本能寺燃ゆ

hiro75

文字の大きさ
上 下
416 / 498
第五章「盲愛の寺」

29

しおりを挟む
「最後に、その肝っ玉の据わった女の名だけでも聞いておこうか?」

「はっ……」、貞勝は書面に目を落とし、名を告げる。

 その名は………………何事か思い出しそうなところに、矢部家定が駆け込んできて、「御免」と、殿の傍まで走り寄り耳打ちした。

「なに?」

 殿は、両目をひん剥いて驚く。

「まことか? 婿殿が?」

「はっ、松平殿、さきの十五日に二俣城にてご切腹、徳川殿、大殿へのお詫びのしるしにと、その首を送り届けるとのこと」

「三郎殿が………………」

 殿は、しばし呆然としていた。

 が、すぐさま怒りの形相で、「羽林め!」と、怒気を含んだ声で言った。

 そこに長谷川秀一が飛び込んで、

「申し上げます」

「なんじゃ!」

 殿が怒鳴るようにいったので、秀一はひどく驚いていた。

 おたおたしていると、

「早く申せ!」

 と、さらなる怒号が飛んだ。

「は、はっ、北畠様、八千の兵を率いて伊賀へと出陣、されど伊賀衆に阻まれ、柘植殿(柘植保重つげやすしげ)、討ち死に! 北畠様、奮戦するも、撤退!」

 殿の蟀谷にはぶっとい筋が浮かび、みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。

「あの……〝おおうつけ〟が!」

 天正七(一五七九)年九月十七日、北畠信意きたばたけのぶおき織田信雄おだのぶかつ)は何を思ったのか、突如、八千の兵を率いて隣国伊賀へと侵攻する。

 伊賀へ三方より攻め入ったが、伊賀十二人衆の巧みな戦術により大敗、伊勢へと逃げ帰る最中、殿を務めた重臣柘植保重が、植田光次うえだみつつぐに討ち取られたらしい。

「摂津への出陣の仕度をせよというたのに、儂に無断で何をしておるか!」

「使番の話では、北畠様が、此度の一件で大殿に御目通りを願っておられるとのことですが………………」

「うつけが! 顔を見とうもないわ! 二度と儂の前に顔を出すなと伝えよ!」

 定家は、まるで己が言われたかのように、震えていた。

「気分が悪い! 太若丸、乱丸、濁酒じゃ!」

 慌てて仕度をはじめる。

 しばらく浴びるように濁酒を煽っていたが、乱のご機嫌取りのお陰で、徐々にではあるが、機嫌も直ってきた。

 あとは、その場を乱に任せることにして、貞勝のもとに向かった。

 例の女の話を聞くためだ。

「あの女ですか? いまは牢獄に押し込めておりますが………………、何か気がかりが?」

 太若丸は、特にと首を振るが………………知ったものかと?

「お知り合いで?」

 貞勝は驚いている。

 知り合いという分けではなく、ただ知っているものかと………………

「左様ですか………………、一度お会いになられますか?」

 今度は、太若丸のほうが驚いた………………会うなんて………………会ってどうするのか?

 初めて〝女〟を教えてもらった人だ。

 あのときの〝女〟のぬくもりと柔らかさ、匂いは、強烈に覚えている。

 ただ、顔はうっすらと覚えているだけ、ほとんど消えかかっている。

 会ったところで、何を言うでも、何をするでもない。

 第一、本当に〝あの女〟とも限らない ―― あんな名は、どこにでもいる。

 太若丸は首を振ったが、貞勝は意味深な顔で、

「気になるなら、一度会われてみては?」

 と、聞いてきた。

「人違いなら、それでよろしい。知り合いであれば、なおよろしい。気になるならば、蓋を開けてみれば良いこと。餅が入っているか、附子が入っているかは、開けてみてのお楽しみ。餅ならば、食べれば良いこと、附子ならば捨てればよいこと。だが、蓋を開けねば、餅すら食うこともできますまい」

 なるほど、武士の考え方だな。

 百姓ならば、そんな箱、怖くて触りもしないだろうが………………

 曲がりなりにも、太若丸も武士となった。

 なら、開けてみるか………………?
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

1333

干支ピリカ
歴史・時代
 鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。 (現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)  鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。  主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。  ご興味を持たれた方は是非どうぞ!

大航海時代 日本語版

藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった――― 関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった ―――鎖国前夜の1631年 坂本龍馬に先駆けること200年以上前 東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン 『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです ※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝

糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。 その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。 姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

処理中です...