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第8話
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降り続いた雪は夜中に止み、眩しいほどの朝日であった。
痺れるほどの冷たい水を浴び、真新しい着物に着替え、父に挨拶をした。
「行って参ります」
父は、しばらく由比を見つめたあと、黙って頷いた。
処刑の日である。
本来なら、首切り役は佐伯家が受け持つ。
だが、咎人は佐伯家の婿養子のため、今回だけは木場家にお役が決まった。
木場家が首切り役をするのは前例がないが、経長はこの役を受けた。
そして、首切り役を由比に指名した。
はじめ、由比はこれを辞退した。
夫を信じられなかった自分が、夫から信じてもらえなかった自分が、彼の首を切ることなどできない。
彼も、それを望んでいないであろう、と。
経長は、『これは、あやつが望んだことです』と言った。
彼は、首を切られるなら、由比にと望んだそうだ。
さすがに身内だからと、目付けから断られたらしい。
『ですが私は、最期ぐらいあやつの望みを叶えてやりたいと思っております』
『ですが、私には………………』
あれほど、夫に何かあれば自ら首を切ってやろうと思っていたのに、いまはその自信がない。
夫の気持ちに気づくことができなかった自分に、彼の首を切る資格などないと思う。
彼だって、そう思っているはずだ。
なのに、なぜ彼は由比に首を切ってほしいと言うのか?
『それは、やつが由比殿を信頼しているからですよ』
『私を信頼? でも………………』
『あなたなら、きっとすっぱりと首を切ってくれると思っているからですよ。これがやつの、あなたに対する信頼だと思います。不器用なやつです』
『私は………………』
『あやつの師匠としてのお願いです。どうか、見苦しい最期にならないよう、あやつの首をばっさりと切ってやってください』
経長は、深々と頭を下げた。
由比は、三日三晩悩んだ。
自分に、夫の首を切る資格があるのか?
彼の気持ちに気がつかず、言いたい放題、好き勝手にしてきた由比に、彼の首を切ることができるのか?
彼は由比を信頼しているという。
だったら、なぜもっと前に、全てを話してくれなかったのか?
自分だけ、全てを抱え込んであの世に行こうとするのか?
なぜ、妻である自分にも、その重たい荷物を背負わせてくれなかったのか?
なぜ………………?
なぜ………………?
由比は、主のいない寝床を見つめる。
数ヵ月であるが、その男は隣にいた。
あの間の抜けた笑顔で、由比の話を聞いていた。
武士とは何たるかを熱心に語り、父や弟子たち、他の侍たちの言動を愚痴りもし、ときに彼自身をも詰ることもあった。
それでも、夫は妻の話を黙って聞いていた。
ふと気が付いた ―― 私は、あの人の話を聞いてあげただろうか?
彼が何を思い、何を考え、何をしていたか ―― 真面目に尋ねたことがあったろうか?
いつも自分ばかり話していなかったか?
もとからあまり話す人ではないが、彼が話しやすいような雰囲気を作ってきただろうか?
経長の言う通りだと思った。
自分のことばかりで、夫のことを全く見ていなかった。
だから、こんなことに………………
妻としても、人としても未熟であったと愕然とした ―― 『ぼんくら』は、己自身だ。
由比は、夫の首切りを役を引き受けることにした。
それは、彼に妻らしいことを何一つとしてしてやれなかったことへの詫びであり、妻としての最後の務めだと思った。
彼女が決心したのは、ほんの昨日のことである。
経長は、すぐさま上に首切り役が決まったことをあげたが、身内に首切りをやらせるのは駄目だとか、木場家にお役が決まったのに佐伯家の者を指名するのは問題だとか、煩く言われた。
『お役を受けたのは木場家であって、実際に首を切る者を決めるのは、当主である拙者の権限。そんなにおっしゃるなら、皆さまのうち、どなたかが首を切られたらよろしいのでは?』
と、経長は突っぱねたらしい。
みな苦々しい顔をして押し黙ったとか。
『あやつほどの覚悟はござらん』と、経長は笑っていた。
由比は、ただ『ありがとうございます』と、頭を下げた。
『私ができるのは、ここまでです。あとは、あやつのこと、よろしくお願いします』
夫のための新しい着物を持って表門を出ると、団子屋の娘が待っていた。
由比の顔を見ると駆け寄り、
「あの……、これ、槇田様に」、団子を差し出した、「それから槇田様に伝え下さい。お陰さまで、父の具合がだいぶ良くなりました。このご恩は決して忘れません。今日明日にもと返せるお金ではないけれど、一生かかっても必ずお返ししますと」
しばし驚き、娘を見つめた ―― そうか、これがあの人がやっていたことなのだと、ひどく嬉しくなった。
「ありがとう、その気持ちだけで嬉しいわ」
笑顔で答えた。
娘は、泣いていた。
冬の座敷牢は、道場よりも遥かに冷たく、凍てついている。
格子窓からは青白い光が差し込み、男を照らしつける。
武士がいる………………!
本物の武士がいる………………!
髭も月代も伸び放題、目は窪み、頬はげっそりと扱け、着物は薄汚れているが、侍がいると由比は思った。
掟で、罪人に最後の食事は許されないが、由比は団子を二串出した。
男は、満面の笑みで団子を平らげる。
由比は、出会った頃を思い出す。
たった半年前……、いや、半年も経っていないかもしれない。
短い間だったが、色んなことがあった。
夫婦になった当初は、平平凡凡な、これまでと変わらない毎日が続くのだと思っていた。
だが、ものの見事に裏切られ、嵐のような数か月であった。
幸せな夫婦生活であった、とは言えない。
互いの利害が一致して、仕方なく一緒になったようなものだ。
結局、夫婦を演じていたに過ぎない ―― 飯事だったのだ。
そこに信頼など、生まれようはずがない。
それでも由比は、妻としての責務を持って過ごしてきた。
いくら自分の好きな剣術に生きるといっても、妻としての仕事をおろそかにするわけにはいかない。
そんな不真面目なことができない性格だ。
精一杯、夫に尽くしてきたつもりだ。
だが、それは由比のひとり善がりだったのかもしれない。
ならば男のほうはどうであったか?
夫としての務めを尽くしたか?
答えは否である。
元来、由比がそれを求めていない。
剣術に生きる彼女の邪魔をしないことが絶対条件で、夫婦になったのだ。
ただ、自由にやらせてくれた、我儘を聞いてくれたという点では、他の男よりも断然良かった。
それを考えると、由比からすれば幸せな夫婦生活だったのかもしれない。この人で良かったと思える。
だが、夫はどうだろうか?
少しの間でも、由比と一緒になって良かったと思ってくれているだろうか、幸せだったと思ってくれているだろうか?
いや、それはない。
この人が幸せなのは、団子を食べるときだけだから……………と、由比は団子を美味そうに食べる男を見つめていた。
串が綺麗になったあと、由比は男に新しい着物を着せ、月代と髭を剃った。
男が、それは自分でというのを断り、扱けた頬に剃刀をあてた。
牢内に、髭を剃る音と男と女の静かな息遣いが響く。
これも、妻としての最後の務めだと思って、由比は丁寧に剃った。
が、刀を使うのは雑作もないが、剃刀を使うのは難しい。
男は、「いた!」と眉を寄せた。
「あっ、すみません」
懐紙で男の傷口を抑える。
白い紙が、みるみるうちに赤く染まる。
男は、くすくすと笑い出す。
「何が可笑しいのですか?」
「いえ、だって、もうすぐ首をばっさりとやられるのに、いまさら痛いだなんて……と思いまして」
由比は、はたと驚き、身を引き、男を見つめる。
「さっき、団子を食べてるとき、やっぱり美味いと思いまして。まだ痛いとか、美味いとか思うのは、生きてる証拠だなと可笑しくなって」
「未練が……おありですか?」
由比は、恐る恐る尋ねる。
「いえ、こんな『ぼんくら』な人生に未練など。ただ………………」と、男は妻に向き直った、「ぼんくら夫の最後のお願いを聞いていただけますか?」
由比は頷く。
「決して、私の後を追って死なないでください。髪も下ろすことがないように。お好きな剣術に邁進してください。あなたは、剣術に打ち込んでいるときが何よりも美しいのですから。そして、少しだけ、本当に少しだけでいいので、あの子たちのこと、貧しい、哀れな者たちに気をかけてやってください」
男は、真面目な顔で、惚れ惚れとするような真剣な顔で、深々と頭を下げた。
そして顔をあげたときは、あの『まぬけな』笑顔に戻っていた。
「いや、これは失敬、由比殿が私の後を追って死ぬとか、尼さんになるとか、ありえない話ですよね。あははは……、どこまで自意識過剰なんだって話ですよね」
夫は、けたけたと笑う。
由比は、うっと口元を覆い、涙ぐむ。
目頭が熱くなり、込み上げてきたものが次から次へと溢れていく。
肩を震わせ、嗚咽を漏らす。
由比は思った、『この人で良かった』と、『この人を選んだのは間違いではなかった』と。
男は、静かに泣く由比を優しく見つめながら言った。
「由比殿、泣かないでください。泣きながら首を切られたら、手元が狂って痛い思いをしてしまいますから。あははは、由比殿に限って、それはないか」
涙が、次から次へと溢れていく。
「由比殿、痛くないように、ばっさりとお願いします。あなたを、信じていますから」
由比は、涙を必死でこらえながら、ただ頷いた。
男は、後ろ手に縛られ、罪人籠に乗せられて、川原へと向かった。
武士としての切腹ならば、目付けの屋敷で、畳みの上で死ねる。
だが、彼は罪人である。
川原の処刑場で、砂利に敷いた茣蓙の上で最期を迎えることになる。
由比は、罪人籠に付きそう。
こうやって、二人で連れ添って歩いたのは、初めて会った日以来だ。そして、今日限りに………………
道中、罪人を見ようと人だかりができている。
ほとんどが、彼に世話になった百姓や職人だ。
彼の同僚や剣術道場で一緒だった仲間たちは、関わり合いになるのが嫌なのか、誰ひとりとして来ていない。
彼の師匠、木場経長だけが、見送りに来ている。
眉間に皺を寄せ、厳しい顔をしている。
彼を見送る人の多くが、手をあわせたり、頭を下げたりして、最期の別れを惜しんでいる。
団子屋の娘に、お寺の和尚、子どもたちの姿も見える。
子どもたちは涙目で、いまにもこちらに駆けてきそうだが、それを団子屋の娘や和尚が必死で止めていた。
これだけの人に慕われて、自分の夫はなんと幸せ者だろうか。
薄情な武士たちよりも、貧しくとも、人としての温かみがある人たちに見送られ、なんと幸せであろうか。
残念なのは、自分がこの人を幸せにできなかったことだと、由比は彼に付き添いながら後悔した。
刑場に着くと、彼は後ろ手のまま茣蓙に座らされた。
岩沼領の作法では、罪人は縄をかけられたまま首を切られる。
それではあまりに不憫だと、由比は目付けに「武士の情けで縄を解いてほしい」と、お願いした。
目付けは、黙って頷いた。
「あと、着物が乱れておりますので、直してよろしいでしょうか?」
これも当然のごとく頷いた。
由比は、男の縄を解いた後、正面へとまわり、襟元を直すふりをして、耳元で囁いた。
「辞世の句を詠まれますか?」
罪人に、辞世の句を詠むことは許されていない。
最期に武士として死なせてあげたいと、由比は尋ねた。
「いえ、不調法ですから」
と、笑って断った。
「それでは、最後に言い残すことはございませんか?」
男は、由比を見つめ、笑顔で言った。
「あなたと一緒になれて、本当に幸せでした」
由比は必死で堪えながら、何とか呟いた。
「私も……」
誰にも見えぬように、彼の膝の上に置かれた手に、そっと手を添えた。
せせらぎに、陽光が煌めく。
女は、後ろへとまわり、一礼したのち、刀を振り上げる。
男は迷いもなく、凛とした姿で端座している。
美しい、これほど美しく、覚悟を持った罪人はいままで見たことがない。
男の首筋をしっかりと見据える。
泣いてはいけない、泣いてはいけない、泣けば手元が狂って、苦しめてしまう。
深く息を吸い込み、しばらく留めたあと………………
由比は、己の全身全霊をかけ、掛け声とともに刀を振り下ろした。
彼女が、仁左衛門の愛を知ったのは、年の暮れの、悲しいほど美しく澄み渡った日であった。
痺れるほどの冷たい水を浴び、真新しい着物に着替え、父に挨拶をした。
「行って参ります」
父は、しばらく由比を見つめたあと、黙って頷いた。
処刑の日である。
本来なら、首切り役は佐伯家が受け持つ。
だが、咎人は佐伯家の婿養子のため、今回だけは木場家にお役が決まった。
木場家が首切り役をするのは前例がないが、経長はこの役を受けた。
そして、首切り役を由比に指名した。
はじめ、由比はこれを辞退した。
夫を信じられなかった自分が、夫から信じてもらえなかった自分が、彼の首を切ることなどできない。
彼も、それを望んでいないであろう、と。
経長は、『これは、あやつが望んだことです』と言った。
彼は、首を切られるなら、由比にと望んだそうだ。
さすがに身内だからと、目付けから断られたらしい。
『ですが私は、最期ぐらいあやつの望みを叶えてやりたいと思っております』
『ですが、私には………………』
あれほど、夫に何かあれば自ら首を切ってやろうと思っていたのに、いまはその自信がない。
夫の気持ちに気づくことができなかった自分に、彼の首を切る資格などないと思う。
彼だって、そう思っているはずだ。
なのに、なぜ彼は由比に首を切ってほしいと言うのか?
『それは、やつが由比殿を信頼しているからですよ』
『私を信頼? でも………………』
『あなたなら、きっとすっぱりと首を切ってくれると思っているからですよ。これがやつの、あなたに対する信頼だと思います。不器用なやつです』
『私は………………』
『あやつの師匠としてのお願いです。どうか、見苦しい最期にならないよう、あやつの首をばっさりと切ってやってください』
経長は、深々と頭を下げた。
由比は、三日三晩悩んだ。
自分に、夫の首を切る資格があるのか?
彼の気持ちに気がつかず、言いたい放題、好き勝手にしてきた由比に、彼の首を切ることができるのか?
彼は由比を信頼しているという。
だったら、なぜもっと前に、全てを話してくれなかったのか?
自分だけ、全てを抱え込んであの世に行こうとするのか?
なぜ、妻である自分にも、その重たい荷物を背負わせてくれなかったのか?
なぜ………………?
なぜ………………?
由比は、主のいない寝床を見つめる。
数ヵ月であるが、その男は隣にいた。
あの間の抜けた笑顔で、由比の話を聞いていた。
武士とは何たるかを熱心に語り、父や弟子たち、他の侍たちの言動を愚痴りもし、ときに彼自身をも詰ることもあった。
それでも、夫は妻の話を黙って聞いていた。
ふと気が付いた ―― 私は、あの人の話を聞いてあげただろうか?
彼が何を思い、何を考え、何をしていたか ―― 真面目に尋ねたことがあったろうか?
いつも自分ばかり話していなかったか?
もとからあまり話す人ではないが、彼が話しやすいような雰囲気を作ってきただろうか?
経長の言う通りだと思った。
自分のことばかりで、夫のことを全く見ていなかった。
だから、こんなことに………………
妻としても、人としても未熟であったと愕然とした ―― 『ぼんくら』は、己自身だ。
由比は、夫の首切りを役を引き受けることにした。
それは、彼に妻らしいことを何一つとしてしてやれなかったことへの詫びであり、妻としての最後の務めだと思った。
彼女が決心したのは、ほんの昨日のことである。
経長は、すぐさま上に首切り役が決まったことをあげたが、身内に首切りをやらせるのは駄目だとか、木場家にお役が決まったのに佐伯家の者を指名するのは問題だとか、煩く言われた。
『お役を受けたのは木場家であって、実際に首を切る者を決めるのは、当主である拙者の権限。そんなにおっしゃるなら、皆さまのうち、どなたかが首を切られたらよろしいのでは?』
と、経長は突っぱねたらしい。
みな苦々しい顔をして押し黙ったとか。
『あやつほどの覚悟はござらん』と、経長は笑っていた。
由比は、ただ『ありがとうございます』と、頭を下げた。
『私ができるのは、ここまでです。あとは、あやつのこと、よろしくお願いします』
夫のための新しい着物を持って表門を出ると、団子屋の娘が待っていた。
由比の顔を見ると駆け寄り、
「あの……、これ、槇田様に」、団子を差し出した、「それから槇田様に伝え下さい。お陰さまで、父の具合がだいぶ良くなりました。このご恩は決して忘れません。今日明日にもと返せるお金ではないけれど、一生かかっても必ずお返ししますと」
しばし驚き、娘を見つめた ―― そうか、これがあの人がやっていたことなのだと、ひどく嬉しくなった。
「ありがとう、その気持ちだけで嬉しいわ」
笑顔で答えた。
娘は、泣いていた。
冬の座敷牢は、道場よりも遥かに冷たく、凍てついている。
格子窓からは青白い光が差し込み、男を照らしつける。
武士がいる………………!
本物の武士がいる………………!
髭も月代も伸び放題、目は窪み、頬はげっそりと扱け、着物は薄汚れているが、侍がいると由比は思った。
掟で、罪人に最後の食事は許されないが、由比は団子を二串出した。
男は、満面の笑みで団子を平らげる。
由比は、出会った頃を思い出す。
たった半年前……、いや、半年も経っていないかもしれない。
短い間だったが、色んなことがあった。
夫婦になった当初は、平平凡凡な、これまでと変わらない毎日が続くのだと思っていた。
だが、ものの見事に裏切られ、嵐のような数か月であった。
幸せな夫婦生活であった、とは言えない。
互いの利害が一致して、仕方なく一緒になったようなものだ。
結局、夫婦を演じていたに過ぎない ―― 飯事だったのだ。
そこに信頼など、生まれようはずがない。
それでも由比は、妻としての責務を持って過ごしてきた。
いくら自分の好きな剣術に生きるといっても、妻としての仕事をおろそかにするわけにはいかない。
そんな不真面目なことができない性格だ。
精一杯、夫に尽くしてきたつもりだ。
だが、それは由比のひとり善がりだったのかもしれない。
ならば男のほうはどうであったか?
夫としての務めを尽くしたか?
答えは否である。
元来、由比がそれを求めていない。
剣術に生きる彼女の邪魔をしないことが絶対条件で、夫婦になったのだ。
ただ、自由にやらせてくれた、我儘を聞いてくれたという点では、他の男よりも断然良かった。
それを考えると、由比からすれば幸せな夫婦生活だったのかもしれない。この人で良かったと思える。
だが、夫はどうだろうか?
少しの間でも、由比と一緒になって良かったと思ってくれているだろうか、幸せだったと思ってくれているだろうか?
いや、それはない。
この人が幸せなのは、団子を食べるときだけだから……………と、由比は団子を美味そうに食べる男を見つめていた。
串が綺麗になったあと、由比は男に新しい着物を着せ、月代と髭を剃った。
男が、それは自分でというのを断り、扱けた頬に剃刀をあてた。
牢内に、髭を剃る音と男と女の静かな息遣いが響く。
これも、妻としての最後の務めだと思って、由比は丁寧に剃った。
が、刀を使うのは雑作もないが、剃刀を使うのは難しい。
男は、「いた!」と眉を寄せた。
「あっ、すみません」
懐紙で男の傷口を抑える。
白い紙が、みるみるうちに赤く染まる。
男は、くすくすと笑い出す。
「何が可笑しいのですか?」
「いえ、だって、もうすぐ首をばっさりとやられるのに、いまさら痛いだなんて……と思いまして」
由比は、はたと驚き、身を引き、男を見つめる。
「さっき、団子を食べてるとき、やっぱり美味いと思いまして。まだ痛いとか、美味いとか思うのは、生きてる証拠だなと可笑しくなって」
「未練が……おありですか?」
由比は、恐る恐る尋ねる。
「いえ、こんな『ぼんくら』な人生に未練など。ただ………………」と、男は妻に向き直った、「ぼんくら夫の最後のお願いを聞いていただけますか?」
由比は頷く。
「決して、私の後を追って死なないでください。髪も下ろすことがないように。お好きな剣術に邁進してください。あなたは、剣術に打ち込んでいるときが何よりも美しいのですから。そして、少しだけ、本当に少しだけでいいので、あの子たちのこと、貧しい、哀れな者たちに気をかけてやってください」
男は、真面目な顔で、惚れ惚れとするような真剣な顔で、深々と頭を下げた。
そして顔をあげたときは、あの『まぬけな』笑顔に戻っていた。
「いや、これは失敬、由比殿が私の後を追って死ぬとか、尼さんになるとか、ありえない話ですよね。あははは……、どこまで自意識過剰なんだって話ですよね」
夫は、けたけたと笑う。
由比は、うっと口元を覆い、涙ぐむ。
目頭が熱くなり、込み上げてきたものが次から次へと溢れていく。
肩を震わせ、嗚咽を漏らす。
由比は思った、『この人で良かった』と、『この人を選んだのは間違いではなかった』と。
男は、静かに泣く由比を優しく見つめながら言った。
「由比殿、泣かないでください。泣きながら首を切られたら、手元が狂って痛い思いをしてしまいますから。あははは、由比殿に限って、それはないか」
涙が、次から次へと溢れていく。
「由比殿、痛くないように、ばっさりとお願いします。あなたを、信じていますから」
由比は、涙を必死でこらえながら、ただ頷いた。
男は、後ろ手に縛られ、罪人籠に乗せられて、川原へと向かった。
武士としての切腹ならば、目付けの屋敷で、畳みの上で死ねる。
だが、彼は罪人である。
川原の処刑場で、砂利に敷いた茣蓙の上で最期を迎えることになる。
由比は、罪人籠に付きそう。
こうやって、二人で連れ添って歩いたのは、初めて会った日以来だ。そして、今日限りに………………
道中、罪人を見ようと人だかりができている。
ほとんどが、彼に世話になった百姓や職人だ。
彼の同僚や剣術道場で一緒だった仲間たちは、関わり合いになるのが嫌なのか、誰ひとりとして来ていない。
彼の師匠、木場経長だけが、見送りに来ている。
眉間に皺を寄せ、厳しい顔をしている。
彼を見送る人の多くが、手をあわせたり、頭を下げたりして、最期の別れを惜しんでいる。
団子屋の娘に、お寺の和尚、子どもたちの姿も見える。
子どもたちは涙目で、いまにもこちらに駆けてきそうだが、それを団子屋の娘や和尚が必死で止めていた。
これだけの人に慕われて、自分の夫はなんと幸せ者だろうか。
薄情な武士たちよりも、貧しくとも、人としての温かみがある人たちに見送られ、なんと幸せであろうか。
残念なのは、自分がこの人を幸せにできなかったことだと、由比は彼に付き添いながら後悔した。
刑場に着くと、彼は後ろ手のまま茣蓙に座らされた。
岩沼領の作法では、罪人は縄をかけられたまま首を切られる。
それではあまりに不憫だと、由比は目付けに「武士の情けで縄を解いてほしい」と、お願いした。
目付けは、黙って頷いた。
「あと、着物が乱れておりますので、直してよろしいでしょうか?」
これも当然のごとく頷いた。
由比は、男の縄を解いた後、正面へとまわり、襟元を直すふりをして、耳元で囁いた。
「辞世の句を詠まれますか?」
罪人に、辞世の句を詠むことは許されていない。
最期に武士として死なせてあげたいと、由比は尋ねた。
「いえ、不調法ですから」
と、笑って断った。
「それでは、最後に言い残すことはございませんか?」
男は、由比を見つめ、笑顔で言った。
「あなたと一緒になれて、本当に幸せでした」
由比は必死で堪えながら、何とか呟いた。
「私も……」
誰にも見えぬように、彼の膝の上に置かれた手に、そっと手を添えた。
せせらぎに、陽光が煌めく。
女は、後ろへとまわり、一礼したのち、刀を振り上げる。
男は迷いもなく、凛とした姿で端座している。
美しい、これほど美しく、覚悟を持った罪人はいままで見たことがない。
男の首筋をしっかりと見据える。
泣いてはいけない、泣いてはいけない、泣けば手元が狂って、苦しめてしまう。
深く息を吸い込み、しばらく留めたあと………………
由比は、己の全身全霊をかけ、掛け声とともに刀を振り下ろした。
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(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
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