本能寺燃ゆ

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第三章「寵愛の帳」

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 八月二日、攻撃に耐えきれなくなった大鳥居の一向門徒が、夜からの激しい風雨に乗じて逃げようとした。

 だが、これを見逃さず、すべて切り捨てた ―― その数男女合わせて千人とか………………

 八月十二日、篠橋の門徒たちが、信長に忠誠を誓うと頭を下げてきた。

 殿が濁酒をちびちびと飲みながら、何事か考え事をしていると、信広が火急の用でやってきた。

「お休みのところ、申し訳ござらん」

「いや、なに、ちょうど眠れぬところであったので……」

 殿が、一緒にやるかと杯を渡そうとすると、

「いや、拙者は……」

 と、断った。

「で、何用で?」

 篠橋に立て籠もる一向門徒が、本拠地である長島城に入って、城内を攪乱、織田勢を招き入れる、そのために攻撃を止め、篠橋から出してほしい、必ず織田のために働くといってきたらしい。

「如何にいたしましょうや?」

「ならぬ!」と、信長は一度首を振ったが、「あっ、いや待て! 望みどおりにしてやりましょう」

「宜しいので? 偽りやもしれませぬぞ」

「偽りでも、篠橋のものが長島に入れば、それだけ人の数も多くなり、兵糧も早く尽きましょう。長島も、早く落ちるでありましょう」

「畏まりました。ならば左様に……」

 と、信広は下がろうとした。

「大隅守殿、しばし待たれい。そなたとこうやって二人で話すのも久しぶりだ。少しは付き合ってくだされ」

 殿の指示で、太若丸は信広に杯を渡し、濁酒を注いだ。

「いや、少しだけで……、酒は止めております」

「知っております。もう良いでしょう」

「はあ……」

 殿はぐいっと空けるが、信広はちょっと口をつけるだけ………………

「もう何年になりまするか? 過ぎたことなど……」

「いや、己は弱いと分かっております。しっかりと戒めておかねば」

 織田信広は、織田連枝衆の筆頭である。

 信長よりも十五以上年長で、その深い洞察力と実行力、年長者特有の調整力で、織田一門を上手くまとめるだけでなく、朝廷や他の武将との仲立ちの役も見事に勤めている。

 信長が動ならば、信広は静 ―― 陽ならば、陰である。

 信秀の嫡男として生まれたが、母が側室であったため、跡継ぎとしては見られなかった。

 織田家当主の座を信長に渡さねばならなかったが、やはりそこには織田の長兄としての誇りと意地があったのだろう。

 美濃の斎藤龍興と手を結び、信長を追い落とそうとした。

 これは、事前にことが発覚して上手くいかなかったが、その後も度々蜂起する。

 だが、すべて鎮圧され、信広は弟の軍門に下った。

 それ以降は、信長に忠誠を尽くしている。

「殿にお許しを頂いてからは、濁酒は飲んではおりません」

「硬いな、硬い! まあ、そこが大隅守殿の良きところだが」

「それに、最近、どうも体のほうが芳しくなく、この辺りがちくちくと………………」

 信広が胸の辺りを摩る。

「気のせいでござるよ」

「いや、年でござろう。拙者も、そろそろ、孫を相手にするような生活をしようかと」

「隠居には早かろう。大隅守殿には、まだまだ一門を率いてもらわねば困る」

「殿がおられまする」

「いや、儂は色々とすることがある。これからも、一門は大隅守殿に任せたい。特に此度は、奇妙を大将として据えたが、まだまだ不安なところがあるゆえ、ようよう支え、武士とは何たるか導いてもらいたいのじゃ」

「そのような大層なこと………………」

「いや、大隅守殿しかできぬ」

「ならば……、これを最後のご奉公と」

「また戯言を」

 殿はしばし酒を飲み、信広は最初に注いだ酒を持て余す。

「拙者は羨ましかったのです」、信広が唐突に口を開く、「織田の跡継ぎとして生まれた殿が………………」

「羨ましかったのは、儂のほうじゃ」、信長は笑う、「父上(信秀)は、大隅守殿を一番信頼しておられた。常に父上の傍で、あれやこれやと指示を受けて働く姿は、羨ましい限りじゃった。いつか儂も父上の傍で働きたいと。まあ、父上は〝うつけの〟儂には見向きもされなんだが」

「いや、〝うつけ〟の子ほど、可愛いものです」

「まったくでござりまするな」

 顔を見合わせて、笑った。

「さて、拙者はそろそろ篠橋の陣屋に引きあげ、門徒らに彼の件、申し渡しましょうぞ」

 信広が立ち上がり、退出しようとすると、

「お体を大切になさりませ、病で倒れたとあっては、武門の恥ですぞ、兄者………………」

 信広は驚き、信長を見た。

「まだ……、兄者と呼んでくれるのか………………、そなたも、飲み過ぎるなよ、吉法師………………」
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