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第三章「寵愛の帳」
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第一、殿のほうが正しいではないか、とも思った。
そう、信長の判断は正しかった。
実際、朝倉はその夜に撤収を開始していたのだ。
信長は先陣を切って、そのまま追い上げる。
家臣たちの愚行もあって怒り心頭、逃げる敵を切って切って切り捲ったそうだ。
朝倉勢は完全に退却しようと考えていたようで、恐れていた待ち伏せもなく、中野河内と刀根の分かれ道まで追い上げた。
『殿! 朝倉勢は、中野河内と刀根の二手に分かれて逃げております。何れを追いかけましょうや?』
前線から戻ってきた使番からの報せに、
『刀根に逃げる敵を追え!』
と、刀で指し示す。
―― 何故、刀根へ?
と、思った家臣たちも多かった。
中野河内は、道は険しいが、そのまま越前に通じる。
刀根は、敦賀である。
急いで逃げるなら中野河内方面であるが………………
『朝倉本隊、刀根へと敗走!』
中野河内には足軽などの雑兵が逃げ、義景率いる本隊は敦賀へと進路をとった。
敦賀には、朝倉の疋壇城がある。
越前から京まで、淡海の西岸を通る街道沿いを抑える重要な城である。
美濃から京へと通じる不破関、伊勢から京へと通じる鈴鹿関、そして近江から京へ抜ける逢坂関を三関と呼ぶが、その昔は逢坂関の代わりが愛発関で、越前と京を結ぶ重要な拠点であった。
いわば、越前の出入り口であり、義景は追ってきた信長勢を一気に越前に入れるよりは、ここで防御しようと考えたのだろう。
武将として、当然の判断であった。
信長も、雑兵を追って越前に入るよりは、直接大将首を取りにいった。
家臣たちも、先程の失態を挽回しようと、腹を空かせた狼のように朝倉勢を追いかけ、次々に首をあげていく。
対する朝倉も、大将義景を守るため必死である。
殿は、もっとも難しい役目である。
何としても大将や本隊を守らねばならぬ。
武勇に優れているだけでは務まらない。
主君への忠誠と死ぬ覚悟がなければ務まらない。
大将も、もっとも武功に優れた武将の中でも、もっとも信頼できる者にこの役目を負わす。
殿が敵に寝返る可能性もあるからだ。
朝倉の殿は、家臣団筆頭の山崎新左衛門尉吉家、弟の七郎左衛門吉延率いる山崎一族、従軍していた朝倉一門衆もこれに加わり、奮戦した。
越前に宗滴ありと、その武功を轟かせ、主君を良く補佐した朝倉教景亡き後、内外ともに義景を良く助けたのが山崎吉家で、それが殿である。
その戦いぶりは、凄まじいものがあった。
勢いに乗って追い上げてきた織田軍を喰いとめ、一時はこれを押し戻した。
戦いは、一進一退を繰り返す。
だが、追撃戦は逃げる者に心理的に不利である。
流石の山崎一族も徐々に押され、最後は増水した川のように織田軍が堰を切って刀根峠を越え、疋壇城へと雪崩れ込んだ。
義景は疋壇城を抑えきれずに、そのまま一乗谷へと敗走した。
首実検のために信長の前には並べられたその首、三千とも。
山崎吉家、吉延兄弟などの山崎一族、朝倉景行、朝倉道景らの朝倉一門衆、その中に美濃の斎藤龍興の首もあった。
下克上で美濃を征した斎藤道三の孫で、世が世なら美濃一国の領主である。
その最期が、朝倉家の客将で、こんなところで首を取られるとは、これこそ世の趨勢である。
その最中、不破光治の家臣原野賀左衛門が、敵の印牧弥六左衛門能信という男を捕まえてきた。
それに問うたところ、その奮戦すさまじく、
『見事な働きぶり、あっぱれ! 今後は、いままで同様にこの儂に尽くすと約すれば、命は助けよう』
と、殿が持ち掛けたらしい。
殿は、こういうところがある。
敵であろうが、その武功が良ければ、今までのことなど関係なく味方にする。
まことに大将の器なのだ。
能信という男に、いままでの扶持を聞き ―― 朝倉からは満足すような扶持米を受け取ってはいなかったようだ ―― その二倍、いや三倍は出そうとまで言ったようだ。
だが、能信はこれを断った。
『朝倉殿には、日頃から思うところはございますが………………、いまこの時、山崎様をはじめとするお歴々が討ち死にしましたのに、拙者のみが心の内を吐露して生き残りましては面目が立ち申さん。さらに、織田家に仕え、朝倉家以上の働きができねば、碌を召し上げられることとなり、そうなれば生き恥を晒したと笑いものになりましょうぞ。ならば、いっそこの場で………………』
やおら隠し持っていた短刀を抜き、腹を切ったとか。
『これまたあっぱれ』と、殿は喜ばれたとか。
敦賀に入った信長は、ここで兵を休ませることとし、本陣も漸くにして追いついて、太若丸は返り血や泥、埃で汚れた甲冑を脱がせながら、そんな話を信長から聞いた。
ふと、いつも腰につけている足半(踵のない草履)がないのに気がついた。
どこかで落としたか?
訊くと、〝やった〟と言う。
「又四郎(兼松正吉)の働きが目指しかったのでな、あやつにやった。あやつ、裸足でな、足を血塗れにしながらも戦場で走り回っておったそうじゃ、愛いやつじゃ。あやつは、そいうところがある、桶狭間でも………………」
珍しく昔話をはじめたので、よっぽど正吉の働きが気に入ったのだろう。
いや、正吉だけではない、この度の勝ちが嬉しかったのであろう。
先の家臣たちの失態も忘れ、終始上機嫌であった。
そう、信長の判断は正しかった。
実際、朝倉はその夜に撤収を開始していたのだ。
信長は先陣を切って、そのまま追い上げる。
家臣たちの愚行もあって怒り心頭、逃げる敵を切って切って切り捲ったそうだ。
朝倉勢は完全に退却しようと考えていたようで、恐れていた待ち伏せもなく、中野河内と刀根の分かれ道まで追い上げた。
『殿! 朝倉勢は、中野河内と刀根の二手に分かれて逃げております。何れを追いかけましょうや?』
前線から戻ってきた使番からの報せに、
『刀根に逃げる敵を追え!』
と、刀で指し示す。
―― 何故、刀根へ?
と、思った家臣たちも多かった。
中野河内は、道は険しいが、そのまま越前に通じる。
刀根は、敦賀である。
急いで逃げるなら中野河内方面であるが………………
『朝倉本隊、刀根へと敗走!』
中野河内には足軽などの雑兵が逃げ、義景率いる本隊は敦賀へと進路をとった。
敦賀には、朝倉の疋壇城がある。
越前から京まで、淡海の西岸を通る街道沿いを抑える重要な城である。
美濃から京へと通じる不破関、伊勢から京へと通じる鈴鹿関、そして近江から京へ抜ける逢坂関を三関と呼ぶが、その昔は逢坂関の代わりが愛発関で、越前と京を結ぶ重要な拠点であった。
いわば、越前の出入り口であり、義景は追ってきた信長勢を一気に越前に入れるよりは、ここで防御しようと考えたのだろう。
武将として、当然の判断であった。
信長も、雑兵を追って越前に入るよりは、直接大将首を取りにいった。
家臣たちも、先程の失態を挽回しようと、腹を空かせた狼のように朝倉勢を追いかけ、次々に首をあげていく。
対する朝倉も、大将義景を守るため必死である。
殿は、もっとも難しい役目である。
何としても大将や本隊を守らねばならぬ。
武勇に優れているだけでは務まらない。
主君への忠誠と死ぬ覚悟がなければ務まらない。
大将も、もっとも武功に優れた武将の中でも、もっとも信頼できる者にこの役目を負わす。
殿が敵に寝返る可能性もあるからだ。
朝倉の殿は、家臣団筆頭の山崎新左衛門尉吉家、弟の七郎左衛門吉延率いる山崎一族、従軍していた朝倉一門衆もこれに加わり、奮戦した。
越前に宗滴ありと、その武功を轟かせ、主君を良く補佐した朝倉教景亡き後、内外ともに義景を良く助けたのが山崎吉家で、それが殿である。
その戦いぶりは、凄まじいものがあった。
勢いに乗って追い上げてきた織田軍を喰いとめ、一時はこれを押し戻した。
戦いは、一進一退を繰り返す。
だが、追撃戦は逃げる者に心理的に不利である。
流石の山崎一族も徐々に押され、最後は増水した川のように織田軍が堰を切って刀根峠を越え、疋壇城へと雪崩れ込んだ。
義景は疋壇城を抑えきれずに、そのまま一乗谷へと敗走した。
首実検のために信長の前には並べられたその首、三千とも。
山崎吉家、吉延兄弟などの山崎一族、朝倉景行、朝倉道景らの朝倉一門衆、その中に美濃の斎藤龍興の首もあった。
下克上で美濃を征した斎藤道三の孫で、世が世なら美濃一国の領主である。
その最期が、朝倉家の客将で、こんなところで首を取られるとは、これこそ世の趨勢である。
その最中、不破光治の家臣原野賀左衛門が、敵の印牧弥六左衛門能信という男を捕まえてきた。
それに問うたところ、その奮戦すさまじく、
『見事な働きぶり、あっぱれ! 今後は、いままで同様にこの儂に尽くすと約すれば、命は助けよう』
と、殿が持ち掛けたらしい。
殿は、こういうところがある。
敵であろうが、その武功が良ければ、今までのことなど関係なく味方にする。
まことに大将の器なのだ。
能信という男に、いままでの扶持を聞き ―― 朝倉からは満足すような扶持米を受け取ってはいなかったようだ ―― その二倍、いや三倍は出そうとまで言ったようだ。
だが、能信はこれを断った。
『朝倉殿には、日頃から思うところはございますが………………、いまこの時、山崎様をはじめとするお歴々が討ち死にしましたのに、拙者のみが心の内を吐露して生き残りましては面目が立ち申さん。さらに、織田家に仕え、朝倉家以上の働きができねば、碌を召し上げられることとなり、そうなれば生き恥を晒したと笑いものになりましょうぞ。ならば、いっそこの場で………………』
やおら隠し持っていた短刀を抜き、腹を切ったとか。
『これまたあっぱれ』と、殿は喜ばれたとか。
敦賀に入った信長は、ここで兵を休ませることとし、本陣も漸くにして追いついて、太若丸は返り血や泥、埃で汚れた甲冑を脱がせながら、そんな話を信長から聞いた。
ふと、いつも腰につけている足半(踵のない草履)がないのに気がついた。
どこかで落としたか?
訊くと、〝やった〟と言う。
「又四郎(兼松正吉)の働きが目指しかったのでな、あやつにやった。あやつ、裸足でな、足を血塗れにしながらも戦場で走り回っておったそうじゃ、愛いやつじゃ。あやつは、そいうところがある、桶狭間でも………………」
珍しく昔話をはじめたので、よっぽど正吉の働きが気に入ったのだろう。
いや、正吉だけではない、この度の勝ちが嬉しかったのであろう。
先の家臣たちの失態も忘れ、終始上機嫌であった。
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