本能寺燃ゆ

hiro75

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第二章「性愛の山」

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 稚児灌頂の七日前から、本格的な修行へと入る。

 灌頂中の細々な決まり事から、儀式中に必要な経典、安仁との初めての夜のための行為、仕草、指使いなど教わる。

「灌頂当日は、拙僧も仕度で慌ただしく、そなたに付きっ切りでいるわけにはいきませんので、しっかりと覚えてください」

 安寿の言葉通り、当日は朝から慌ただしかった。

 本堂では、四方を屏風で囲って、蔀格子にしめ縄をかけ、結界とする。

 山王大師を祀って、左右に観世音菩薩の曼荼羅を置く。

 その前に、花や閼伽あか(仏前に添えられる水)、法具とともに、この儀式で最も大切な誓水が宝器に入れられ、置かれる。

 その左側には化粧箱や香箱、櫛箱、鏡、爪楊枝など、いわゆる稚児に必要な道具類が置かれ、右側には稚児から観音菩薩になった証として身に纏う天冠と装束が用意された。

 これだけでも丸一日がかりだ。

 ようやく夕刻になって、権太と契りを交わす高僧 ―― 安仁が本堂に入り、弟子たちとともに、経を読み始める。

 経は千反である ―― すなわち千回読み上げる。

 その間、権太は居住まいを正し ―― 安覚が手伝いながら、顔を洗い、爪楊枝を使って口を漱ぎ、化粧はせずに、髪を結った。

 身に着けるのは襦袢と、袴のみである。

 灌頂の最中に法衣を着るので、水干は無用だと言われた。

 支度をしている最中、随時お堂から読経の音が聞こえていたが、ときに緩やかに、ときに激しく、ときに小さく、ときに大きくなる声は、まるで淡海の舟の上で聞いた波のようで、権太はこれからどこに流れ着くのか分からないような、暮れゆく夕日と相まって、少々物悲しい気持ちになってしまった。

 お経が五百反(五百回)になったころに、お堂に入る。

 作法通り戸を開けると、安寿の姿があった。

 入ってきた権太の姿を見て、笑顔なのか、それとも驚きなのか、ほっと両目を見開いてしばし見つめていた。

 我に返り、安仁の後ろに案内した。

 安仁は、それまで無所不至印を結んでいたが、権太が入ってくると、本三昧耶印に結びなおす。

 権太は、彼の後ろに座ると、三度礼拝する。

 そして、安寿が手伝って、手や足、顔に香を塗って身を清める。

 そのあと、五大願ごだいがんを唱える。

 お経に関しては、何度か唱えるうちに覚えてしまった。

 文字に関してもすぐに覚え、手習いも安寿が驚くほど上達した。

 もともと頭が空っぽだったからか、それとも生まれ持っての才か、水に浸かった真綿のごとく、あらゆるものをすいすいと吸収してしまった。

 この儀式も緊張はしたが、間違えるという不安はなかった。

 安寿も、「そなたなら大丈夫でしょう」と、言ってくれた。

 五大願とは………………


  衆生無辺誓願度しょじょうむへんせいがんど

  福智無辺誓願集ふくちむへんせいがんしゅう

  法門無辺誓願覚ほうもんむへんせいがんがく

  如来無辺誓願事にょらいむへんせいがんじ

  無上菩提誓願證むじょうぼだいせいがんしょう


   生きとし生けるものの数は限りがないが、誓って救いとることを願う

   福徳と智慧は限りないが、誓ってこの身につけ、備えることを願う

   仏の教えは限りがないが、誓って悟りを開くことを願う

   仏の数は限りがないが、誓ってその全てに仕えることを願う

   仏の悟りは最上だが、誓ってこの身につけることを願う


 僧侶が、修行に入る前に必ず誓う願いであり、一般には四弘誓願しぐぜいがんの四つの誓いだが、真言宗は、五つの誓願を立てる。

 権太は、お経を唱えながら、お堂内をちらちらと見まわした。

 戸口から寂々とした夕日が忍び入り、法具や曼荼羅の金糸に反射して、お堂内がきらきらと星のように輝く様子は、幻想的な様子で、まるで本当に仏の世界にいるようで、自分が観音菩薩の化身となるのが頷けた。

 五大願を唱え終わると、安仁が向き直る。

 夕日に照らされたにこやかな顔は、まるで仏様のようだ。

 この人の下半身に、権太と同じようなものがついていて、なおかつ安覚のように勃起させるのかと思うと、不思議でしかない。

 安仁は、権太に四つの印明を授ける ―― 入仏三昧印明、七反法界生印明、三反転法輪印明、三反次無所不至印明 ―― 印明とは、手で印を結び、真言を唱えることである。

 師から弟子へと印明を伝授された後、安仁から爪楊枝を受け取り、歯を濯ぎ、宝器に入った誓水を飲んだ。

 これにて、彼は観音菩薩の化身となる。

 安仁は、にこりとほほ笑み、彼の歯にお歯黒を三度塗る。

 他の歯は、安寿に塗ってもらい、口を拭かれた後、眉を描き、化粧をし、法衣を着せられ、頭上に天冠を載せられた。

 権太は、安仁と場所を代わって山王大師の前に座る。

 安仁は、観音菩薩となった権太に礼拝し、名を授ける。

「なんじはただいまより、太若丸うずわかまるである」

 稚児は、下に『丸』という一字を付けて呼ばれるようになる。

 大抵は本名の下にそのまま『丸』を付けるのだが、権太の場合は『権太丸』ではいささか趣きにかけると、安仁が新しい名を付けてくれた。

「なんじの身は、深位の薩捶、往古の如来なり。故に、この界にのって、一切衆生を渡す。観ぜよ………………」

 と、誓願が終わると、安仁は再び礼拝し、これにて稚児灌頂は終わる。

 ほっと一息つく暇もなく、権太………………これより、太若丸は、本堂を出て、一度自室へと戻る。

 夜の仕度である。
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