本能寺燃ゆ

hiro75

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第二章「性愛の山」

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 そんな気持ちもあったので、最近は彼とは少々距離を置いていたが、そんな彼から呼び出しがあった。

 安仁様のところに一緒に行くように、とのことだ。

 久しぶりに顔を合わせるので、安寿の方はにこりとほほ笑んだが、太若丸は頭を下げただけだった。

 二人して安仁のところに行くと、すでに先客があった。

 名を安慈あんじという。

 安寿のように目元は鋭いが、彼のそれが何処となく優しさを帯びる一方で、安慈のそれは聊か他人を蔑むような、幾分怖い感じがした。

 薄っぺらい唇をぎゅっと閉じて、背筋を伸ばして端然と座る様子は、不動明王のような、人を威嚇する恐ろしさがある。

 安寿の兄弟子で、里坊 ―― 比叡山山麓に建てられたお堂 ―― を管理をしていたそうだが、この度戻ってきたという。

「安慈、こちらが太若丸です。どうです、良き稚児でしょう」

 安仁に紹介してもらい、初対面の人に会った時のように満面の笑みで頭を下げると、ふんと鼻で笑われた。

「安仁様、またこのような者を寺に入れて。他の者の修行の妨げとなりましょうぞ」

 安慈は、酷く怒った口調である。

「いやいや、この者が来てから、拙僧はもとより、他の僧もより一層修行に励んでおる。のお、安寿」

 安寿はにこりと笑う。

「そなたも、一度交合まじわってみれば、その良さが分かろう」

「戯言を」

 癖なのか、安慈は話すとき、唇が酷く捩れた。

 それがまた、不動明王のようだ。

「全く、下界も堕落しきっておりますが、御山も同じですな」

 と、呆れたようにため息を吐いた。

「それで、下界の様子は如何に?」

 安仁の問いに、安慈はもったいぶったように話し出した。

「下坂本周辺に、越前・北近江の軍勢三万が陣を張っており、摂津は三好勢が、一向宗も石山をよくよく抑えておるとのこと。これでは、尾張の小倅も迂闊には動けますまい」

「なるほど」

 安仁は然りと頷く。

「して、座主ざすは如何に?」

「今の処は、ご静観遊ばしのご様子」

「座主は、何を躊躇われておられるのです」

 安慈は、不満顔で言う。

「事が大きくなるのを恐れておいでなのであろう。それに、内裏との関係もある」

 天台宗の最高位 ―― 最高責任者を天台座主と呼ぶ。

 開闢の最澄は別格である。

 初世修禪大師しゅぜんだいしこと義真ぎしんから始まり、二世寂光大師じゃくこうだいしこと円澄えんちょう、三世慈覚大師こと円仁と進み、当代で百六十六世覚恕かくじょがその席に座していた。

 覚恕は、先の帝(後奈良ごなら天皇)の皇子で、今上天皇(正親町おおぎまち天皇)の異母弟である。

 今年天台座主に補任されたばかりで、叡山を如何に舵取りすべきか決めかねているのだろう。

 加えて、内裏が、その修繕費などを弾正忠だんじょうちゅう(織田信長)に頼っていることも考慮されているのだろうと、安仁は語った。

「そのような俗世のこと」

「俗世ではないぞ。御山は、国家鎮護の寺、それは王城、つまり帝を守護する立場でもある。その内裏が世話になっている以上は、おいそれと、弾正忠に弓を引くこともできまいて」

「しかし、拙僧としては、ここは朝倉殿や浅井殿、本願寺らとともに、織田らを追い詰める絶好の好機かと存じます。現に、本願寺からも、出兵の要請がきておるそうではないですか。御山の僧兵三千余りあれば、何を尾張の田舎者など」

「安慈、弾正忠を侮ってはなりませんよ。あれでも、尾張一国から美濃、近江、伊勢、大和を抑え、今や公方様さえも下座に置くというのですから。公家だけでなく、内裏でさえ、頭があがらぬと聞くではないですか」

「それが不遜だというのです。そもそも、公方様も何をなされているのか」

 安仁と安慈の話を聞いていて、はじめは何を言っているのだろうと首を傾げていたが、織田や公方などがでてきたので、ああ、十兵衛が話していた将軍や信長のことだなと気が付いた。

 すると、はたと、もうこの寺に着て、一年以上経ったのだなと、月日の流れは速いと感じた。
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