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第五章「盲愛の寺」
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年明け早々、播磨攻め総大将羽柴筑前守秀吉が動いた。
先に両丹を抑え、織田家家臣団のなかで頭一つとびぬけた十兵衛には負けられぬと、別所一族に猛攻をかけた。
まずは別所長治の弟友之が立て籠る宮の上を攻め、これを落とす。
友之は宮の上を捨て、兄の籠城する三木へ。
宮の上にあがった秀吉は、次に長治の叔父吉親が守る鷹尾山を攻撃。
吉親も守り切れずに、三木へと入った。
そのまま秀吉は三木へと進み出て総攻撃を開始、城兵も出撃し、双方激しい討ち合いになった。
このとき、城から出火し、その一部が焼け落ちた。
ついに本丸をとらえた秀吉だったが、このまま押し切れば城は落ちようが、追い詰められた城方が最期の力で反抗してくれば、こちらも無駄に兵を消耗してしまおうと、与力のひとり別所重宗に、『これ以上の戦は無用、早々に城を開け渡せ』と、説得に向かわせた。
重宗は、長治の叔父、吉親の弟であったが、織田への反抗は世の趨勢に反すると、袖を分かっていた。
重宗は、城方の小森与左衛門を仲介に、
『摂津の荒木一門や、丹波の波多野兄弟のようになっては武門の恥、末永く嘲笑の的となろう。ここは潔く腹を切り、城を明け渡せ』
と、長治たちに書状を送る。
対し長治は、もはやこれまでと、
『長治、友之、吉親の三人は腹を切るので、何卒家臣らの命だけは助けてほしい』
と、送り返した。
これを受けた秀吉は、城兵らの助命を認め、さらには酒二、三樽を贈ったらしい。
天正八(一五八〇)年一月十七日、三木城陥落。
開け放たれた城門から痩せこけた男や女、子どもたちが続々と出てくるなか、ひとりの小姓が秀吉の前まで進み出て、短冊を差し出した。
別所一族の辞世の句である。
聞けば、秀吉には感謝していたらしい。
織田家に反旗を翻してから、はや二年 ―― 秀吉の兵糧攻めは過酷を極める。
鼠どころか、蟻の一匹すら行き来できないほどの囲みのなか、米や味噌は早々に尽き、牛馬も殺し食い、草木を食んで生きながらえていたが、城内はもはや餓鬼道寸前(三木の干殺し)。
死出の旅立ちに別れの杯もなかった状況で、秀吉からの贈り物は、長治にしてみれば大層有り難かったはずだ。
こういうところが、人垂らしなのだ。
長治は、友之や妻子、家臣らに、明日には腹を切ると告げ、別れの杯を交わしたあと、叔父の吉親にも同様に話した。
すると、吉親は、
『腹を切れば、羽柴は必ずや首をとり、それを安土に送って嘲笑しよう。斯様な恥を掻くぐらいならば、城に火を点け、この骨の一片すらも残さずほど燃やし尽くそうぞ』
と、十七日申の刻(午後四時)に、己の屋敷に火を点けたらしい。
三人が腹を切る約束で、家臣たちは助かるのである。
己の名誉のために巻き添えになってはと、家臣たちは火を消し、吉親を取り押さえ、無理やり腹を切らせたそうだ。
吉親の妻は、夫の死を見届けたあと、ふたりの息子とひとりの娘を左右に座らせ、これをひとりずつ刺し殺し、最後は自ら喉を掻き斬って果てたという。
同じ頃、別所家当主長治は、三つの我が子を膝に抱き、涙ながらにこれを刺し殺すと、そのまま妻を引き寄せ、これも道連れとした。
そして、弟の友之と広縁に出ると、家臣らに、
『此度の一戦、牛馬を喰らうほどになっても城門を固く閉じ、籠城を続けたそなたらの志、また前代未聞の働き、礼を尽くしても尽くしきれぬ。我らが腹を切り、そなたらの命が助かれば、それ以上の喜びはない』
と、自ら腹を掻っ捌いたという。
介錯は、家老三宅治忠、
『殿に恩賞を受けるものは多かろうが、殿と死出の旅路をともにするものはいまい。某は家老でありながらも、生前はさして殿のお役に立てることはできなかった。言いたきことは多々あるが、せめて殿のお供をいたしましょうぞ。さあ、三宅肥前入道が最期、とくと見よ!』
と、腹を十文字に切り裂き、臓器を引き摺りだして、長治と枕を共にしたらしい。
残された弟友之は、自らの家臣らの長年の労に感謝し、太刀や刀、脇差や鎧兜を分け与え、自らは兄長治が自刃に使った脇差で、腹を切ったという。
今はただ 恨みもなしや 諸人の
命にかはる わが身と思へば
(いまはもう恨みごともないよ
私の身ひとつで、家臣らの命が救われるのだから)
別所長治、二十六歳最期の歌である。
そして三人の首は、吉親の予想どおり安土へと送られた。
先に両丹を抑え、織田家家臣団のなかで頭一つとびぬけた十兵衛には負けられぬと、別所一族に猛攻をかけた。
まずは別所長治の弟友之が立て籠る宮の上を攻め、これを落とす。
友之は宮の上を捨て、兄の籠城する三木へ。
宮の上にあがった秀吉は、次に長治の叔父吉親が守る鷹尾山を攻撃。
吉親も守り切れずに、三木へと入った。
そのまま秀吉は三木へと進み出て総攻撃を開始、城兵も出撃し、双方激しい討ち合いになった。
このとき、城から出火し、その一部が焼け落ちた。
ついに本丸をとらえた秀吉だったが、このまま押し切れば城は落ちようが、追い詰められた城方が最期の力で反抗してくれば、こちらも無駄に兵を消耗してしまおうと、与力のひとり別所重宗に、『これ以上の戦は無用、早々に城を開け渡せ』と、説得に向かわせた。
重宗は、長治の叔父、吉親の弟であったが、織田への反抗は世の趨勢に反すると、袖を分かっていた。
重宗は、城方の小森与左衛門を仲介に、
『摂津の荒木一門や、丹波の波多野兄弟のようになっては武門の恥、末永く嘲笑の的となろう。ここは潔く腹を切り、城を明け渡せ』
と、長治たちに書状を送る。
対し長治は、もはやこれまでと、
『長治、友之、吉親の三人は腹を切るので、何卒家臣らの命だけは助けてほしい』
と、送り返した。
これを受けた秀吉は、城兵らの助命を認め、さらには酒二、三樽を贈ったらしい。
天正八(一五八〇)年一月十七日、三木城陥落。
開け放たれた城門から痩せこけた男や女、子どもたちが続々と出てくるなか、ひとりの小姓が秀吉の前まで進み出て、短冊を差し出した。
別所一族の辞世の句である。
聞けば、秀吉には感謝していたらしい。
織田家に反旗を翻してから、はや二年 ―― 秀吉の兵糧攻めは過酷を極める。
鼠どころか、蟻の一匹すら行き来できないほどの囲みのなか、米や味噌は早々に尽き、牛馬も殺し食い、草木を食んで生きながらえていたが、城内はもはや餓鬼道寸前(三木の干殺し)。
死出の旅立ちに別れの杯もなかった状況で、秀吉からの贈り物は、長治にしてみれば大層有り難かったはずだ。
こういうところが、人垂らしなのだ。
長治は、友之や妻子、家臣らに、明日には腹を切ると告げ、別れの杯を交わしたあと、叔父の吉親にも同様に話した。
すると、吉親は、
『腹を切れば、羽柴は必ずや首をとり、それを安土に送って嘲笑しよう。斯様な恥を掻くぐらいならば、城に火を点け、この骨の一片すらも残さずほど燃やし尽くそうぞ』
と、十七日申の刻(午後四時)に、己の屋敷に火を点けたらしい。
三人が腹を切る約束で、家臣たちは助かるのである。
己の名誉のために巻き添えになってはと、家臣たちは火を消し、吉親を取り押さえ、無理やり腹を切らせたそうだ。
吉親の妻は、夫の死を見届けたあと、ふたりの息子とひとりの娘を左右に座らせ、これをひとりずつ刺し殺し、最後は自ら喉を掻き斬って果てたという。
同じ頃、別所家当主長治は、三つの我が子を膝に抱き、涙ながらにこれを刺し殺すと、そのまま妻を引き寄せ、これも道連れとした。
そして、弟の友之と広縁に出ると、家臣らに、
『此度の一戦、牛馬を喰らうほどになっても城門を固く閉じ、籠城を続けたそなたらの志、また前代未聞の働き、礼を尽くしても尽くしきれぬ。我らが腹を切り、そなたらの命が助かれば、それ以上の喜びはない』
と、自ら腹を掻っ捌いたという。
介錯は、家老三宅治忠、
『殿に恩賞を受けるものは多かろうが、殿と死出の旅路をともにするものはいまい。某は家老でありながらも、生前はさして殿のお役に立てることはできなかった。言いたきことは多々あるが、せめて殿のお供をいたしましょうぞ。さあ、三宅肥前入道が最期、とくと見よ!』
と、腹を十文字に切り裂き、臓器を引き摺りだして、長治と枕を共にしたらしい。
残された弟友之は、自らの家臣らの長年の労に感謝し、太刀や刀、脇差や鎧兜を分け与え、自らは兄長治が自刃に使った脇差で、腹を切ったという。
今はただ 恨みもなしや 諸人の
命にかはる わが身と思へば
(いまはもう恨みごともないよ
私の身ひとつで、家臣らの命が救われるのだから)
別所長治、二十六歳最期の歌である。
そして三人の首は、吉親の予想どおり安土へと送られた。
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