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第五章「盲愛の寺」
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三月一日、朝廷は和睦の勅使として武家伝奏の勧修寺晴豊と権大納言庭田重保を、信長はさらに公家の中で信を置いている前関白近衛前久と大坂攻めの総大将佐久間右衛門尉信盛、交渉事に長ける宮内卿法印松井友閑も加え、大坂本願寺に派遣した。
和睦の交渉とは、お互いの腹の探り合いである。
それぞれに多くの条件を突きつけ、なかには絶対に飲めないような条件も突きつけながらも、この条件だけは確実に飲ませたいために、この条件は捨てようとか、これはある程度で取り下げようなどと、お互いの様子を伺いながらの………………それこそ、戦である。
和睦の交渉である ―― 戦で負けたあとでの交渉ではないので、相手を戒めることも、攻めることもできない。
高圧に、上から目線ではいけない ―― 相手のことを尊重しながらも、己のほうへと有利に導くことが大事だ。
友閑は、それを得意とする。
この交渉も上手くいくかと思ったが………………
「どうも、佐久間様がご納得されないようで」と、濁酒を注ぎながら、乱が言った、「佐久間様は、此度の首謀者の首を差し出せと、もしそれが嫌ならば、門跡の子を人質に出せと」
「まったくあいつは……」
殿はため息を吐き、濁酒を一気に呷った。
「それで大坂方は?」
乱が首を振る。
「それは、当然であろう。右衛門尉はあくまで総大将として立ち会わせたのであって、交渉は友閑に任せておったのじゃがな………………」
まあ、武人として、大坂攻めの総大将として、信盛の気持ちも分からないではない。
五年近くも大坂を取り囲み、敵の首ひとつでも取らねば、武人の名折れであろう。
「まあ、それも分かる」と、殿は太若丸の言葉に頷く、「されど、右衛門尉ひとりの誉れのために、せっかく帝からも勅使を受けておるのに、これを破談にすることもできぬ」
それは、そうだが………………
「右衛門尉には、そういところがあるからな……」
「いっそ、外されては?」
外す?
信盛を交渉の席から外すというのか?
それは、信盛の名を酷く貶めるもの ―― 流石に従わないであろう。
殿も、流石にそこまでは……という顔をしている。
「しかし、これ以上大坂と揉めますと、これまでの交渉が水の泡……、わざわざ勅使まで出していただいたのに、帝がなんと思われるか……」
それもしかりだが………………
「公方様を抱える西国の毛利がどうでるか? 毛利だけでなく、せっかく抑えた摂津や東播がまた騒ぎ出すやもしれませぬ」
摂津の荒木村重も、播磨の別所長治も、領地を守るために織田と毛利を天秤にかけたが、一方で領民である一向門徒たちに突き動かされた一面もある。
大坂とまとまらなければ、誰が領主になっても、上手くまとめられまい。
ちなみに、大物(尼崎)から花隈に移った村重を包囲するため、殿は津田(織田)信澄、塩河長満、惟住(丹羽)長秀の三人に砦を造らせ、池田恒興親子をその城番として守らせている。
確かに、摂津を落とすまであと少しのところにきているのだ。
「しかも、近々北条の使いもあがって参りまする。足元がごたごたしていると思われては、相手もどう思うか?」
きたる弥生には、北条との同盟のため、使者がやってくる。
この饗応役には信盛があたる ―― 補佐は滝川一益が担う。
「大体において、佐久間様には、あまりよからぬ噂もございまするし………………」
「よからぬ噂?」
殿は、眉を寄せた。
「水野様(水野元信)の亡き後、小河・刈屋を拝領されましたが、水野様の家臣らを追放し、そこを自らの領地をして、金品に変えておるのか」
殿は顔を曇らせたが、
「まあ、領地をどう支配するかは、それぞれに任せておるからな」
「されど、領民領地は織田家 ―― 殿のもの。あくまで殿に代わって、佐久間様が差配しているだけのこと、その地に残った武士らを如何様にするかは、殿にひと言あってもよろしかったのでは?」
確かに、それが本筋といえば、本筋だ。
だが、乱は分かってはいない ―― 殿は、そんな細かいことなどに構っていられない ―― むしろ、そんなことまで殿に報せていたら、雷が落ちているだろう。
そこは殿と信盛の仲である。
殿からの反応が小さかったからか、乱は話をもとに戻した。
「ともかく、これ以上佐久間様が交渉に関わると、まとまるものもまとまりませぬので、一度交渉の席から外していただき、代わりに某の母に、そのお役目をお与えくだされば、よき働きをすると思いまするが」
乱のやつ、また母を出してきた。
此度大殿が和睦に傾いたのも、この母の影響があったようだ。
「一度、御目通りをお願いできまするか? 母も、それを願っておりまする」
「うむ、許す」
と、殿は頷いた。
「さてと、そろそろ休むかな」
殿は立ち上がり、寝所へと向かわれた。
太若丸もあとに続こうとしたが、乱に止められた。
「殿の夜伽はお任せください。太若丸様は、大事なお役目がありますでしょう?」
にこりと笑う。
なにを?
「おお、そうじゃ、太若丸には大切な役目があるからな。早く、儂を〝神〟にしてくれ」
殿も、そんなことを言う。
いえ、吾も………………と、あとに付いていこうとすると、宿直たちに止められた。
宿直全員、乱の弟たちだ。
いつから、乱の弟たちが宿直を務めるようになったのか………………太若丸は、それさえも知らなかった。
いや、知らせてもらっていなかった。
吾は、もう不要だというのか………………!
まあ、十兵衛以外と体を重ねずにいられるので、気持ちが楽なのだが………………
でも、十兵衛から殿や乱の様子を探ってほしいと頼まれているし………………
乱が、夜伽をしながら何事か殿に吹き込んでいるようだし………………
これは、まずいのでは………………もしや、吾が外されている?
和睦の交渉とは、お互いの腹の探り合いである。
それぞれに多くの条件を突きつけ、なかには絶対に飲めないような条件も突きつけながらも、この条件だけは確実に飲ませたいために、この条件は捨てようとか、これはある程度で取り下げようなどと、お互いの様子を伺いながらの………………それこそ、戦である。
和睦の交渉である ―― 戦で負けたあとでの交渉ではないので、相手を戒めることも、攻めることもできない。
高圧に、上から目線ではいけない ―― 相手のことを尊重しながらも、己のほうへと有利に導くことが大事だ。
友閑は、それを得意とする。
この交渉も上手くいくかと思ったが………………
「どうも、佐久間様がご納得されないようで」と、濁酒を注ぎながら、乱が言った、「佐久間様は、此度の首謀者の首を差し出せと、もしそれが嫌ならば、門跡の子を人質に出せと」
「まったくあいつは……」
殿はため息を吐き、濁酒を一気に呷った。
「それで大坂方は?」
乱が首を振る。
「それは、当然であろう。右衛門尉はあくまで総大将として立ち会わせたのであって、交渉は友閑に任せておったのじゃがな………………」
まあ、武人として、大坂攻めの総大将として、信盛の気持ちも分からないではない。
五年近くも大坂を取り囲み、敵の首ひとつでも取らねば、武人の名折れであろう。
「まあ、それも分かる」と、殿は太若丸の言葉に頷く、「されど、右衛門尉ひとりの誉れのために、せっかく帝からも勅使を受けておるのに、これを破談にすることもできぬ」
それは、そうだが………………
「右衛門尉には、そういところがあるからな……」
「いっそ、外されては?」
外す?
信盛を交渉の席から外すというのか?
それは、信盛の名を酷く貶めるもの ―― 流石に従わないであろう。
殿も、流石にそこまでは……という顔をしている。
「しかし、これ以上大坂と揉めますと、これまでの交渉が水の泡……、わざわざ勅使まで出していただいたのに、帝がなんと思われるか……」
それもしかりだが………………
「公方様を抱える西国の毛利がどうでるか? 毛利だけでなく、せっかく抑えた摂津や東播がまた騒ぎ出すやもしれませぬ」
摂津の荒木村重も、播磨の別所長治も、領地を守るために織田と毛利を天秤にかけたが、一方で領民である一向門徒たちに突き動かされた一面もある。
大坂とまとまらなければ、誰が領主になっても、上手くまとめられまい。
ちなみに、大物(尼崎)から花隈に移った村重を包囲するため、殿は津田(織田)信澄、塩河長満、惟住(丹羽)長秀の三人に砦を造らせ、池田恒興親子をその城番として守らせている。
確かに、摂津を落とすまであと少しのところにきているのだ。
「しかも、近々北条の使いもあがって参りまする。足元がごたごたしていると思われては、相手もどう思うか?」
きたる弥生には、北条との同盟のため、使者がやってくる。
この饗応役には信盛があたる ―― 補佐は滝川一益が担う。
「大体において、佐久間様には、あまりよからぬ噂もございまするし………………」
「よからぬ噂?」
殿は、眉を寄せた。
「水野様(水野元信)の亡き後、小河・刈屋を拝領されましたが、水野様の家臣らを追放し、そこを自らの領地をして、金品に変えておるのか」
殿は顔を曇らせたが、
「まあ、領地をどう支配するかは、それぞれに任せておるからな」
「されど、領民領地は織田家 ―― 殿のもの。あくまで殿に代わって、佐久間様が差配しているだけのこと、その地に残った武士らを如何様にするかは、殿にひと言あってもよろしかったのでは?」
確かに、それが本筋といえば、本筋だ。
だが、乱は分かってはいない ―― 殿は、そんな細かいことなどに構っていられない ―― むしろ、そんなことまで殿に報せていたら、雷が落ちているだろう。
そこは殿と信盛の仲である。
殿からの反応が小さかったからか、乱は話をもとに戻した。
「ともかく、これ以上佐久間様が交渉に関わると、まとまるものもまとまりませぬので、一度交渉の席から外していただき、代わりに某の母に、そのお役目をお与えくだされば、よき働きをすると思いまするが」
乱のやつ、また母を出してきた。
此度大殿が和睦に傾いたのも、この母の影響があったようだ。
「一度、御目通りをお願いできまするか? 母も、それを願っておりまする」
「うむ、許す」
と、殿は頷いた。
「さてと、そろそろ休むかな」
殿は立ち上がり、寝所へと向かわれた。
太若丸もあとに続こうとしたが、乱に止められた。
「殿の夜伽はお任せください。太若丸様は、大事なお役目がありますでしょう?」
にこりと笑う。
なにを?
「おお、そうじゃ、太若丸には大切な役目があるからな。早く、儂を〝神〟にしてくれ」
殿も、そんなことを言う。
いえ、吾も………………と、あとに付いていこうとすると、宿直たちに止められた。
宿直全員、乱の弟たちだ。
いつから、乱の弟たちが宿直を務めるようになったのか………………太若丸は、それさえも知らなかった。
いや、知らせてもらっていなかった。
吾は、もう不要だというのか………………!
まあ、十兵衛以外と体を重ねずにいられるので、気持ちが楽なのだが………………
でも、十兵衛から殿や乱の様子を探ってほしいと頼まれているし………………
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