137 / 498
第二章「性愛の山」
60
しおりを挟む
そんな気持ちもあったので、最近は彼とは少々距離を置いていたが、そんな彼から呼び出しがあった。
安仁様のところに一緒に行くように、とのことだ。
久しぶりに顔を合わせるので、安寿の方はにこりとほほ笑んだが、太若丸は頭を下げただけだった。
二人して安仁のところに行くと、すでに先客があった。
名を安慈という。
安寿のように目元は鋭いが、彼のそれが何処となく優しさを帯びる一方で、安慈のそれは聊か他人を蔑むような、幾分怖い感じがした。
薄っぺらい唇をぎゅっと閉じて、背筋を伸ばして端然と座る様子は、不動明王のような、人を威嚇する恐ろしさがある。
安寿の兄弟子で、里坊 ―― 比叡山山麓に建てられたお堂 ―― を管理をしていたそうだが、この度戻ってきたという。
「安慈、こちらが太若丸です。どうです、良き稚児でしょう」
安仁に紹介してもらい、初対面の人に会った時のように満面の笑みで頭を下げると、ふんと鼻で笑われた。
「安仁様、またこのような者を寺に入れて。他の者の修行の妨げとなりましょうぞ」
安慈は、酷く怒った口調である。
「いやいや、この者が来てから、拙僧はもとより、他の僧もより一層修行に励んでおる。のお、安寿」
安寿はにこりと笑う。
「そなたも、一度交合わってみれば、その良さが分かろう」
「戯言を」
癖なのか、安慈は話すとき、唇が酷く捩れた。
それがまた、不動明王のようだ。
「全く、下界も堕落しきっておりますが、御山も同じですな」
と、呆れたようにため息を吐いた。
「それで、下界の様子は如何に?」
安仁の問いに、安慈はもったいぶったように話し出した。
「下坂本周辺に、越前・北近江の軍勢三万が陣を張っており、摂津は三好勢が、一向宗も石山をよくよく抑えておるとのこと。これでは、尾張の小倅も迂闊には動けますまい」
「なるほど」
安仁は然りと頷く。
「して、座主は如何に?」
「今の処は、ご静観遊ばしのご様子」
「座主は、何を躊躇われておられるのです」
安慈は、不満顔で言う。
「事が大きくなるのを恐れておいでなのであろう。それに、内裏との関係もある」
天台宗の最高位 ―― 最高責任者を天台座主と呼ぶ。
開闢の最澄は別格である。
初世修禪大師こと義真から始まり、二世寂光大師こと円澄、三世慈覚大師こと円仁と進み、当代で百六十六世覚恕がその席に座していた。
覚恕は、先の帝(後奈良天皇)の皇子で、今上天皇(正親町天皇)の異母弟である。
今年天台座主に補任されたばかりで、叡山を如何に舵取りすべきか決めかねているのだろう。
加えて、内裏が、その修繕費などを弾正忠(織田信長)に頼っていることも考慮されているのだろうと、安仁は語った。
「そのような俗世のこと」
「俗世ではないぞ。御山は、国家鎮護の寺、それは王城、つまり帝を守護する立場でもある。その内裏が世話になっている以上は、おいそれと、弾正忠に弓を引くこともできまいて」
「しかし、拙僧としては、ここは朝倉殿や浅井殿、本願寺らとともに、織田らを追い詰める絶好の好機かと存じます。現に、本願寺からも、出兵の要請がきておるそうではないですか。御山の僧兵三千余りあれば、何を尾張の田舎者など」
「安慈、弾正忠を侮ってはなりませんよ。あれでも、尾張一国から美濃、近江、伊勢、大和を抑え、今や公方様さえも下座に置くというのですから。公家だけでなく、内裏でさえ、頭があがらぬと聞くではないですか」
「それが不遜だというのです。そもそも、公方様も何をなされているのか」
安仁と安慈の話を聞いていて、はじめは何を言っているのだろうと首を傾げていたが、織田や公方などがでてきたので、ああ、十兵衛が話していた将軍や信長のことだなと気が付いた。
すると、はたと、もうこの寺に着て、一年以上経ったのだなと、月日の流れは速いと感じた。
安仁様のところに一緒に行くように、とのことだ。
久しぶりに顔を合わせるので、安寿の方はにこりとほほ笑んだが、太若丸は頭を下げただけだった。
二人して安仁のところに行くと、すでに先客があった。
名を安慈という。
安寿のように目元は鋭いが、彼のそれが何処となく優しさを帯びる一方で、安慈のそれは聊か他人を蔑むような、幾分怖い感じがした。
薄っぺらい唇をぎゅっと閉じて、背筋を伸ばして端然と座る様子は、不動明王のような、人を威嚇する恐ろしさがある。
安寿の兄弟子で、里坊 ―― 比叡山山麓に建てられたお堂 ―― を管理をしていたそうだが、この度戻ってきたという。
「安慈、こちらが太若丸です。どうです、良き稚児でしょう」
安仁に紹介してもらい、初対面の人に会った時のように満面の笑みで頭を下げると、ふんと鼻で笑われた。
「安仁様、またこのような者を寺に入れて。他の者の修行の妨げとなりましょうぞ」
安慈は、酷く怒った口調である。
「いやいや、この者が来てから、拙僧はもとより、他の僧もより一層修行に励んでおる。のお、安寿」
安寿はにこりと笑う。
「そなたも、一度交合わってみれば、その良さが分かろう」
「戯言を」
癖なのか、安慈は話すとき、唇が酷く捩れた。
それがまた、不動明王のようだ。
「全く、下界も堕落しきっておりますが、御山も同じですな」
と、呆れたようにため息を吐いた。
「それで、下界の様子は如何に?」
安仁の問いに、安慈はもったいぶったように話し出した。
「下坂本周辺に、越前・北近江の軍勢三万が陣を張っており、摂津は三好勢が、一向宗も石山をよくよく抑えておるとのこと。これでは、尾張の小倅も迂闊には動けますまい」
「なるほど」
安仁は然りと頷く。
「して、座主は如何に?」
「今の処は、ご静観遊ばしのご様子」
「座主は、何を躊躇われておられるのです」
安慈は、不満顔で言う。
「事が大きくなるのを恐れておいでなのであろう。それに、内裏との関係もある」
天台宗の最高位 ―― 最高責任者を天台座主と呼ぶ。
開闢の最澄は別格である。
初世修禪大師こと義真から始まり、二世寂光大師こと円澄、三世慈覚大師こと円仁と進み、当代で百六十六世覚恕がその席に座していた。
覚恕は、先の帝(後奈良天皇)の皇子で、今上天皇(正親町天皇)の異母弟である。
今年天台座主に補任されたばかりで、叡山を如何に舵取りすべきか決めかねているのだろう。
加えて、内裏が、その修繕費などを弾正忠(織田信長)に頼っていることも考慮されているのだろうと、安仁は語った。
「そのような俗世のこと」
「俗世ではないぞ。御山は、国家鎮護の寺、それは王城、つまり帝を守護する立場でもある。その内裏が世話になっている以上は、おいそれと、弾正忠に弓を引くこともできまいて」
「しかし、拙僧としては、ここは朝倉殿や浅井殿、本願寺らとともに、織田らを追い詰める絶好の好機かと存じます。現に、本願寺からも、出兵の要請がきておるそうではないですか。御山の僧兵三千余りあれば、何を尾張の田舎者など」
「安慈、弾正忠を侮ってはなりませんよ。あれでも、尾張一国から美濃、近江、伊勢、大和を抑え、今や公方様さえも下座に置くというのですから。公家だけでなく、内裏でさえ、頭があがらぬと聞くではないですか」
「それが不遜だというのです。そもそも、公方様も何をなされているのか」
安仁と安慈の話を聞いていて、はじめは何を言っているのだろうと首を傾げていたが、織田や公方などがでてきたので、ああ、十兵衛が話していた将軍や信長のことだなと気が付いた。
すると、はたと、もうこの寺に着て、一年以上経ったのだなと、月日の流れは速いと感じた。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
1333
干支ピリカ
歴史・時代
鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。
(現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)
鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。
主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。
ご興味を持たれた方は是非どうぞ!
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
大航海時代 日本語版
藤瀬 慶久
歴史・時代
日本にも大航海時代があった―――
関ケ原合戦に勝利した徳川家康は、香木『伽羅』を求めて朱印船と呼ばれる交易船を東南アジア各地に派遣した
それはあたかも、香辛料を求めてアジア航路を開拓したヨーロッパ諸国の後を追うが如くであった
―――鎖国前夜の1631年
坂本龍馬に先駆けること200年以上前
東の果てから世界の海へと漕ぎ出した、角屋七郎兵衛栄吉の人生を描く海洋冒険ロマン
『小説家になろう』で掲載中の拙稿「近江の轍」のサイドストーリーシリーズです
※この小説は『小説家になろう』『カクヨム』『アルファポリス』で掲載します
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる