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第三章「寵愛の帳」
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明けて二十一日、志多羅は小ぶりの雨模様………………
これでは鉄砲が使えぬと心配していたが、次第に雨もあがり、山際がうっすらと白ばみはじめたころには、すっかりと上がっていた。
―― 天は、殿に味方した!
日の光が志多羅一帯を照らしつける。
雨で濡れた木々の葉がきらきらと輝いて美しい。
対岸に、花畑が点々と見える。
真っ赤なそれは、まるで血だまりのようだ。
いや、血ではない………………
甲冑………………?
―― 武田の赤揃えだ!
前面に武田勢が陣を展開している。
どうやら、忠次の奇襲前に、武田勢が動いたようだ。
「こちらの策を読まれたか?」
と、信長は少々面食らっていた。
物見が続々と戻ってきて、武田勢の陣容を報せる。
連吾川の対岸 ―― 小高い丘に左右に陣形を開いている。
武田お得意の鶴翼の陣だ。
北側から、馬場信春、穴山信君(梅雪)、真田信綱、土屋昌続、一条信龍、武田信豊、小幡信貞、武田信廉、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景………………後方に、勝頼が本陣を置いているようだ。
その間二十町(約二・二キロ) ―― 武田とまともに正面からぶつかるのは、これが初めてである。
忠次の鷲ヶ巣奇襲で、武田を志多羅に及びよせる。
目の前には、すでに織田・徳川が待ち構えている。
後ろには忠次。
逃げ場のない武田勢は、一か八かの勝負にでるか、退却するかを選ばねばならぬ。
攻めてくれば鉄砲で防ぎ、逃げれば追いかける。
そう考えていたのだが、武田自ら乗り込んできた。
「子猿のやつ、儂に勝てると踏んだか? 安く見られたものだ」、ふんと鼻で笑った、「母衣衆、各陣に伝えよ、こちらから無闇に戦を仕掛けるな、向こうの挑発にも乗るな、武田が攻めてくれば、よくよく敵をひきつけ、頃合いで鉄砲を放て! よいな、儂の命があるまで、むやみに堀や柵から出るなと!」
母衣衆は、すぐさま山を駆け下りていった。
「儂は、侍従殿のもとへいく」
殿は弾正山を下り、家康の陣取る高松城へと向かった。
「武田の素早い動きに、慌てふためいておるかもしれんからな。少々様子を見にいこう」
とは表向きで、家康が逃げないように威圧するつもりであろう。
高松山に出向くと、徳川方の幕内はいたって落ち着いていた。
家康は床几に腰かけ、左手の親指の爪を噛みながら、何事か考え事をしている。
信長が入っていくと、慌てて口から手を離した。
「侍従殿、武田に読まれましたな」
「面目ございません」
鷲ヶ巣山への奇襲は忠次が考え出した策 ―― それを読まれたか、それとも内通があったか?
「よもやそのような不届き者がおるとは思いませんが、念のため、そのようなやつを調べさせております」
「いや、いまさら詮なきこと。それよりも、この状況を如何にするか?」
攻めるか?
退くか?
正直、殿にしてみれば、此度はあくまでも徳川と武田の戦 ―― 織田は援軍。
武田とは何れは雌雄を決するときが来ようが、今でなくてもよい。
この防御陣がどれほど役立つか見たいものだが、とりあえず三河から追い返せば、此度はそれで良い。
徳川への面目もたつ。
あとは、家康次第といったところだ。
さて、徳川殿は………………
家康は、癖なのだろうか、また親指の爪を噛みながら考えている。
しばらく考えたのち、
「我らが先鋒で攻めまする」
まあ、三河を守るために、それしか答えはないのだが………………
殿は笑顔で頷いた。
これでは鉄砲が使えぬと心配していたが、次第に雨もあがり、山際がうっすらと白ばみはじめたころには、すっかりと上がっていた。
―― 天は、殿に味方した!
日の光が志多羅一帯を照らしつける。
雨で濡れた木々の葉がきらきらと輝いて美しい。
対岸に、花畑が点々と見える。
真っ赤なそれは、まるで血だまりのようだ。
いや、血ではない………………
甲冑………………?
―― 武田の赤揃えだ!
前面に武田勢が陣を展開している。
どうやら、忠次の奇襲前に、武田勢が動いたようだ。
「こちらの策を読まれたか?」
と、信長は少々面食らっていた。
物見が続々と戻ってきて、武田勢の陣容を報せる。
連吾川の対岸 ―― 小高い丘に左右に陣形を開いている。
武田お得意の鶴翼の陣だ。
北側から、馬場信春、穴山信君(梅雪)、真田信綱、土屋昌続、一条信龍、武田信豊、小幡信貞、武田信廉、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景………………後方に、勝頼が本陣を置いているようだ。
その間二十町(約二・二キロ) ―― 武田とまともに正面からぶつかるのは、これが初めてである。
忠次の鷲ヶ巣奇襲で、武田を志多羅に及びよせる。
目の前には、すでに織田・徳川が待ち構えている。
後ろには忠次。
逃げ場のない武田勢は、一か八かの勝負にでるか、退却するかを選ばねばならぬ。
攻めてくれば鉄砲で防ぎ、逃げれば追いかける。
そう考えていたのだが、武田自ら乗り込んできた。
「子猿のやつ、儂に勝てると踏んだか? 安く見られたものだ」、ふんと鼻で笑った、「母衣衆、各陣に伝えよ、こちらから無闇に戦を仕掛けるな、向こうの挑発にも乗るな、武田が攻めてくれば、よくよく敵をひきつけ、頃合いで鉄砲を放て! よいな、儂の命があるまで、むやみに堀や柵から出るなと!」
母衣衆は、すぐさま山を駆け下りていった。
「儂は、侍従殿のもとへいく」
殿は弾正山を下り、家康の陣取る高松城へと向かった。
「武田の素早い動きに、慌てふためいておるかもしれんからな。少々様子を見にいこう」
とは表向きで、家康が逃げないように威圧するつもりであろう。
高松山に出向くと、徳川方の幕内はいたって落ち着いていた。
家康は床几に腰かけ、左手の親指の爪を噛みながら、何事か考え事をしている。
信長が入っていくと、慌てて口から手を離した。
「侍従殿、武田に読まれましたな」
「面目ございません」
鷲ヶ巣山への奇襲は忠次が考え出した策 ―― それを読まれたか、それとも内通があったか?
「よもやそのような不届き者がおるとは思いませんが、念のため、そのようなやつを調べさせております」
「いや、いまさら詮なきこと。それよりも、この状況を如何にするか?」
攻めるか?
退くか?
正直、殿にしてみれば、此度はあくまでも徳川と武田の戦 ―― 織田は援軍。
武田とは何れは雌雄を決するときが来ようが、今でなくてもよい。
この防御陣がどれほど役立つか見たいものだが、とりあえず三河から追い返せば、此度はそれで良い。
徳川への面目もたつ。
あとは、家康次第といったところだ。
さて、徳川殿は………………
家康は、癖なのだろうか、また親指の爪を噛みながら考えている。
しばらく考えたのち、
「我らが先鋒で攻めまする」
まあ、三河を守るために、それしか答えはないのだが………………
殿は笑顔で頷いた。
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