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第4話
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翌日は、馬鹿に寒い朝だった。
夜具から出るのを嫌がる仁左衛門を叩き起こし、背中を押すようにしてお役目に向かわせたあと道場に入ると、吐き出す息が僅かばかり白く濁っていた。
戸板を開け放つと身を刺すような冷たい風が吹き込み、流石の由比もしゃんと伸ばした背中を思わず丸めて身震いしてしまった。
それでも、丹田にふっと力を込め、朝稽古をはじめた。
もの心ついた頃から、ずっと竹刀を振ってきた。
父に連れられて、その背中を真似るように竹刀を振るった。
もはや癖になってるのだ。
一日でもやらないと、その日の調子が狂う。
その背中は、最近見ていないが………………何かと理由をつけては稽古をさぼる。
女には継がせぬと言っていたのに、めっきり道場に顔を出さなくなった。
まあ、それだけ父も年だということであろう。
他にも、幕府派だ、本家派だ、独立派だと、政を論じるほうが忙しいようだ。
それはそれで、侍の姿なのだろうが、それが"もののふ"のすべきことかと思う。
剣を捨てたわけではないだろうが、道場主として、剣術指南役として如何なものであろうか?
弟子たちの手前もある。
顔ぐらい見せてもいいのでは?
寂しい限りだ。
由比は、死ぬ間際まで道場に立とうと決めている。
由比にとって剣とは生であり、生とは剣なのである。
剣術のない人生など、死んだも同然と思うのであった。
手拭いで汗を拭っていると、客人がきたようだ、表が騒がしい。
こんな朝から何用であろうかと訝しがったが、父への客であったため、そのまま稽古を続けた。
しばらくして客が帰ると、
「由比、由比はおるか!」
父の大きな声が聞こえてきた。
また仁左衛門の悪口でも言いたいのかと無視を決め込むと、道場に入るなり、
「ここにおったのか。喜べ、端内の切腹が決まったぞ」
と、まるで団子を与えらえた子どものように、嬉しそうに言った。
人が腹を切るのに喜べはないだろうと、由比は思った。
それに、一度は由比の婿にどうかと名のあがった男である。
別段、情があるわけではないが、何とも複雑な気分である。
「そうですか」
ぶっきら棒に言って、稽古を続けた。
「何じゃ、ご家老を切った不忠者だぞ、もっと喜ばんか」
「ええ、そうですね」と、当たり障りのないように答えた、「それで、端内様がお腹を召されるのはいつですか? 用意をしなければなりませんので」
「三日後じゃ」
「それは、随分また急なことで」
「これでも遅いほうじゃ。今すぐにでも行って、あやつの首を切り飛ばしてやりたいわい。ええい、くそっ!」
何を思ったか、隆景は由比の竹刀を取り上げると、地べたに飛び降り、もろ肌を脱いで剣を振り始めた。
「血肉が沸くわい。早くやつの首を叩き切ってやりたい」
久々に見る父の素振りに、由比は圧倒されながらも、
「父上、ほどほどになされたほうが、急に体を動かしますと、体調を崩しますよ」
と、心配した。
「馬鹿を申せ! この程度で根をあげるような、生温い鍛え方はしておらんわ」
確かに、気迫が溢れている。
が、僅かであるが、打ち込みが弱くなっている。
戻しも若干遅い。
体の肉も少し弛んでいる。
由比の目には、隆景の老いが明らかであった。
「少し、悲しくなりました」
夕餉をとる仁左衛門に、由比は愚痴を零した。
「それは、誰でも年をとりますからね。それで、義父上は?」
「案の定、寝込んでおります。あれほど無理をなされずにと言ったのですが……」
素振りをしている最中に、急に寒くなったと言い出し、慌てて屋敷に入った。
それから一刻して、頭が痛い、熱っぽいと騒ぎ出し、先刻、大熱を出して夜具に籠った。
「大丈夫なのですか?」
「年寄りの冷や水です。最近、稽古をさぼっておいででしたから、良い薬になります」
「いやはや、耳が痛い。では、端内の切腹は延期で?」
「何故ですか?」
「義父上がそのご様子では、とても三日後の切腹に間に合いますまい」
「いえ、介錯は私がやります」
由比は、当然のごとく言った。
仁左衛門は、唖然としていた。
「こちらの都合で日にちを遅らせるわけにはいきませんから。父は、三日で治ると申しておりますが、病み上がりに首を切っては、端内様にご無礼でしょうし」
「そうですか、それでは……」、仁左衛門は自分の首筋を摩りながら、「由比殿がいよいよ首を切られるのですね」
「はい」
「何だか、随分楽しそうですね」
「楽しいなど。ただ、少々高揚はしていると思います。何せ、本番ははじめてですから」
「自信は?」
「もちろん、あります。端内様にご負担をかけぬよう、ばっさりとやってみせます」
仁左衛門は、まるで自分の首が切られるように顔を強張らせた。
「まあ、あとは、端内が取り乱さなければいいのですが」
「大丈夫でしょう。以前木場様から、端内様は品行方正なお方だとお聞き及びいたしました。きっと武士らしく、ご立派な最期を遂げられるでしょう。私はそのお手伝いができるのです、誇らしいことです」
「そうですか、それならば良いのですが………………」
夫は、まるで浮かぬ顔をして、味噌汁を啜った。
その朝、由比は沐浴で身を清め、白湯で乾いた口を湿らせてから、目付けの屋敷に向かった。
屋敷を出る際、床に伏せる父から、
『見事、奸族の首を切ってこい。本当ならば、このワシが首を切り落としていたものを。ええぇい! 忌々しい!』
と、咳込みながら言われた。
夫には、『いってまいります』とだけ、挨拶をした。
彼は黙って空を見上げた。
空は、一面厚い雲に覆われていた。
『最期の朝にしては、随分寂しいですね』
とだけ呟いた。
吹き付ける冷たい風に、由比のまとった萌黄色の袴と黒の羽織が靡き、はたはたと悲しい音を立てた。
目付け屋敷の一番日のあたらないひと部屋に、それは設けられた。
中央に、切腹のための裏返しにされた畳が敷かれ、その上に浅黄色の布が引かれる。
四方に白い布が張られ、切腹人の後ろに逆さにした無地の屏風が置かれた。
目の前には、立会人となる目付けの床机、更に前に簡易な鳥居が添えられる。
切腹人は、北側のいわゆる『涅槃門』から部屋に入り、立会人に一礼すると、北を向いて座す。
由比は、南側の『修行門』から部屋に入る。
男は、若竹のように背筋をぴんと伸ばし、まるで座禅でも組んでいるかのように、静かに鎮座している。
師匠の木場がいうように、確かにいい男であるし、己のすべてを受け入れているその潔さに、由比は”もののふ”としての覚悟を見た。
この男を婿にしたら、父も文句は言わなかったであろう、とも思った。
源太郎は、髷を普段より高く結い上げ、下に向けている。
白無地の小袖に、浅葱色の裃を付け、前に置かれた膳のものじっと見つめている。
膳は、盃を二組に、湯漬と漬物三切れが置いてある ―― この世の最期の食事である。
源太郎は、盃に注がれた酒を二杯、四度で飲み干す。
最期の膳には手をつけず、立会人である目付けをしっかりと睨み付けた。
目付けが黙って頷くと、膳は下げられ、代わりに三方にのせられた短刀が目の前に差し出された。
由比の出番である。
それまで部屋の隅で床机に座って様子を伺っていた由比は、やおら立ち上がると、源太郎に名乗ってから一礼した。
源太郎は、介錯人が由比であることに気が付いていないようだ。
というよりも、介錯にまるで興味がないといったように、端然と座していた。
昨今では、腹を切るのが怖く、刃物の替わりに扇子で腹を切る真似事をして、介錯に頼る侍がほとんどだ。
だが、源太郎には、介錯に頼らず、自ら腹を掻き切り、侍としての責任を果たそうという強い意志が見て取れた。
背後に立つと、介錯刀に清めの水をかけた。
はじめての首切りに、恐れはなかった。
父について何度も何度も見ているし、死体の首を切ったこともある。
自信がある。
ただ、少し緊張しているのか、少々熱っぽい。
それに、不思議な感じがする。
名前だけとはいえ、一度は由比の婿にと候補にあがった人の首を刎ねるのだから。
これも、運命なのだろうか?
別段、源太郎から何かしてもらったとか、彼に何の想いがあるとかないのだが、不思議な縁があったことは確かで、『端内様がご立派な最期を遂げられるよう、誠心誠意勤めよう』と、介錯刀を振り上げた。
立会人が、最期に何か言い残すことはないかと問うた。
源太郎は、”否”と、幾分怒気を含んだ声で答えた。
右から肌を脱ぎ、左手で短刀をとって、右手を添えて押し頂き、右手に持ち替え、左わき腹に押し当てた。
作法通りと、由比は感心した。
切腹は、意外に作法が多く、これを覚えられない侍が多い。
男子であれば、元服した折に一通り習うのだが、切腹なんて一生に一度あるかないかなので、忘れてしまう。
縁起が悪いという気持ちもあるが………………
ともかく、源太郎は多少の間違いはあるが、型通りの作法で腹を切ろうとしていた。
由比は、足元が滑らないように力を入れ、力まず、されど滑って刀が抜けることがないよう、しっかりと握り、その瞬間を待った。
口の中が、妙に乾く。
もういっぱい白湯を飲んでおくべきだった。
いかん、余計なことを考えては手元が狂ってしまう。
いまは集中して………………と、思うほど間があった。
源太郎の手が止まっている。
なかなか、腹に突きたてようとしない。
どうしたのかとよく見ると、僅かだが手が震えている。
さすがの端内様も緊張なされているのかと思っていると、手の震えが徐々に大きくなり、挙句短刀を投げ出して、その場にがばりと両手を付いた。
「腹は切りとうござらん!」、大声で叫んだ、「お願いでございまする、どうか、どうかお許しくだされ。死にとうはござらん。どうか、どうか。その代わりに、すべてのことをお話いたしまする」
男は、床に額を擦り付けて、土下座し、涙を流しながら許しをこうた。
立会人の目付けは、すぐさま切腹の中止を達した。
源太郎は、男たちに脇を支えられながら、切腹部屋から出て行った。
残された介錯人は、刀を振り上げたまま唖然と立ち尽くすしかなかった。
どうやって屋敷まで帰ったのか覚えていない。
気がついたときは、道場の真ん中に座り込み、夕焼けに染まる床を、見るともなしに見ていた。
「さすがに、はじめての介錯は疲れましたか?」
仁左衛門の声に、はっと我に返った。
彼は、いつもの間抜けそうな笑顔を由比に向けていた。
「どうかなされたのですか?」
「切腹は……、お取り止めになりました」
と、やっとのこと口を開いた。
「おや、どうして?」
「端内様が、最期の最期で……」
事の顛末を話すと、仁左衛門は然もありなんというような顔をした。
「あなたは、端内様がこうなると思っておいででしたか?」
「たぶん。いや、それは端内だからではなく、人なら誰だってそうでしょう。やはり、死ぬのは怖いものです」
「それはそうです。ですが、武士ですよ。侍ですよ。死ぬ覚悟を決めた武士が、最期の最期で、あんな無様なことをするなんて、私は信じられません」
由比は、怒ったように言った。
実際、怒っていた。
いままでも、見苦しい最期を遂げた侍を何人も見てきた。
そのときも怒り、軽蔑したが、今日はその中でももっとも最悪だ。
覚悟を決めた人間が、最期の最期で命乞いをするなど、全くもって見苦しい。
こんな人が、一度は自分の婿候補にあがったのかと思うと、随分腹立たしい。
しかも、この人ならと少なからずと思った自分にも、無性に苛立った。
「本当に情けない! 武士として、最低です!」
「まあまあ、誰だって死ぬのは怖いものですから」
「あなたもですか?」
「もちろんです。私だって、腹を切るのは嫌ですよ。痛いですからね」
「情けない!」
由比は、腹の底からそう言った。
「そうは言われても……、それで、端内はどうなりました?」
「知りませんし、知りたくもありません。今度介錯を依頼されても、私はお受けいたしません。あんな情けない男の首を切ったとなれば、末代までも恥じになります」
「そ、そうですか……」
「ああ~、もう~、あんな男の首を切ろうとしたなんて、本当に気持ちが悪い。私、水を浴びて穢れを落としてきます」
と、立ち上がった。
「何もそこまで……」
「そこまでじゃ、ありません。本当に気持ちが悪いんです」
仁左衛門は苦笑する。
「じゃあ、私が腹を切るときは介錯してくれないのですね、情けない男ですから」
道場を出ようとして、振り返り、即答した。
「いえ、ばっさりとやりますよ。たとえ、死にたくないとおしゃっても、体を押さえつけてでも首を切り落としてあげます。一応、それが妻としての最期の務めですから」
仁左衛門の頬は、可愛そうなぐらい引き攣っていた。
夜具から出るのを嫌がる仁左衛門を叩き起こし、背中を押すようにしてお役目に向かわせたあと道場に入ると、吐き出す息が僅かばかり白く濁っていた。
戸板を開け放つと身を刺すような冷たい風が吹き込み、流石の由比もしゃんと伸ばした背中を思わず丸めて身震いしてしまった。
それでも、丹田にふっと力を込め、朝稽古をはじめた。
もの心ついた頃から、ずっと竹刀を振ってきた。
父に連れられて、その背中を真似るように竹刀を振るった。
もはや癖になってるのだ。
一日でもやらないと、その日の調子が狂う。
その背中は、最近見ていないが………………何かと理由をつけては稽古をさぼる。
女には継がせぬと言っていたのに、めっきり道場に顔を出さなくなった。
まあ、それだけ父も年だということであろう。
他にも、幕府派だ、本家派だ、独立派だと、政を論じるほうが忙しいようだ。
それはそれで、侍の姿なのだろうが、それが"もののふ"のすべきことかと思う。
剣を捨てたわけではないだろうが、道場主として、剣術指南役として如何なものであろうか?
弟子たちの手前もある。
顔ぐらい見せてもいいのでは?
寂しい限りだ。
由比は、死ぬ間際まで道場に立とうと決めている。
由比にとって剣とは生であり、生とは剣なのである。
剣術のない人生など、死んだも同然と思うのであった。
手拭いで汗を拭っていると、客人がきたようだ、表が騒がしい。
こんな朝から何用であろうかと訝しがったが、父への客であったため、そのまま稽古を続けた。
しばらくして客が帰ると、
「由比、由比はおるか!」
父の大きな声が聞こえてきた。
また仁左衛門の悪口でも言いたいのかと無視を決め込むと、道場に入るなり、
「ここにおったのか。喜べ、端内の切腹が決まったぞ」
と、まるで団子を与えらえた子どものように、嬉しそうに言った。
人が腹を切るのに喜べはないだろうと、由比は思った。
それに、一度は由比の婿にどうかと名のあがった男である。
別段、情があるわけではないが、何とも複雑な気分である。
「そうですか」
ぶっきら棒に言って、稽古を続けた。
「何じゃ、ご家老を切った不忠者だぞ、もっと喜ばんか」
「ええ、そうですね」と、当たり障りのないように答えた、「それで、端内様がお腹を召されるのはいつですか? 用意をしなければなりませんので」
「三日後じゃ」
「それは、随分また急なことで」
「これでも遅いほうじゃ。今すぐにでも行って、あやつの首を切り飛ばしてやりたいわい。ええい、くそっ!」
何を思ったか、隆景は由比の竹刀を取り上げると、地べたに飛び降り、もろ肌を脱いで剣を振り始めた。
「血肉が沸くわい。早くやつの首を叩き切ってやりたい」
久々に見る父の素振りに、由比は圧倒されながらも、
「父上、ほどほどになされたほうが、急に体を動かしますと、体調を崩しますよ」
と、心配した。
「馬鹿を申せ! この程度で根をあげるような、生温い鍛え方はしておらんわ」
確かに、気迫が溢れている。
が、僅かであるが、打ち込みが弱くなっている。
戻しも若干遅い。
体の肉も少し弛んでいる。
由比の目には、隆景の老いが明らかであった。
「少し、悲しくなりました」
夕餉をとる仁左衛門に、由比は愚痴を零した。
「それは、誰でも年をとりますからね。それで、義父上は?」
「案の定、寝込んでおります。あれほど無理をなされずにと言ったのですが……」
素振りをしている最中に、急に寒くなったと言い出し、慌てて屋敷に入った。
それから一刻して、頭が痛い、熱っぽいと騒ぎ出し、先刻、大熱を出して夜具に籠った。
「大丈夫なのですか?」
「年寄りの冷や水です。最近、稽古をさぼっておいででしたから、良い薬になります」
「いやはや、耳が痛い。では、端内の切腹は延期で?」
「何故ですか?」
「義父上がそのご様子では、とても三日後の切腹に間に合いますまい」
「いえ、介錯は私がやります」
由比は、当然のごとく言った。
仁左衛門は、唖然としていた。
「こちらの都合で日にちを遅らせるわけにはいきませんから。父は、三日で治ると申しておりますが、病み上がりに首を切っては、端内様にご無礼でしょうし」
「そうですか、それでは……」、仁左衛門は自分の首筋を摩りながら、「由比殿がいよいよ首を切られるのですね」
「はい」
「何だか、随分楽しそうですね」
「楽しいなど。ただ、少々高揚はしていると思います。何せ、本番ははじめてですから」
「自信は?」
「もちろん、あります。端内様にご負担をかけぬよう、ばっさりとやってみせます」
仁左衛門は、まるで自分の首が切られるように顔を強張らせた。
「まあ、あとは、端内が取り乱さなければいいのですが」
「大丈夫でしょう。以前木場様から、端内様は品行方正なお方だとお聞き及びいたしました。きっと武士らしく、ご立派な最期を遂げられるでしょう。私はそのお手伝いができるのです、誇らしいことです」
「そうですか、それならば良いのですが………………」
夫は、まるで浮かぬ顔をして、味噌汁を啜った。
その朝、由比は沐浴で身を清め、白湯で乾いた口を湿らせてから、目付けの屋敷に向かった。
屋敷を出る際、床に伏せる父から、
『見事、奸族の首を切ってこい。本当ならば、このワシが首を切り落としていたものを。ええぇい! 忌々しい!』
と、咳込みながら言われた。
夫には、『いってまいります』とだけ、挨拶をした。
彼は黙って空を見上げた。
空は、一面厚い雲に覆われていた。
『最期の朝にしては、随分寂しいですね』
とだけ呟いた。
吹き付ける冷たい風に、由比のまとった萌黄色の袴と黒の羽織が靡き、はたはたと悲しい音を立てた。
目付け屋敷の一番日のあたらないひと部屋に、それは設けられた。
中央に、切腹のための裏返しにされた畳が敷かれ、その上に浅黄色の布が引かれる。
四方に白い布が張られ、切腹人の後ろに逆さにした無地の屏風が置かれた。
目の前には、立会人となる目付けの床机、更に前に簡易な鳥居が添えられる。
切腹人は、北側のいわゆる『涅槃門』から部屋に入り、立会人に一礼すると、北を向いて座す。
由比は、南側の『修行門』から部屋に入る。
男は、若竹のように背筋をぴんと伸ばし、まるで座禅でも組んでいるかのように、静かに鎮座している。
師匠の木場がいうように、確かにいい男であるし、己のすべてを受け入れているその潔さに、由比は”もののふ”としての覚悟を見た。
この男を婿にしたら、父も文句は言わなかったであろう、とも思った。
源太郎は、髷を普段より高く結い上げ、下に向けている。
白無地の小袖に、浅葱色の裃を付け、前に置かれた膳のものじっと見つめている。
膳は、盃を二組に、湯漬と漬物三切れが置いてある ―― この世の最期の食事である。
源太郎は、盃に注がれた酒を二杯、四度で飲み干す。
最期の膳には手をつけず、立会人である目付けをしっかりと睨み付けた。
目付けが黙って頷くと、膳は下げられ、代わりに三方にのせられた短刀が目の前に差し出された。
由比の出番である。
それまで部屋の隅で床机に座って様子を伺っていた由比は、やおら立ち上がると、源太郎に名乗ってから一礼した。
源太郎は、介錯人が由比であることに気が付いていないようだ。
というよりも、介錯にまるで興味がないといったように、端然と座していた。
昨今では、腹を切るのが怖く、刃物の替わりに扇子で腹を切る真似事をして、介錯に頼る侍がほとんどだ。
だが、源太郎には、介錯に頼らず、自ら腹を掻き切り、侍としての責任を果たそうという強い意志が見て取れた。
背後に立つと、介錯刀に清めの水をかけた。
はじめての首切りに、恐れはなかった。
父について何度も何度も見ているし、死体の首を切ったこともある。
自信がある。
ただ、少し緊張しているのか、少々熱っぽい。
それに、不思議な感じがする。
名前だけとはいえ、一度は由比の婿にと候補にあがった人の首を刎ねるのだから。
これも、運命なのだろうか?
別段、源太郎から何かしてもらったとか、彼に何の想いがあるとかないのだが、不思議な縁があったことは確かで、『端内様がご立派な最期を遂げられるよう、誠心誠意勤めよう』と、介錯刀を振り上げた。
立会人が、最期に何か言い残すことはないかと問うた。
源太郎は、”否”と、幾分怒気を含んだ声で答えた。
右から肌を脱ぎ、左手で短刀をとって、右手を添えて押し頂き、右手に持ち替え、左わき腹に押し当てた。
作法通りと、由比は感心した。
切腹は、意外に作法が多く、これを覚えられない侍が多い。
男子であれば、元服した折に一通り習うのだが、切腹なんて一生に一度あるかないかなので、忘れてしまう。
縁起が悪いという気持ちもあるが………………
ともかく、源太郎は多少の間違いはあるが、型通りの作法で腹を切ろうとしていた。
由比は、足元が滑らないように力を入れ、力まず、されど滑って刀が抜けることがないよう、しっかりと握り、その瞬間を待った。
口の中が、妙に乾く。
もういっぱい白湯を飲んでおくべきだった。
いかん、余計なことを考えては手元が狂ってしまう。
いまは集中して………………と、思うほど間があった。
源太郎の手が止まっている。
なかなか、腹に突きたてようとしない。
どうしたのかとよく見ると、僅かだが手が震えている。
さすがの端内様も緊張なされているのかと思っていると、手の震えが徐々に大きくなり、挙句短刀を投げ出して、その場にがばりと両手を付いた。
「腹は切りとうござらん!」、大声で叫んだ、「お願いでございまする、どうか、どうかお許しくだされ。死にとうはござらん。どうか、どうか。その代わりに、すべてのことをお話いたしまする」
男は、床に額を擦り付けて、土下座し、涙を流しながら許しをこうた。
立会人の目付けは、すぐさま切腹の中止を達した。
源太郎は、男たちに脇を支えられながら、切腹部屋から出て行った。
残された介錯人は、刀を振り上げたまま唖然と立ち尽くすしかなかった。
どうやって屋敷まで帰ったのか覚えていない。
気がついたときは、道場の真ん中に座り込み、夕焼けに染まる床を、見るともなしに見ていた。
「さすがに、はじめての介錯は疲れましたか?」
仁左衛門の声に、はっと我に返った。
彼は、いつもの間抜けそうな笑顔を由比に向けていた。
「どうかなされたのですか?」
「切腹は……、お取り止めになりました」
と、やっとのこと口を開いた。
「おや、どうして?」
「端内様が、最期の最期で……」
事の顛末を話すと、仁左衛門は然もありなんというような顔をした。
「あなたは、端内様がこうなると思っておいででしたか?」
「たぶん。いや、それは端内だからではなく、人なら誰だってそうでしょう。やはり、死ぬのは怖いものです」
「それはそうです。ですが、武士ですよ。侍ですよ。死ぬ覚悟を決めた武士が、最期の最期で、あんな無様なことをするなんて、私は信じられません」
由比は、怒ったように言った。
実際、怒っていた。
いままでも、見苦しい最期を遂げた侍を何人も見てきた。
そのときも怒り、軽蔑したが、今日はその中でももっとも最悪だ。
覚悟を決めた人間が、最期の最期で命乞いをするなど、全くもって見苦しい。
こんな人が、一度は自分の婿候補にあがったのかと思うと、随分腹立たしい。
しかも、この人ならと少なからずと思った自分にも、無性に苛立った。
「本当に情けない! 武士として、最低です!」
「まあまあ、誰だって死ぬのは怖いものですから」
「あなたもですか?」
「もちろんです。私だって、腹を切るのは嫌ですよ。痛いですからね」
「情けない!」
由比は、腹の底からそう言った。
「そうは言われても……、それで、端内はどうなりました?」
「知りませんし、知りたくもありません。今度介錯を依頼されても、私はお受けいたしません。あんな情けない男の首を切ったとなれば、末代までも恥じになります」
「そ、そうですか……」
「ああ~、もう~、あんな男の首を切ろうとしたなんて、本当に気持ちが悪い。私、水を浴びて穢れを落としてきます」
と、立ち上がった。
「何もそこまで……」
「そこまでじゃ、ありません。本当に気持ちが悪いんです」
仁左衛門は苦笑する。
「じゃあ、私が腹を切るときは介錯してくれないのですね、情けない男ですから」
道場を出ようとして、振り返り、即答した。
「いえ、ばっさりとやりますよ。たとえ、死にたくないとおしゃっても、体を押さえつけてでも首を切り落としてあげます。一応、それが妻としての最期の務めですから」
仁左衛門の頬は、可愛そうなぐらい引き攣っていた。
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この貞享四年という年は、あの教科書でも有名な五代将軍・徳川綱吉の「生類憐みの令」が発布された年でもあります。
令和の時代を生きている我々も「怪談」や「妖怪」は大好きですが、江戸時代には空前の「怪談ブーム」が起こりました。
この「奇異雑談集」は、それまで伝承的に伝えられていた怪談話を集めて編纂した内容で、仏教的価値観がベースの因果応報を説くお説教的な話から、まさに「怪談」というような怪奇的な話までその内容はバラエティに富んでいます。
その中でも、この「糺の森の里、胡瓜堂由来の事」というお話はストーリー的には、色欲に囚われた女性が大蛇となる、というシンプルなものですが、個人的には「未亡人が僧侶を誘惑する」という部分にそそられるものがあります・・・・あくまで個人的にはですが(原話はちっともエロくないです)
激しく余談になりますが、私のペンネームの「糺ノ杜 胡瓜堂」も、このお話から拝借しています。
三話構成の短編です。
魔斬
夢酔藤山
歴史・時代
深淵なる江戸の闇には、怨霊や妖魔の類が巣食い、昼と対なす穢土があった。
その魔を斬り払う闇の稼業、魔斬。
坊主や神主の手に負えぬ退魔を金銭で請け負う江戸の元締は関東長吏頭・浅草弾左衛門。忌むべき身分を統べる弾左衛門が最後に頼るのが、武家で唯一の魔斬人・山田浅右衛門である。昼は罪人の首を斬り、夜は怨霊を斬る因果の男。
幕末。
深い闇の奥に、今日もあやかしを斬る男がいる。
2023年オール讀物中間発表止まりの作品。その先の連作を含めて、いよいよ御開帳。
【18禁】「巨根と牝馬と人妻」 ~ 古典とエロのコラボ ~
糺ノ杜 胡瓜堂
歴史・時代
古典×エロ小説という無謀な試み。
「耳嚢」や「甲子夜話」、「兎園小説」等、江戸時代の随筆をご紹介している連載中のエッセイ「雲母虫漫筆」
実は江戸時代に書かれた随筆を読んでいると、面白いとは思いながら一般向けの方ではちょっと書けないような18禁ネタもけっこう存在します。
そんな面白い江戸時代の「エロ奇談」を小説風に翻案してみました。
下級旗本(町人という説も)から驚異の出世を遂げ、勘定奉行、南町奉行にまで昇り詰めた根岸鎮衛(1737~1815)が30年余にわたって書き記した随筆「耳嚢」
世の中の怪談・奇談から噂話等々、色んな話が掲載されている「耳嚢」にも、けっこう下ネタがあったりします。
その中で特に目を引くのが「巨根」モノ・・・根岸鎮衛さんの趣味なのか。
巨根の男性が妻となってくれる人を探して遊女屋を訪れ、自分を受け入れてくれる女性と巡り合い、晴れて夫婦となる・・・というストーリーは、ほぼ同内容のものが数話見られます。
鎮衛さんも30年も書き続けて、前に書いたネタを忘れてしまったのかもしれませんが・・・。
また、本作の原話「大陰の人因の事」などは、けっこう長い話で、「名奉行」の根岸鎮衛さんがノリノリで書いていたと思うと、ちょっと微笑ましい気がします。
起承転結もしっかりしていて読み応えがあり、まさに「奇談」という言葉がふさわしいお話だと思いました。
二部構成、計六千字程度の気軽に読める短編です。
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