本能寺燃ゆ

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第三章「寵愛の帳」

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 連枝衆や家臣団、近習たちが集まるなか、六尺(約一・八メートル)ほどの長持から取り出されたそれは、香木といよりも、一見すると鹿の腿の干肉のようであった。

 五尺(約一・五メートル)ほどのそれは、全体的に黒ずんで、ところどころ覗く茶褐色の肌が、元の姿を僅かながらに残していた。

「こちらが黄熟香こうじゅうこうでございます。聖武の帝ご所有の宝物でございます。本来は『東大寺』という名でございますが、それを燃すのも畏れ多いと、『東大寺』の文字が入った『蘭奢待』という名で呼ばれております。そもそも………………」

 立ち会った東大寺の僧からありがたくも、長い話を聞いたあと、殿は一寸(約三センチ)角を二つ切り取らせた。

 ひとつは、帝に献上するという。

 そして、もう一個を僅かに削って、早速燃してみた。

 少し湿っているのか、なかなか火の点きが悪かったが、そのうちすっと一つ筋の煙があがった。

 殿が顔を近づけ、手で仰いで嗅ぐ。

「うむ……」

 と、何とも微妙な顔だ。

 お前らも嗅いで見ろと、見物していた者たちに促す。

 連枝衆や家臣たちは、次々と香炉の前に集まり、

「これは香しい!」

「得も言えぬ匂い、まさに天寿国にいるような心持ですな」

 などと、口々に賞賛する。

 佐々内蔵助や前田又左衛門たち馬廻り組も、物珍しさに我先にと香炉の前に集まり、くんくんと鼻を鳴らす。

「おお、これはこれは素晴らしい香りじゃ」

 内蔵助は嬉々として叫ぶ。

「う、うむ、何というか、この……、子どもの頃を思い出すというか……」

 又左衛門は目を瞑り、余韻に浸っているようだ。

 小姓たちは、一様に首を傾げている。

「ははは、おぬしらには、まだこの香りは分かるまいて」

 と、内蔵助が笑った。

 確かに、分からないと思った。

 太若丸も嗅がせてもらったが、なんというか、かび臭いというか、くすんだ匂いというか………………黄熟香は、甘い香りがすると聞いていたので、確かにほんのりと甘いような匂いがするのだが、年月が過ぎているせいか、その香りが抜け、倉の湿った匂いが染みついているようだ。

 どこかで嗅いだことがあるような………………ああ、思い出した、初めて稚児として夜を過ごした、老僧から漂ってきたのと同じ匂いだ。

〝古めきしずか〟とは、よく言ったものだ。

 その夜殿は、

「思ったほどでもなかったわい。これは次の茶会のときに、宋易どもにやろう」

 と、箱に仕舞い込み、いつもの甘ったるい、幾分頭がぼーっとなるお香を焚いた。

「儂は、この匂いの方が好きじゃ。この匂いを嗅ぐと、無性におぬしを抱きたくなる」

 信長は、太若丸の身体の匂いを嗅ぎながら、弄る。

「おぬしからも、同じような匂いがするな。うむ、食べてしまいたいぐらいじゃ」

 と、本当に首筋にしゃぶりつき、音を立てて啜る。

 擽ったい。

 殿、このお香はどこで?

「これは十兵衛に貰った。あやつは、なんでも知っておる」

 まさに!

 薬に、お香に、土木に、鉄砲に、戦に………………、その知識、いったいどこで手に入れたのだろう。

 年を取れば、嫌でも身に付くなどと言っていたが………………
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