242 / 498
第三章「寵愛の帳」
86
しおりを挟む
連枝衆や家臣団、近習たちが集まるなか、六尺(約一・八メートル)ほどの長持から取り出されたそれは、香木といよりも、一見すると鹿の腿の干肉のようであった。
五尺(約一・五メートル)ほどのそれは、全体的に黒ずんで、ところどころ覗く茶褐色の肌が、元の姿を僅かながらに残していた。
「こちらが黄熟香でございます。聖武の帝ご所有の宝物でございます。本来は『東大寺』という名でございますが、それを燃すのも畏れ多いと、『東大寺』の文字が入った『蘭奢待』という名で呼ばれております。そもそも………………」
立ち会った東大寺の僧からありがたくも、長い話を聞いたあと、殿は一寸(約三センチ)角を二つ切り取らせた。
ひとつは、帝に献上するという。
そして、もう一個を僅かに削って、早速燃してみた。
少し湿っているのか、なかなか火の点きが悪かったが、そのうちすっと一つ筋の煙があがった。
殿が顔を近づけ、手で仰いで嗅ぐ。
「うむ……」
と、何とも微妙な顔だ。
お前らも嗅いで見ろと、見物していた者たちに促す。
連枝衆や家臣たちは、次々と香炉の前に集まり、
「これは香しい!」
「得も言えぬ匂い、まさに天寿国にいるような心持ですな」
などと、口々に賞賛する。
佐々内蔵助や前田又左衛門たち馬廻り組も、物珍しさに我先にと香炉の前に集まり、くんくんと鼻を鳴らす。
「おお、これはこれは素晴らしい香りじゃ」
内蔵助は嬉々として叫ぶ。
「う、うむ、何というか、この……、子どもの頃を思い出すというか……」
又左衛門は目を瞑り、余韻に浸っているようだ。
小姓たちは、一様に首を傾げている。
「ははは、おぬしらには、まだこの香りは分かるまいて」
と、内蔵助が笑った。
確かに、分からないと思った。
太若丸も嗅がせてもらったが、なんというか、かび臭いというか、くすんだ匂いというか………………黄熟香は、甘い香りがすると聞いていたので、確かにほんのりと甘いような匂いがするのだが、年月が過ぎているせいか、その香りが抜け、倉の湿った匂いが染みついているようだ。
どこかで嗅いだことがあるような………………ああ、思い出した、初めて稚児として夜を過ごした、老僧から漂ってきたのと同じ匂いだ。
〝古めきしずか〟とは、よく言ったものだ。
その夜殿は、
「思ったほどでもなかったわい。これは次の茶会のときに、宋易どもにやろう」
と、箱に仕舞い込み、いつもの甘ったるい、幾分頭がぼーっとなるお香を焚いた。
「儂は、この匂いの方が好きじゃ。この匂いを嗅ぐと、無性におぬしを抱きたくなる」
信長は、太若丸の身体の匂いを嗅ぎながら、弄る。
「おぬしからも、同じような匂いがするな。うむ、食べてしまいたいぐらいじゃ」
と、本当に首筋にしゃぶりつき、音を立てて啜る。
擽ったい。
殿、このお香はどこで?
「これは十兵衛に貰った。あやつは、なんでも知っておる」
まさに!
薬に、お香に、土木に、鉄砲に、戦に………………、その知識、いったいどこで手に入れたのだろう。
年を取れば、嫌でも身に付くなどと言っていたが………………
五尺(約一・五メートル)ほどのそれは、全体的に黒ずんで、ところどころ覗く茶褐色の肌が、元の姿を僅かながらに残していた。
「こちらが黄熟香でございます。聖武の帝ご所有の宝物でございます。本来は『東大寺』という名でございますが、それを燃すのも畏れ多いと、『東大寺』の文字が入った『蘭奢待』という名で呼ばれております。そもそも………………」
立ち会った東大寺の僧からありがたくも、長い話を聞いたあと、殿は一寸(約三センチ)角を二つ切り取らせた。
ひとつは、帝に献上するという。
そして、もう一個を僅かに削って、早速燃してみた。
少し湿っているのか、なかなか火の点きが悪かったが、そのうちすっと一つ筋の煙があがった。
殿が顔を近づけ、手で仰いで嗅ぐ。
「うむ……」
と、何とも微妙な顔だ。
お前らも嗅いで見ろと、見物していた者たちに促す。
連枝衆や家臣たちは、次々と香炉の前に集まり、
「これは香しい!」
「得も言えぬ匂い、まさに天寿国にいるような心持ですな」
などと、口々に賞賛する。
佐々内蔵助や前田又左衛門たち馬廻り組も、物珍しさに我先にと香炉の前に集まり、くんくんと鼻を鳴らす。
「おお、これはこれは素晴らしい香りじゃ」
内蔵助は嬉々として叫ぶ。
「う、うむ、何というか、この……、子どもの頃を思い出すというか……」
又左衛門は目を瞑り、余韻に浸っているようだ。
小姓たちは、一様に首を傾げている。
「ははは、おぬしらには、まだこの香りは分かるまいて」
と、内蔵助が笑った。
確かに、分からないと思った。
太若丸も嗅がせてもらったが、なんというか、かび臭いというか、くすんだ匂いというか………………黄熟香は、甘い香りがすると聞いていたので、確かにほんのりと甘いような匂いがするのだが、年月が過ぎているせいか、その香りが抜け、倉の湿った匂いが染みついているようだ。
どこかで嗅いだことがあるような………………ああ、思い出した、初めて稚児として夜を過ごした、老僧から漂ってきたのと同じ匂いだ。
〝古めきしずか〟とは、よく言ったものだ。
その夜殿は、
「思ったほどでもなかったわい。これは次の茶会のときに、宋易どもにやろう」
と、箱に仕舞い込み、いつもの甘ったるい、幾分頭がぼーっとなるお香を焚いた。
「儂は、この匂いの方が好きじゃ。この匂いを嗅ぐと、無性におぬしを抱きたくなる」
信長は、太若丸の身体の匂いを嗅ぎながら、弄る。
「おぬしからも、同じような匂いがするな。うむ、食べてしまいたいぐらいじゃ」
と、本当に首筋にしゃぶりつき、音を立てて啜る。
擽ったい。
殿、このお香はどこで?
「これは十兵衛に貰った。あやつは、なんでも知っておる」
まさに!
薬に、お香に、土木に、鉄砲に、戦に………………、その知識、いったいどこで手に入れたのだろう。
年を取れば、嫌でも身に付くなどと言っていたが………………
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説


1333
干支ピリカ
歴史・時代
鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。
(現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)
鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。
主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。
ご興味を持たれた方は是非どうぞ!

大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる