275 / 498
第三章「寵愛の帳」
119(了)
しおりを挟む
岐阜に戻られた早々、殿は自ら出馬の仕度をされていたのだが………………
「此度の戦は、某にお任せ下され」
信忠が、しつこく言い寄ってきた。
「ならぬ、おぬしは当分戦場にでるな!」
「何故にござりまするか?」
「分からぬか!」、信長は使っていた脇息をどんと叩いた、「そういうところじゃぞ、おぬしの!」
「分かりませぬ!」
「分からぬじゃと? ならば、猶の事、戦場に出すわけにはいかん! 下がれ!」
「下がりませぬ!」
珍しく信忠が反発する。
「おのれ! 儂の命に逆らうか! 太若丸、刀じゃ!」
もしや、信忠を切るつもりでは?
殿の命だが、流石にそればかりはと躊躇う。
他の家臣たちも、「殿、そればかりは!」「しばらく、しばらくお待ちを!」と、止めに入った。
家臣に促され、しばらくして落ち着いたのか、殿は深いため息を吐いた。
「奇妙よ、何故それほど戦に出たがる? 何を焦っておる? 儂は、おぬしがいつか死ぬのではないかと心配しておる。この親心が分からぬか?」
「某は、武士でございます。織田右大将の子でござりまする。戦場で死んで、何を恥じましょうぞ! むしろ、畳の上で死ぬことが恥!」
「おぬしは、織田の跡目ぞ」
「弟たちがおりまする、七兵衛も……」
信忠の目じりが、うっすらと滲んでいる。
もしや、己が殿に疎んじられていると思っているのか?
「うつけが!」、殿の声が城中に響き渡る、「そのような狭い料簡で、織田家をまとめることができると思うてか!」
「織田を継ぐつもりはございません」
「な、なにを?」
「某、松姫を嫁に迎えられねば、織田を継ぐつもりはございません」
「なにを………………」
松姫とは、武田晴信の娘 ―― 織田が武田と同盟を結ぶ際に、信忠の嫁にすると約したが、これは晴信の西進で反故となった。
信忠は、まだ松姫のことを想っていたのか………………一度も逢ったことがないのに………………
殿も、家臣たちも、あまりのことに唖然としている。
「武田との和睦がならねば、彼を倒して、松姫を奪うまで!」
信忠は、両目を滲ませ、頬を紅潮させてまでして訴える。
「ならぬ! おぬしには、儂が責任を以て良き家柄の嫁をとらせる!」
「己の嫁ぐらい! 己で決めまする!」
「ならぬ! そなたは織田の跡取りじゃ!」、殿は大声で言う、「よいか、みなの者、聞け! 織田の跡取りは、この奇妙……、いや、勘九郎である! 今日を限りに儂は隠居し、家督を勘九郎に譲る! よいな、みなの者、変わらず誠心誠意仕えよ!」
家臣たちは、「ははぁ……」と頭を下げる。
今度は、信忠の方が唖然としている。
殿はしゃがみ込み、信忠の顔を覗き込むようにして優しい声で、
「勘九郎よ、儂は己の欲しいものは、己の力で奪ってきた、織田家の家督もな。女とて同じ。別に、嫁はひとりだけとは言っておらん。欲しくば、己で奪ってみよ。じゃが、何事も慎重でならねばならぬ、そちはもう、織田家の当主なのじゃからな」
信忠は、しっかりと頷いた。
ふと見ると、殿は父親の顔をされていた。
「それで殿、岩槻城は如何いたしょうぞ?」
信長に促され、信忠は上座へとあがった。
「みなの者、出陣じゃ!」
信忠は大将として岩村へと出撃。
勝頼が援軍として駆け付ける前に、岩村城を攻略、河尻秀隆を城代としていれた。
勝頼は、そのまま兵を退いたらしい。
信忠は、意気揚々と岐阜へと凱旋した。
この功績により、信忠は帝より秋田城介を賜る。
十一月二十八日、信長は正式に家督を嫡男信忠に譲り、岐阜城を出た。
それまで信長は様々な名物を貰っていたが、それさえも信忠に譲り、さらに尾張・美濃二国も譲って、己は茶道具だけを持って、佐久間信盛の屋敷へと移っていった。
もちろん、小姓として太若丸も付き添った。
「ようやく、遊んで暮らせるわい」
と、久しぶりに殿は、のんびりとした様子であった。
太若丸も、屋敷に生える大きな桜の枝越しに曇り空を見上げながら、うんと背中を伸ばす。
信長のもとに来て、三年余り。
信長も隠居したので、これで太若丸もお役御免である。
ようやく、十兵衛のもとに戻れる。
寒々しい空ではあるが、実に清々しい気分だ。
近々雪も降り始めるだろう。
ただ、春が来るのが待ち遠し………………
(第三章・了)
「此度の戦は、某にお任せ下され」
信忠が、しつこく言い寄ってきた。
「ならぬ、おぬしは当分戦場にでるな!」
「何故にござりまするか?」
「分からぬか!」、信長は使っていた脇息をどんと叩いた、「そういうところじゃぞ、おぬしの!」
「分かりませぬ!」
「分からぬじゃと? ならば、猶の事、戦場に出すわけにはいかん! 下がれ!」
「下がりませぬ!」
珍しく信忠が反発する。
「おのれ! 儂の命に逆らうか! 太若丸、刀じゃ!」
もしや、信忠を切るつもりでは?
殿の命だが、流石にそればかりはと躊躇う。
他の家臣たちも、「殿、そればかりは!」「しばらく、しばらくお待ちを!」と、止めに入った。
家臣に促され、しばらくして落ち着いたのか、殿は深いため息を吐いた。
「奇妙よ、何故それほど戦に出たがる? 何を焦っておる? 儂は、おぬしがいつか死ぬのではないかと心配しておる。この親心が分からぬか?」
「某は、武士でございます。織田右大将の子でござりまする。戦場で死んで、何を恥じましょうぞ! むしろ、畳の上で死ぬことが恥!」
「おぬしは、織田の跡目ぞ」
「弟たちがおりまする、七兵衛も……」
信忠の目じりが、うっすらと滲んでいる。
もしや、己が殿に疎んじられていると思っているのか?
「うつけが!」、殿の声が城中に響き渡る、「そのような狭い料簡で、織田家をまとめることができると思うてか!」
「織田を継ぐつもりはございません」
「な、なにを?」
「某、松姫を嫁に迎えられねば、織田を継ぐつもりはございません」
「なにを………………」
松姫とは、武田晴信の娘 ―― 織田が武田と同盟を結ぶ際に、信忠の嫁にすると約したが、これは晴信の西進で反故となった。
信忠は、まだ松姫のことを想っていたのか………………一度も逢ったことがないのに………………
殿も、家臣たちも、あまりのことに唖然としている。
「武田との和睦がならねば、彼を倒して、松姫を奪うまで!」
信忠は、両目を滲ませ、頬を紅潮させてまでして訴える。
「ならぬ! おぬしには、儂が責任を以て良き家柄の嫁をとらせる!」
「己の嫁ぐらい! 己で決めまする!」
「ならぬ! そなたは織田の跡取りじゃ!」、殿は大声で言う、「よいか、みなの者、聞け! 織田の跡取りは、この奇妙……、いや、勘九郎である! 今日を限りに儂は隠居し、家督を勘九郎に譲る! よいな、みなの者、変わらず誠心誠意仕えよ!」
家臣たちは、「ははぁ……」と頭を下げる。
今度は、信忠の方が唖然としている。
殿はしゃがみ込み、信忠の顔を覗き込むようにして優しい声で、
「勘九郎よ、儂は己の欲しいものは、己の力で奪ってきた、織田家の家督もな。女とて同じ。別に、嫁はひとりだけとは言っておらん。欲しくば、己で奪ってみよ。じゃが、何事も慎重でならねばならぬ、そちはもう、織田家の当主なのじゃからな」
信忠は、しっかりと頷いた。
ふと見ると、殿は父親の顔をされていた。
「それで殿、岩槻城は如何いたしょうぞ?」
信長に促され、信忠は上座へとあがった。
「みなの者、出陣じゃ!」
信忠は大将として岩村へと出撃。
勝頼が援軍として駆け付ける前に、岩村城を攻略、河尻秀隆を城代としていれた。
勝頼は、そのまま兵を退いたらしい。
信忠は、意気揚々と岐阜へと凱旋した。
この功績により、信忠は帝より秋田城介を賜る。
十一月二十八日、信長は正式に家督を嫡男信忠に譲り、岐阜城を出た。
それまで信長は様々な名物を貰っていたが、それさえも信忠に譲り、さらに尾張・美濃二国も譲って、己は茶道具だけを持って、佐久間信盛の屋敷へと移っていった。
もちろん、小姓として太若丸も付き添った。
「ようやく、遊んで暮らせるわい」
と、久しぶりに殿は、のんびりとした様子であった。
太若丸も、屋敷に生える大きな桜の枝越しに曇り空を見上げながら、うんと背中を伸ばす。
信長のもとに来て、三年余り。
信長も隠居したので、これで太若丸もお役御免である。
ようやく、十兵衛のもとに戻れる。
寒々しい空ではあるが、実に清々しい気分だ。
近々雪も降り始めるだろう。
ただ、春が来るのが待ち遠し………………
(第三章・了)
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説


1333
干支ピリカ
歴史・時代
鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。
(現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)
鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。
主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。
ご興味を持たれた方は是非どうぞ!

大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる