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第二章「性愛の山」
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父は、
「もう忘れろ」
と、大きなため息を吐きながら言った。
―― 忘れろ?
忘れることなんて、できるわけがない。
「おえいを見ろ、あの男のことなど、とうに頭にはない。いまは婿をとり、この家を守ることだけを考えておる」
姉は、村の女たちと笑いながら、正月の用意をしている。
「女は強い」、 源太郎はおえいを見つめながら言う、「夢を見たと思って、すぐに忘れる。女にとって大事は、天下や城持ちなどという夢物語などではない。今日明日の食い扶持だ、でなければ、子も産めん」
姉は、十兵衛とのことを、ただの夢だと割り切ったのだろうか?
「お前もそうなれ、とは言わん。が、夢と思って諦め、あの男のことは忘れろ。年が明ければ、おえいは婿をとるし、お前は寺へ行くことになるんだ。心根を入れ替えんと、寺勤めは務まらんぞ。和尚は厳しいからな」
それは、悪夢である。
年明けは、大雪だった。
七草の「粥祝」が済んでも村中真っ白で、婿取りの日までにやめばいいがと源太郎や村人たちが話していると、
「塞の祭」の頃には天気も良くなり、雪もあらかた溶けて、おえいの婿迎えと権太の寺上りの用意も順調に進んだ。
おえいは、相も変わらず嬉しそうで、挨拶にくる人間に愛嬌をふりまいている。
権太は、まだ夢うつつである。
三日後に、上の村の庄屋の三男坊がやってくるとなった夜、源太郎には珍しく、しこたま濁酒を飲んだ。
祝いだと、村の年寄り連中が濁酒や肴を持って源太郎の屋敷に集まり、あれよあれよと飲まされた。
村の顔役として、普段は祭りのときでもさほど濁酒を飲まない源太郎だが、この夜は、
「それ飲め! それ飲め!」
「いやいや、そんなに……」
「いや飲め! いや飲め!」
「そんなに、そんなに……」
と、年寄り連中と源太郎の何度かやり取りがあったが、やはり娘の祝言が余程嬉しいのか、
「そこまで言うなら……」
と、一度堰が切れると、源太郎の杯もすぐに空になり、
「こりゃこりゃ、もう一杯」
と、なみなみと注がれた。
おえいは、あまり飲ませないでくださいね、父は弱いのでと、集まった連中に言うのだが、その癖、父の杯が空いていると、自らお酌をする。
「こうして、娘さんから濁酒を注いでもらって酔っぱらうのも、もう少しのことや。婿が入ってきたら、そうもいかん。今夜は心底飲ませてやれや」
と、年寄りたちは笑いながら、自らも杯をぐいぐい空けていった。
権太は、傍らで焼いたかき餅をちびちびと齧っている。
「ぼうも寺に上がる祝や、飲め、飲め」
年寄りたちが進めるが、前に酷い目にあったので、遠慮した。
それでも「飲め! 飲め!」と煩いので、ちょっと口に含んで、尿と偽って外に出て吐き捨てた。
外は、月明りで恐ろしいほど青白く、冷たい。
見上げると、満月である。
この月を、十兵衛も見ているのだろうか?
何処で? ―― 天下で?
そして、もう二度と一緒に見ることはないのだろうか?
ぼんやりと佇んでいると、急に寒くなってきて、本当に尿がしたくなり、急いで放出して家へと駆けこんだ。
宴は、まだ続いていた。
「もう忘れろ」
と、大きなため息を吐きながら言った。
―― 忘れろ?
忘れることなんて、できるわけがない。
「おえいを見ろ、あの男のことなど、とうに頭にはない。いまは婿をとり、この家を守ることだけを考えておる」
姉は、村の女たちと笑いながら、正月の用意をしている。
「女は強い」、 源太郎はおえいを見つめながら言う、「夢を見たと思って、すぐに忘れる。女にとって大事は、天下や城持ちなどという夢物語などではない。今日明日の食い扶持だ、でなければ、子も産めん」
姉は、十兵衛とのことを、ただの夢だと割り切ったのだろうか?
「お前もそうなれ、とは言わん。が、夢と思って諦め、あの男のことは忘れろ。年が明ければ、おえいは婿をとるし、お前は寺へ行くことになるんだ。心根を入れ替えんと、寺勤めは務まらんぞ。和尚は厳しいからな」
それは、悪夢である。
年明けは、大雪だった。
七草の「粥祝」が済んでも村中真っ白で、婿取りの日までにやめばいいがと源太郎や村人たちが話していると、
「塞の祭」の頃には天気も良くなり、雪もあらかた溶けて、おえいの婿迎えと権太の寺上りの用意も順調に進んだ。
おえいは、相も変わらず嬉しそうで、挨拶にくる人間に愛嬌をふりまいている。
権太は、まだ夢うつつである。
三日後に、上の村の庄屋の三男坊がやってくるとなった夜、源太郎には珍しく、しこたま濁酒を飲んだ。
祝いだと、村の年寄り連中が濁酒や肴を持って源太郎の屋敷に集まり、あれよあれよと飲まされた。
村の顔役として、普段は祭りのときでもさほど濁酒を飲まない源太郎だが、この夜は、
「それ飲め! それ飲め!」
「いやいや、そんなに……」
「いや飲め! いや飲め!」
「そんなに、そんなに……」
と、年寄り連中と源太郎の何度かやり取りがあったが、やはり娘の祝言が余程嬉しいのか、
「そこまで言うなら……」
と、一度堰が切れると、源太郎の杯もすぐに空になり、
「こりゃこりゃ、もう一杯」
と、なみなみと注がれた。
おえいは、あまり飲ませないでくださいね、父は弱いのでと、集まった連中に言うのだが、その癖、父の杯が空いていると、自らお酌をする。
「こうして、娘さんから濁酒を注いでもらって酔っぱらうのも、もう少しのことや。婿が入ってきたら、そうもいかん。今夜は心底飲ませてやれや」
と、年寄りたちは笑いながら、自らも杯をぐいぐい空けていった。
権太は、傍らで焼いたかき餅をちびちびと齧っている。
「ぼうも寺に上がる祝や、飲め、飲め」
年寄りたちが進めるが、前に酷い目にあったので、遠慮した。
それでも「飲め! 飲め!」と煩いので、ちょっと口に含んで、尿と偽って外に出て吐き捨てた。
外は、月明りで恐ろしいほど青白く、冷たい。
見上げると、満月である。
この月を、十兵衛も見ているのだろうか?
何処で? ―― 天下で?
そして、もう二度と一緒に見ることはないのだろうか?
ぼんやりと佇んでいると、急に寒くなってきて、本当に尿がしたくなり、急いで放出して家へと駆けこんだ。
宴は、まだ続いていた。
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