて城をもらって色々と張り切っておるのよ。そんな心配せんでも、下のものに命じてやらせろと言ったのじゃがな」
「初めての城ですからな。もともと細かいところに気を使う男ですから、次右衛門は。下のものには任せておけんのでしょう」
と、左馬助。
「それが間違いのもとじゃ。よいか、主君は動かんでよい、山のようにどっしりと構え、考え、何事かあれば、家臣に命じてやらせればよいじゃ。主君があっちこっちと動いていたは、肝心なときに大将がおらんと、家臣らが不安がるぞ。だいたい、大将があれやこれやと口を出してはいかん、一度命じたら、あとは家臣らがやりやすいようにじっと待っておるのが良い。そんな大将、儂なら願い下げじゃ」
「そうで、ござりましょうや? 某は、細部まで気遣う主君のほうがようございますが」
と、庄兵衛。
「おぬしの言う細かさとは、十露盤勘定じゃろ?」と、伝五は空で十露盤の玉をはじくように、指先を動かす、「そんなもの、戦場で何の役に立つ? 良いか、戦で大事は、槍とこの足じゃ!」
たんと膝を叩く。
「十露盤も、十分に役に立ちまするぞ。戦に大事は兵糧、それをどれぐらい集めなければならないかと、算術するのはこれでございまする」
と、庄兵衛は懐から使い古した十露盤を取り出し、じゃらじゃらといわせる。
「ええい、それを鳴らすな。その音を聞くと、虫唾が走る」
そういう行政の目の前で、茂朝は嫌みのようにじゃらじゃらといわせた。
それを十兵衛や左馬助は、笑って見ていた。
「ええい、そうやって細かいと下のものがついてこんぞ! 内蔵助を見てみい、内蔵助を。あいつなんぞ、下のものに任せっきりで、子作りばかりしておるが、なにも大事なかろうが」
「まあ、確かに」
と、左馬助は頷く。
「大丈夫ですか、そんなので?」
刑部は心配そうである。
まあ、従兄妹の嫁入り先である、心配になるのは当然か。
そういうところに、がらりと戸を開けて入ってくるのが内蔵助である。
「いやいや、参った参った、なかなか寝なくて」
と、にこにこ顔で刑部の隣に腰を下ろした。
刑部が、聊か不審そうな顔で見ている。
「どうなされた、刑部殿? 濁酒を」
と、自ら杯を突きつけ、強請っていた。
みな、くすくすと笑っている。
内蔵助は立て続けに三杯呷って、
「で、大殿のご様子は如何ほどでしたかな?」
と、別の話をしてきた。
「うむ、息災であられえた」
十兵衛が答えた。
「それは何より。それで、品々のほうは?」
「喜ばれておられた」
「それも、何より」
と、内蔵助は喜び、さらに酒を煽った。
此度の十兵衛の登城は、双名洲(四国)全土に着々と勢力を伸ばしている長宗我部元親からの献上品を披露するためである。
鷹十六羽に、砂糖三千斤 ―― 殿は酷く喜ばれ、砂糖は馬廻り組のものらに分け与えられた。
四国は、阿波・讃岐・土佐の三国を細川家が、伊予を河野家が守護していた。
が、先の大乱と内紛によって、細川家が零落、その重臣であった三好氏が阿波を支配、讃岐には十河氏、香川氏が台頭、伊予も河野家の力が弱まり、西園寺氏や宇都宮氏が表舞台に躍り出た。
土佐は国人らが支配する ―― 本山氏、吉良氏、安芸氏、津野氏、香宗我部氏、大平氏、長宗我部氏の土佐七雄である。
そこに京から下ってきた公家の一条氏も加わり、まさに群雄割拠。
そこから頭角を現したのが、長宗我部氏であった。
あれよあれよという間に近隣の国人らを排除していき、元親によって天正二(一五七四)年には土佐一国を支配した。
それ以降、元親は阿波・讃岐・伊予へと触手を伸ばし、残すは阿波に僅かに残された十河(三好)存保の領地と伊予のみである。
此度の献上品は、四国制覇を盤石にしようと、更なる織田家との繋がりの強化するためのものである。
「ならば、引き続き長宗我部が双名洲をどうにでもしてよいのだな? 上々、上々、早速土佐の出来人(元親)に報せよう」
内蔵助は満足そうに、ひとり頷く。
内蔵助の義理の妹が、元親に嫁いでいる。
元親の妻は、幕府の奉公衆であった石谷光政の次女である ―― 幕府とのつながりを持つことで、土佐七雄のなかでの立場を確固たるものにするためであろう。
光政には男児がいなかったので、同じ土岐氏の流れを組む明智家に縁のあった斎藤利賢の嫡男頼辰を長女の婿として迎い入れ、後継ぎとした。
内蔵助利三は、利賢の次男、頼辰の弟である。
土佐の出来人とは、その縁である。
縁者であり、仲介役の内蔵助にしたら、良い報せであろう。
夜中でありながら、いますぐにでも腰を上げようとしたので、
「あいや、待たれ」
と、十兵衛が止めた。
「分かっておりますよ、某だって、そんなにせっかちではありませぬよ。しょんべんですよ、しょんべん」
と、笑いながら席を外した。
「相変わらずじゃ」
と、左馬助や伝五らは笑っていたが、十兵衛だけは笑ってはいない。
まあ、当然といえば、当然か、殿からあんなことを言われては………………
「おお、よしよし、どれどれ襁褓かな? お乳かな? 襁褓は大丈夫、おお、これはお乳か」
「何やってるんですか、あんたが胸を出してどうするんですか!」
大騒ぎである。
安に遅れて、内蔵助もやってきた。
太若丸の屋敷では、刑部の妻らに用意させた肴で濁酒を飲みながら、騒ぎを聞いていた十兵衛らが笑っていた。
「相変わらず、騒がしい夫婦じゃな」
と、藤田伝五行政が酒を飲みながら煩そうに顔を顰める。
「いやいや、仲睦ましいことで羨ましい」
と、明智左馬助秀満は笑う。
「しかし、我が子の顔見たさに、黒井を留守にするとは………………」
と、溝尾庄兵衛茂朝は眉を顰めた。
「まあ、良いではござらんか、子は誰も可愛いものでござります」
と、十兵衛は微笑んでいた。
久々の十兵衛の家臣揃い踏みである。
残念なことに、明智次右衛門光忠だけは、八上城に残って様々な処理をしているとのことである。
「次郎右衛門殿にも、お会いしたかったですな」
と、稲葉刑部少輔が、伝五の空いた杯に酒を注ぐ。
「あやつ、初めて城をもらって色々と張り切っておるのよ。そんな心配せんでも、下のものに命じてやらせろと言ったのじゃがな」
「初めての城ですからな。もともと細かいところに気を使う男ですから、次右衛門は。下のものには任せておけんのでしょう」
と、左馬助。
「それが間違いのもとじゃ。よいか、主君は動かんでよい、山のようにどっしりと構え、考え、何事かあれば、家臣に命じてやらせればよいじゃ。主君があっちこっちと動いていたは、肝心なときに大将がおらんと、家臣らが不安がるぞ。だいたい、大将があれやこれやと口を出してはいかん、一度命じたら、あとは家臣らがやりやすいようにじっと待っておるのが良い。そんな大将、儂なら願い下げじゃ」
「そうで、ござりましょうや? 某は、細部まで気遣う主君のほうがようございますが」
と、庄兵衛。
「おぬしの言う細かさとは、十露盤勘定じゃろ?」と、伝五は空で十露盤の玉をはじくように、指先を動かす、「そんなもの、戦場で何の役に立つ? 良いか、戦で大事は、槍とこの足じゃ!」
たんと膝を叩く。
「十露盤も、十分に役に立ちまするぞ。戦に大事は兵糧、それをどれぐらい集めなければならないかと、算術するのはこれでございまする」
と、庄兵衛は懐から使い古した十露盤を取り出し、じゃらじゃらといわせる。
「ええい、それを鳴らすな。その音を聞くと、虫唾が走る」
そういう行政の目の前で、茂朝は嫌みのようにじゃらじゃらといわせた。
それを十兵衛や左馬助は、笑って見ていた。
「ええい、そうやって細かいと下のものがついてこんぞ! 内蔵助を見てみい、内蔵助を。あいつなんぞ、下のものに任せっきりで、子作りばかりしておるが、なにも大事なかろうが」
「まあ、確かに」
と、左馬助は頷く。
「大丈夫ですか、そんなので?」
刑部は心配そうである。
まあ、従兄妹の嫁入り先である、心配になるのは当然か。
そういうところに、がらりと戸を開けて入ってくるのが内蔵助である。
「いやいや、参った参った、なかなか寝なくて」
と、にこにこ顔で刑部の隣に腰を下ろした。
刑部が、聊か不審そうな顔で見ている。
「どうなされた、刑部殿? 濁酒を」
と、自ら杯を突きつけ、強請っていた。
みな、くすくすと笑っている。
内蔵助は立て続けに三杯呷って、
「で、大殿のご様子は如何ほどでしたかな?」
と、別の話をしてきた。
「うむ、息災であられえた」
十兵衛が答えた。
「それは何より。それで、品々のほうは?」
「喜ばれておられた」
「それも、何より」
と、内蔵助は喜び、さらに酒を煽った。
此度の十兵衛の登城は、双名洲(四国)全土に着々と勢力を伸ばしている長宗我部元親からの献上品を披露するためである。
鷹十六羽に、砂糖三千斤 ―― 殿は酷く喜ばれ、砂糖は馬廻り組のものらに分け与えられた。
四国は、阿波・讃岐・土佐の三国を細川家が、伊予を河野家が守護していた。
が、先の大乱と内紛によって、細川家が零落、その重臣であった三好氏が阿波を支配、讃岐には十河氏、香川氏が台頭、伊予も河野家の力が弱まり、西園寺氏や宇都宮氏が表舞台に躍り出た。
土佐は国人らが支配する ―― 本山氏、吉良氏、安芸氏、津野氏、香宗我部氏、大平氏、長宗我部氏の土佐七雄である。
そこに京から下ってきた公家の一条氏も加わり、まさに群雄割拠。
そこから頭角を現したのが、長宗我部氏であった。
あれよあれよという間に近隣の国人らを排除していき、元親によって天正二(一五七四)年には土佐一国を支配した。
それ以降、元親は阿波・讃岐・伊予へと触手を伸ばし、残すは阿波に僅かに残された十河(三好)存保の領地と伊予のみである。
此度の献上品は、四国制覇を盤石にしようと、更なる織田家との繋がりの強化するためのものである。
「ならば、引き続き長宗我部が双名洲をどうにでもしてよいのだな? 上々、上々、早速土佐の出来人(元親)に報せよう」
内蔵助は満足そうに、ひとり頷く。
内蔵助の義理の妹が、元親に嫁いでいる。
元親の妻は、幕府の奉公衆であった石谷光政の次女である ―― 幕府とのつながりを持つことで、土佐七雄のなかでの立場を確固たるものにするためであろう。
光政には男児がいなかったので、同じ土岐氏の流れを組む明智家に縁のあった斎藤利賢の嫡男頼辰を長女の婿として迎い入れ、後継ぎとした。
内蔵助利三は、利賢の次男、頼辰の弟である。
土佐の出来人とは、その縁である。
縁者であり、仲介役の内蔵助にしたら、良い報せであろう。
夜中でありながら、いますぐにでも腰を上げようとしたので、
「あいや、待たれ」
と、十兵衛が止めた。
「分かっておりますよ、某だって、そんなにせっかちではありませぬよ。しょんべんですよ、しょんべん」
と、笑いながら席を外した。
「相変わらずじゃ」
と、左馬助や伝五らは笑っていたが、十兵衛だけは笑ってはいない。
まあ、当然といえば、当然か、殿からあんなことを言われては………………
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説


1333
干支ピリカ
歴史・時代
鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。
(現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)
鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。
主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。
ご興味を持たれた方は是非どうぞ!

大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる