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第三章「寵愛の帳」
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「今しばらく、そなたたちに尋ねたきことがある」
珍しく、殿が神妙な顔をしているので、家臣たちは顔を見合わせ、何か大事が起こったのかと不安げな面持ちで座った。
残ったのは、宿老の林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、惟住(丹羽)長秀、羽柴秀吉、惟任(明智)光秀、連枝衆で信長実弟の信包。
それ以外は人払いされた。
太若丸も退出しようとした。
「いや、そなたは儂の肩を揉んでくれ。どうも、最近肩が凝ってならん」
と言われたので、殿の肩を揉んだ。
「年かな、最近肩が張ってな……、遠出も疲れる」
確かに、ここ数か月殿はお疲れのようだ。
「儂も、そろそろかと………………」
隠居か?
「まだお早いでしょう。殿が隠居されるのなら、拙者はすでに棺桶の中でござりまするぞ」
と、信盛は笑う。
「なに、儂もすでに片足を突っ込んでおる」
と、殿も笑った。
「何をおっしゃられます」
「いや、儂も父上(信秀)が亡くなられた年になった。人生五十年とはいうが、あと数年、儂もそろそろのことを考えねばならぬでの。ときに……、此度の坊丸の働きはどうじゃ、修理亮?」
「大層なお働きかと」
「あれも初陣じゃとて、随分気を揉んでおったようじゃが、おぬしに付けて良かったわい」
「ありがたきお言葉。しかし、これも七兵衛様の日頃のご鍛練と、その才によるものかと」
「才か……、坊丸に、大将としての才はありや?」
「もちろん、ござりまする」
「では、織田の跡目としては?」
その言葉に、誰もが身体を強張らせた。
勝家は、何とも言えぬ表情で殿を見つめている。
「そ、それは、その……」
「殿は、勘九郎君にご不満がおありでしょうか?」
勝家に代わりに口を開いたのは、長秀だ。
信長は、深いため息を吐く。
「あれは……、聊か軽率なところがある、そう見えんか?」
例えあったとしても、はい、そうですとは言えないだろう。
「前の戦でも、我先にと戦場に出ようとする。それだけの力量があれば良いが、あれの軽はずみな行いで、死なんでも良い者まで死なせてしまった」
長島一向一揆の鎮圧時のことを言っているのか?
「先の戦も、後詰の意味を全く理解しておらん。大将として如何なものか? このまま、あれに織田を継がせて良いか………………」
それで此度は、留守居役として、岐阜に留めたのか………………
「家臣として織田の跡取りに仕えるのは、そなたらだ。如何に思うか、修理亮?」
「如何にあろうとも、お世継ぎは勘九郎君にございます。殿は、勘九郎君の行き過ぎた行いをご心配なされておられるようですが、武将であれば先陣を駆け、一番手柄を取りたいという気持ちは多々あるもの、むしろそれがなければ大将は務まりますまい。失礼ながら、殿の若い時のほうが、むしろ行き過ぎておられたかと、拙者、生きた心地がしませんだ」
殿は苦笑する。
「勘九郎君は、まだまだお若いゆえ、これよりもっともっと研鑽を積まれれば、殿のお目にかなう武将へとなられるでしょう。そのためにも拙者、誠心誠意お支え致します」
「坊丸では不服か? 坊丸は、そなたの養子でもあるのだぞ?」
実弟信行亡き後、信澄は勝家のもとに預けられた。
「故にこそ、七兵衛様を推すわけにはいきませぬ」
「うむ………………、右衛門尉(信盛)は如何に?」
「勘九郎君以外、考えられますまい。ですが………………、仮に……、仮にそうでなければ、勘九郎君を廃嫡すると? それで………………、七兵衛様に?」
「此度の戦で。坊丸も織田の跡目としての十分な働きをしたであろう?」
「それは、目を見張る働きではございますが……、しかし、殿の御子ではございません」
「ならば、養子にすればよい」
「それでも、嫡男ではごさいませぬ」
「跡継ぎが嫡男である必要があろうか? それに、儂の血を引く必要もなかろう? 大事は織田家を守ることじゃ。儂の嫡男だからと簡単に跡を継いで、家を潰されたでは、あの世で父上に顔向けができん。そうではあるまいか、佐渡守(秀貞)」
「左様で」
「佐渡守は、如何に……考えるか?」
「若君のままで………………」
と、何やら奥歯にものが挟まったような言い方だ。
「本心を申せ、儂のためではない、織田のためじゃ」
「されば……、若君には織田家を継ぐほどのご器量は………………」
「今後精進しても無理か?」
「こればかりは、持って生まれた才かと………………」
「うむ、ならば、佐渡守は誰じゃ?」
信長の子息は、庶子を含めて十二人。
嫡男は信忠。
次男は北畠氏の猶子となった信雄。
三男は神戸氏の猶子、信孝。
四男於次以下は、まだ若輩。
庶子の信正は信忠よりも年上であり、これに信澄を含めると、跡取りとして有力なのは五名。
信長に仕えるなかで最長老格の秀貞が誰を選ぶのか、皆は固唾を飲んで見守る。
「やはり……、坊丸か?」
秀貞は頷く。
珍しく、殿が神妙な顔をしているので、家臣たちは顔を見合わせ、何か大事が起こったのかと不安げな面持ちで座った。
残ったのは、宿老の林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、惟住(丹羽)長秀、羽柴秀吉、惟任(明智)光秀、連枝衆で信長実弟の信包。
それ以外は人払いされた。
太若丸も退出しようとした。
「いや、そなたは儂の肩を揉んでくれ。どうも、最近肩が凝ってならん」
と言われたので、殿の肩を揉んだ。
「年かな、最近肩が張ってな……、遠出も疲れる」
確かに、ここ数か月殿はお疲れのようだ。
「儂も、そろそろかと………………」
隠居か?
「まだお早いでしょう。殿が隠居されるのなら、拙者はすでに棺桶の中でござりまするぞ」
と、信盛は笑う。
「なに、儂もすでに片足を突っ込んでおる」
と、殿も笑った。
「何をおっしゃられます」
「いや、儂も父上(信秀)が亡くなられた年になった。人生五十年とはいうが、あと数年、儂もそろそろのことを考えねばならぬでの。ときに……、此度の坊丸の働きはどうじゃ、修理亮?」
「大層なお働きかと」
「あれも初陣じゃとて、随分気を揉んでおったようじゃが、おぬしに付けて良かったわい」
「ありがたきお言葉。しかし、これも七兵衛様の日頃のご鍛練と、その才によるものかと」
「才か……、坊丸に、大将としての才はありや?」
「もちろん、ござりまする」
「では、織田の跡目としては?」
その言葉に、誰もが身体を強張らせた。
勝家は、何とも言えぬ表情で殿を見つめている。
「そ、それは、その……」
「殿は、勘九郎君にご不満がおありでしょうか?」
勝家に代わりに口を開いたのは、長秀だ。
信長は、深いため息を吐く。
「あれは……、聊か軽率なところがある、そう見えんか?」
例えあったとしても、はい、そうですとは言えないだろう。
「前の戦でも、我先にと戦場に出ようとする。それだけの力量があれば良いが、あれの軽はずみな行いで、死なんでも良い者まで死なせてしまった」
長島一向一揆の鎮圧時のことを言っているのか?
「先の戦も、後詰の意味を全く理解しておらん。大将として如何なものか? このまま、あれに織田を継がせて良いか………………」
それで此度は、留守居役として、岐阜に留めたのか………………
「家臣として織田の跡取りに仕えるのは、そなたらだ。如何に思うか、修理亮?」
「如何にあろうとも、お世継ぎは勘九郎君にございます。殿は、勘九郎君の行き過ぎた行いをご心配なされておられるようですが、武将であれば先陣を駆け、一番手柄を取りたいという気持ちは多々あるもの、むしろそれがなければ大将は務まりますまい。失礼ながら、殿の若い時のほうが、むしろ行き過ぎておられたかと、拙者、生きた心地がしませんだ」
殿は苦笑する。
「勘九郎君は、まだまだお若いゆえ、これよりもっともっと研鑽を積まれれば、殿のお目にかなう武将へとなられるでしょう。そのためにも拙者、誠心誠意お支え致します」
「坊丸では不服か? 坊丸は、そなたの養子でもあるのだぞ?」
実弟信行亡き後、信澄は勝家のもとに預けられた。
「故にこそ、七兵衛様を推すわけにはいきませぬ」
「うむ………………、右衛門尉(信盛)は如何に?」
「勘九郎君以外、考えられますまい。ですが………………、仮に……、仮にそうでなければ、勘九郎君を廃嫡すると? それで………………、七兵衛様に?」
「此度の戦で。坊丸も織田の跡目としての十分な働きをしたであろう?」
「それは、目を見張る働きではございますが……、しかし、殿の御子ではございません」
「ならば、養子にすればよい」
「それでも、嫡男ではごさいませぬ」
「跡継ぎが嫡男である必要があろうか? それに、儂の血を引く必要もなかろう? 大事は織田家を守ることじゃ。儂の嫡男だからと簡単に跡を継いで、家を潰されたでは、あの世で父上に顔向けができん。そうではあるまいか、佐渡守(秀貞)」
「左様で」
「佐渡守は、如何に……考えるか?」
「若君のままで………………」
と、何やら奥歯にものが挟まったような言い方だ。
「本心を申せ、儂のためではない、織田のためじゃ」
「されば……、若君には織田家を継ぐほどのご器量は………………」
「今後精進しても無理か?」
「こればかりは、持って生まれた才かと………………」
「うむ、ならば、佐渡守は誰じゃ?」
信長の子息は、庶子を含めて十二人。
嫡男は信忠。
次男は北畠氏の猶子となった信雄。
三男は神戸氏の猶子、信孝。
四男於次以下は、まだ若輩。
庶子の信正は信忠よりも年上であり、これに信澄を含めると、跡取りとして有力なのは五名。
信長に仕えるなかで最長老格の秀貞が誰を選ぶのか、皆は固唾を飲んで見守る。
「やはり……、坊丸か?」
秀貞は頷く。
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