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第五章「盲愛の寺」
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「最後に、その肝っ玉の据わった女の名だけでも聞いておこうか?」
「はっ……」、貞勝は書面に目を落とし、名を告げる。
その名は………………何事か思い出しそうなところに、矢部家定が駆け込んできて、「御免」と、殿の傍まで走り寄り耳打ちした。
「なに?」
殿は、両目をひん剥いて驚く。
「まことか? 婿殿が?」
「はっ、松平殿、さきの十五日に二俣城にてご切腹、徳川殿、大殿へのお詫びのしるしにと、その首を送り届けるとのこと」
「三郎殿が………………」
殿は、しばし呆然としていた。
が、すぐさま怒りの形相で、「羽林め!」と、怒気を含んだ声で言った。
そこに長谷川秀一が飛び込んで、
「申し上げます」
「なんじゃ!」
殿が怒鳴るようにいったので、秀一はひどく驚いていた。
おたおたしていると、
「早く申せ!」
と、さらなる怒号が飛んだ。
「は、はっ、北畠様、八千の兵を率いて伊賀へと出陣、されど伊賀衆に阻まれ、柘植殿(柘植保重)、討ち死に! 北畠様、奮戦するも、撤退!」
殿の蟀谷にはぶっとい筋が浮かび、みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
「あの……〝おおうつけ〟が!」
天正七(一五七九)年九月十七日、北畠信意(織田信雄)は何を思ったのか、突如、八千の兵を率いて隣国伊賀へと侵攻する。
伊賀へ三方より攻め入ったが、伊賀十二人衆の巧みな戦術により大敗、伊勢へと逃げ帰る最中、殿を務めた重臣柘植保重が、植田光次に討ち取られたらしい。
「摂津への出陣の仕度をせよというたのに、儂に無断で何をしておるか!」
「使番の話では、北畠様が、此度の一件で大殿に御目通りを願っておられるとのことですが………………」
「うつけが! 顔を見とうもないわ! 二度と儂の前に顔を出すなと伝えよ!」
定家は、まるで己が言われたかのように、震えていた。
「気分が悪い! 太若丸、乱丸、濁酒じゃ!」
慌てて仕度をはじめる。
しばらく浴びるように濁酒を煽っていたが、乱のご機嫌取りのお陰で、徐々にではあるが、機嫌も直ってきた。
あとは、その場を乱に任せることにして、貞勝のもとに向かった。
例の女の話を聞くためだ。
「あの女ですか? いまは牢獄に押し込めておりますが………………、何か気がかりが?」
太若丸は、特にと首を振るが………………知ったものかと?
「お知り合いで?」
貞勝は驚いている。
知り合いという分けではなく、ただ知っているものかと………………
「左様ですか………………、一度お会いになられますか?」
今度は、太若丸のほうが驚いた………………会うなんて………………会ってどうするのか?
初めて〝女〟を教えてもらった人だ。
あのときの〝女〟のぬくもりと柔らかさ、匂いは、強烈に覚えている。
ただ、顔はうっすらと覚えているだけ、ほとんど消えかかっている。
会ったところで、何を言うでも、何をするでもない。
第一、本当に〝あの女〟とも限らない ―― あんな名は、どこにでもいる。
太若丸は首を振ったが、貞勝は意味深な顔で、
「気になるなら、一度会われてみては?」
と、聞いてきた。
「人違いなら、それでよろしい。知り合いであれば、なおよろしい。気になるならば、蓋を開けてみれば良いこと。餅が入っているか、附子が入っているかは、開けてみてのお楽しみ。餅ならば、食べれば良いこと、附子ならば捨てればよいこと。だが、蓋を開けねば、餅すら食うこともできますまい」
なるほど、武士の考え方だな。
百姓ならば、そんな箱、怖くて触りもしないだろうが………………
曲がりなりにも、太若丸も武士となった。
なら、開けてみるか………………?
「はっ……」、貞勝は書面に目を落とし、名を告げる。
その名は………………何事か思い出しそうなところに、矢部家定が駆け込んできて、「御免」と、殿の傍まで走り寄り耳打ちした。
「なに?」
殿は、両目をひん剥いて驚く。
「まことか? 婿殿が?」
「はっ、松平殿、さきの十五日に二俣城にてご切腹、徳川殿、大殿へのお詫びのしるしにと、その首を送り届けるとのこと」
「三郎殿が………………」
殿は、しばし呆然としていた。
が、すぐさま怒りの形相で、「羽林め!」と、怒気を含んだ声で言った。
そこに長谷川秀一が飛び込んで、
「申し上げます」
「なんじゃ!」
殿が怒鳴るようにいったので、秀一はひどく驚いていた。
おたおたしていると、
「早く申せ!」
と、さらなる怒号が飛んだ。
「は、はっ、北畠様、八千の兵を率いて伊賀へと出陣、されど伊賀衆に阻まれ、柘植殿(柘植保重)、討ち死に! 北畠様、奮戦するも、撤退!」
殿の蟀谷にはぶっとい筋が浮かび、みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。
「あの……〝おおうつけ〟が!」
天正七(一五七九)年九月十七日、北畠信意(織田信雄)は何を思ったのか、突如、八千の兵を率いて隣国伊賀へと侵攻する。
伊賀へ三方より攻め入ったが、伊賀十二人衆の巧みな戦術により大敗、伊勢へと逃げ帰る最中、殿を務めた重臣柘植保重が、植田光次に討ち取られたらしい。
「摂津への出陣の仕度をせよというたのに、儂に無断で何をしておるか!」
「使番の話では、北畠様が、此度の一件で大殿に御目通りを願っておられるとのことですが………………」
「うつけが! 顔を見とうもないわ! 二度と儂の前に顔を出すなと伝えよ!」
定家は、まるで己が言われたかのように、震えていた。
「気分が悪い! 太若丸、乱丸、濁酒じゃ!」
慌てて仕度をはじめる。
しばらく浴びるように濁酒を煽っていたが、乱のご機嫌取りのお陰で、徐々にではあるが、機嫌も直ってきた。
あとは、その場を乱に任せることにして、貞勝のもとに向かった。
例の女の話を聞くためだ。
「あの女ですか? いまは牢獄に押し込めておりますが………………、何か気がかりが?」
太若丸は、特にと首を振るが………………知ったものかと?
「お知り合いで?」
貞勝は驚いている。
知り合いという分けではなく、ただ知っているものかと………………
「左様ですか………………、一度お会いになられますか?」
今度は、太若丸のほうが驚いた………………会うなんて………………会ってどうするのか?
初めて〝女〟を教えてもらった人だ。
あのときの〝女〟のぬくもりと柔らかさ、匂いは、強烈に覚えている。
ただ、顔はうっすらと覚えているだけ、ほとんど消えかかっている。
会ったところで、何を言うでも、何をするでもない。
第一、本当に〝あの女〟とも限らない ―― あんな名は、どこにでもいる。
太若丸は首を振ったが、貞勝は意味深な顔で、
「気になるなら、一度会われてみては?」
と、聞いてきた。
「人違いなら、それでよろしい。知り合いであれば、なおよろしい。気になるならば、蓋を開けてみれば良いこと。餅が入っているか、附子が入っているかは、開けてみてのお楽しみ。餅ならば、食べれば良いこと、附子ならば捨てればよいこと。だが、蓋を開けねば、餅すら食うこともできますまい」
なるほど、武士の考え方だな。
百姓ならば、そんな箱、怖くて触りもしないだろうが………………
曲がりなりにも、太若丸も武士となった。
なら、開けてみるか………………?
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