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第五章「盲愛の寺」
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「あれはな、むかしから『退きの佐久間』と言うてな、退却だけは得意でな、何かあると、すぐに逃げる」
「左様でしたか………………」
「まあ、それは戯言じゃ、本当は殿を任せれば天下一でな、儂もよくよく助けられたものじゃ。まあ、殿だけでなく、先鋒としても活躍も多い。が、それを周囲に誇るところがあって、皆から煙たがられる、儂は、そういうところが面白いと思うのじゃが……、とはいうものの、あれは、むかしから口煩いところがあって、儂のやることなすことに、何かと注文をつけてきよってな、まあ、そのたびに煩い奴じゃと思うのじゃが、それも儂のことを考えてのことじゃろう。思えば、幼いころから儂のことを信じてついてきたのは、右衛門尉だけじゃったかな」
殿が、実弟の信行と跡目争いになった際、信盛は信長側につき、信行側と争った。
それ以来、信長家臣団の筆頭格扱いだ。
「息子(信栄)もよい武人となった。本人は、まだまだ気丈に振る舞っておるが、儂の目にもかなり衰えておるのが分かる。あれにも、そろそろ楽をさせてやりたい。大坂は息子の方に任せ、儂の傍で茶飲み爺として傍にいてもらいたい。東国に向かわせるのは、辛かろう。徳川を抑え込むのならば、別のものが良かろう」
「畏まり候。それでしたら、滝川殿や丹羽殿……、三位中将様(信忠)を向かわせるのも、ありかと。大殿の名代として、東国に馬印を靡かせれば、これに従わぬものはおりますまい」
「ふむ、なるほど……、そうなると、儂は何か官位を受けた方がよいのかのう?」
十兵衛は首を傾げる。
「天下人として、武田と北条の仲介に入るためには、それなりの官位は必要であろう」
「確かに、あったほうが重みは増しますが……、左様なお話が?」
「吉兵衛(京都所司代村井貞勝)がな、ほれ、二条を東宮様の屋敷にする話じゃ、あの返礼として、官位の話がでるのではというてな」
「確かに、出ましょうな。お受けになるので?」
殿は首を振る。
「そんな役に立たんもの、興味ない………………が、仮にそれで他の武将が靡くのならば、まあ、邪魔になるものではないし、受けるのも良いかとな………………、おぬしの話を聞いて思ったまでよ」
「左様でござりましたか。確かに、持っていても邪魔にはならぬもの、むしろあった方が何かと都合がよろしいかと。それで、何をお受けになりまするか? もう右大臣はお受けになりましたので………………」
信長は、天正五(一五七七)年十一月にこれを補任され、その半年後には辞めている。
いまは無冠である。
次に受けるとなれば、左大臣であるが………………いまは一条内基が補任されている。
「左大臣が、一番偉いのか?」
十兵衛は首を傾げる。
「どうせ貰うのなら、一番上の位が良いではいないか? 朝廷のなかで、一番偉いのは誰じゃ?」
「ならば………………」
と、十兵衛が視線を寄こした。
代わりに答えろということか? ―― ならば………………太政大臣であろう。
「それは、左大臣よりも上か?」
すべての政事を統べる太政官にあって、実際に政務を司る中で最上位にあるのが左大臣であるが、さらにその上に太政大臣がいる。
「太政大臣とは、何ぞや?」
養老令にこうある………………
師範一人 儀刑四海 経邦論道 燮理陰陽 无其人則闕
(一人の師範として 四海に儀刑たり
邦を経さめ道を論じ 陰陽を燮理す
その人なければすなわち闕けよ)
「つまり……、帝よりも偉いということか?」
太若丸は首を振る………………帝の師範として、四海の手本となり、邦を治め、道を論じ、陰陽を整えよ、そのような人物がいないのならば、すなわち空位とせよ………………ということだ。
「つまりは家柄だけでなく、そのものの才だけでなく、そのものの人柄すべてが優れたものが補任される官位でありまして、もしそのようなものがいなければ、これを任じないこともございます。いまは、誰も補任されておりません」
と、十兵衛が続けた。
「それは……、武門の出でもなれるのか?」
その昔、福原殿(平清盛)が補任された。
近くは、室町殿(足利義満)である。
「関白とは……、違うのか?」
関白は、帝を輔弼する令外官である。
律令の外にはいるが、つねに帝に近く、太政官の上奏を前もって閲覧し、ときに拒否するなど、帝に近い力を持ち、なおかつ帝の外戚が多く務めたため、いつの間にか殿上人の最上位のような地位になってしまった。
「なるほど……、武士で関白になったものは?」
十兵衛は首を振る。
「ほう! では、儂が関白になれば、武家で初というわけだな?」
「関白は……、恐らく摂関家のものが首を縦には振りますまい」
やんごとなき方々は、前例というのに拘る ―― 前のとおり、いつものとおり、古のとおり、これを無事にこなすが、彼らの政事であるし、いまや現世の権力をほとんど武家に奪われた公家衆が、揚名ではあるが、最後の砦である〝関白〟という最上位を渡すことは、絶対にあるまい。
「ならば……、やはり征夷大将軍か?」
「武門の棟梁となれば、やはり……、その方が武家を統べるものとして、諸将に睨みもききましょう」
「将軍も、先にいった、なんであったかのう……、れい……?」
「令外官でございますか?」
「うむ、それで帝から認めてもらわぬばならぬのであろう?」
「それは、太政大臣も、関白も同じにございます」
殿は、何が言いたいのであろう?
「すなわち、この邦で一番偉いのは、帝ではないか?」
「まあ、そうとも言えまするが……」
「つまり、帝になれば何でもできるということじゃな? この世を儂好みの極楽浄土にすることも」
十兵衛の顔が険しくなった。
太若丸も眉を顰める。
傍にいる乱だけは、にんまりと笑った。
「左様でしたか………………」
「まあ、それは戯言じゃ、本当は殿を任せれば天下一でな、儂もよくよく助けられたものじゃ。まあ、殿だけでなく、先鋒としても活躍も多い。が、それを周囲に誇るところがあって、皆から煙たがられる、儂は、そういうところが面白いと思うのじゃが……、とはいうものの、あれは、むかしから口煩いところがあって、儂のやることなすことに、何かと注文をつけてきよってな、まあ、そのたびに煩い奴じゃと思うのじゃが、それも儂のことを考えてのことじゃろう。思えば、幼いころから儂のことを信じてついてきたのは、右衛門尉だけじゃったかな」
殿が、実弟の信行と跡目争いになった際、信盛は信長側につき、信行側と争った。
それ以来、信長家臣団の筆頭格扱いだ。
「息子(信栄)もよい武人となった。本人は、まだまだ気丈に振る舞っておるが、儂の目にもかなり衰えておるのが分かる。あれにも、そろそろ楽をさせてやりたい。大坂は息子の方に任せ、儂の傍で茶飲み爺として傍にいてもらいたい。東国に向かわせるのは、辛かろう。徳川を抑え込むのならば、別のものが良かろう」
「畏まり候。それでしたら、滝川殿や丹羽殿……、三位中将様(信忠)を向かわせるのも、ありかと。大殿の名代として、東国に馬印を靡かせれば、これに従わぬものはおりますまい」
「ふむ、なるほど……、そうなると、儂は何か官位を受けた方がよいのかのう?」
十兵衛は首を傾げる。
「天下人として、武田と北条の仲介に入るためには、それなりの官位は必要であろう」
「確かに、あったほうが重みは増しますが……、左様なお話が?」
「吉兵衛(京都所司代村井貞勝)がな、ほれ、二条を東宮様の屋敷にする話じゃ、あの返礼として、官位の話がでるのではというてな」
「確かに、出ましょうな。お受けになるので?」
殿は首を振る。
「そんな役に立たんもの、興味ない………………が、仮にそれで他の武将が靡くのならば、まあ、邪魔になるものではないし、受けるのも良いかとな………………、おぬしの話を聞いて思ったまでよ」
「左様でござりましたか。確かに、持っていても邪魔にはならぬもの、むしろあった方が何かと都合がよろしいかと。それで、何をお受けになりまするか? もう右大臣はお受けになりましたので………………」
信長は、天正五(一五七七)年十一月にこれを補任され、その半年後には辞めている。
いまは無冠である。
次に受けるとなれば、左大臣であるが………………いまは一条内基が補任されている。
「左大臣が、一番偉いのか?」
十兵衛は首を傾げる。
「どうせ貰うのなら、一番上の位が良いではいないか? 朝廷のなかで、一番偉いのは誰じゃ?」
「ならば………………」
と、十兵衛が視線を寄こした。
代わりに答えろということか? ―― ならば………………太政大臣であろう。
「それは、左大臣よりも上か?」
すべての政事を統べる太政官にあって、実際に政務を司る中で最上位にあるのが左大臣であるが、さらにその上に太政大臣がいる。
「太政大臣とは、何ぞや?」
養老令にこうある………………
師範一人 儀刑四海 経邦論道 燮理陰陽 无其人則闕
(一人の師範として 四海に儀刑たり
邦を経さめ道を論じ 陰陽を燮理す
その人なければすなわち闕けよ)
「つまり……、帝よりも偉いということか?」
太若丸は首を振る………………帝の師範として、四海の手本となり、邦を治め、道を論じ、陰陽を整えよ、そのような人物がいないのならば、すなわち空位とせよ………………ということだ。
「つまりは家柄だけでなく、そのものの才だけでなく、そのものの人柄すべてが優れたものが補任される官位でありまして、もしそのようなものがいなければ、これを任じないこともございます。いまは、誰も補任されておりません」
と、十兵衛が続けた。
「それは……、武門の出でもなれるのか?」
その昔、福原殿(平清盛)が補任された。
近くは、室町殿(足利義満)である。
「関白とは……、違うのか?」
関白は、帝を輔弼する令外官である。
律令の外にはいるが、つねに帝に近く、太政官の上奏を前もって閲覧し、ときに拒否するなど、帝に近い力を持ち、なおかつ帝の外戚が多く務めたため、いつの間にか殿上人の最上位のような地位になってしまった。
「なるほど……、武士で関白になったものは?」
十兵衛は首を振る。
「ほう! では、儂が関白になれば、武家で初というわけだな?」
「関白は……、恐らく摂関家のものが首を縦には振りますまい」
やんごとなき方々は、前例というのに拘る ―― 前のとおり、いつものとおり、古のとおり、これを無事にこなすが、彼らの政事であるし、いまや現世の権力をほとんど武家に奪われた公家衆が、揚名ではあるが、最後の砦である〝関白〟という最上位を渡すことは、絶対にあるまい。
「ならば……、やはり征夷大将軍か?」
「武門の棟梁となれば、やはり……、その方が武家を統べるものとして、諸将に睨みもききましょう」
「将軍も、先にいった、なんであったかのう……、れい……?」
「令外官でございますか?」
「うむ、それで帝から認めてもらわぬばならぬのであろう?」
「それは、太政大臣も、関白も同じにございます」
殿は、何が言いたいのであろう?
「すなわち、この邦で一番偉いのは、帝ではないか?」
「まあ、そうとも言えまするが……」
「つまり、帝になれば何でもできるということじゃな? この世を儂好みの極楽浄土にすることも」
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