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第2話
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つくつくぼうしが淡々と鳴くのを聞きながら苔むした階段をあがっていくと、中腹に小さな団子屋があった。
店先に、客は見当たらない。
由比は、額にしっとりと浮かんだ汗を手の甲でぬぐうと、そっと中を覗いた。
店の中にも、客はいなかった。
ただ由比と同じ年頃の少女が、框に腰掛け、暇そうに足をぶらつかせていた。
ふと由比と目があうと、
「いらっしゃいませ」
と、上擦った声でいい、頬を紅潮させ 慌てて駆け寄ってきた。
「どうぞ、こちらへ」
席を勧めるが、由比は申し訳なさそうに手を振って断った。
「すみません、こちらに槇田様がいらっしゃると聞いてきたのですが……」
仁左衛門は、結局道場にいなかった。
同僚に聞くと、『たぶんお寺の団子屋でしょ。あそこで、団子でも食ってるんじゃないですか? 稽古をさぼってなにやってるんだか』と、突っ慳貪に教えられた。
「槇田様ですか? はい、いらっしゃいましたが、お団子を十個ほど買われて、出て行かれました」
「十個!?」、その数に目を見開いた、「そんなにも?」
「はい、いつもそのくらい買われますが」
少女は、さも当然のごとく言う。
なんて食いしん坊な男だろう。
仕事や稽古もしないのに、飯は人並み以上食べる。
まさに『ぼんくら』だ。
由比は、ひときわ仁左衛門という男に興味が沸いた。
「それでは、槇田様はもうお屋敷に戻られたのですね」
「いえ、たぶん、あそこだと思いますよ」
少女は、階段の上を指差した。
数人の子どもたちが、はしゃぎながら駆け下りてくるのが見える。
少女の指先には、竜閣寺という山寺があった。
お寺からは、城下町が一望できる。
岩沼領は、三方を山に囲まれた狭い谷間である。
中央に大きな川が蛇のようにうねり、海へと注いでいる。
竜閣寺から臨む岩沼城は、その川のうねりにできた小高い丘の山頂にある、三層三重の小さな城であった。
三万石の大名格である。
が、岩沼藩ではなく、岩沼領である。
幕府からは藩として認められず、あくまでお隣の長山藩の支藩として扱われる。
従って、殿様も、藩主ではなく、領主と呼ばれた。
領主がこの地に移り住んだのは、二百年ほど前の天下を分けた大戦の後である。
西軍総大将の分家筋にあたった初代領主は、内大臣に内通し、東軍勝利の起因を作った。
大戦後は、総大将であった本家の助命、本領安堵に尽力した。
領主としては、西軍、東軍どちらが勝っても、本家・分家が守れればよいという思惑があったようだが、本家の家臣団からすれば、分家のそういった動きは裏切りであると見なされ、しかも本領安堵といっても、それまで百二十万石近くあった石高が、一気に三十万石に減らされたことへの恨みもあって、以降分家筋は本家から藩として認められず、幕府へは本家の支藩、いち領地であると届けられた。
そのため、長山藩へ年貢の一部を納めなければならなくなった。
これを不服とした分家筋は幕府へと訴え出たが、幕府は本家と分家の争いには口を出さない、もとは西軍であった分家筋が領地を与えられていることだけでも御の字と思えと、我関せずといった立場をとった。
その癖幕府は、岩沼領主を大名並みに扱い、参勤交代から普請事業まで、大名昇進を餌に何かと金のかかることを押し付けてきた。
このため岩沼領主は、三万石の大名の格式がありながらも、本家から土地を与えられている領地であるという、本家からも幕府からも金を毟り取られるだけという惨めな立場となった。
以降、岩沼領主にとって、藩への格上げが悲願となり、本家や幕府に藩として認めてもらうための陳情が活発におこわなれるようになる。
陳情といえば聞こえも良いが、要は賄賂である。
本家藩主、重役への賄賂、将軍・幕閣への賄賂、それに従事する者への心付けで、多額のお金が必要であった。
そのお金をどうやって工面するか?
為政者の考えることは、みな同じである。
お金が足りないなら、下々の者から毟り取ればいい。
表向きの石高は三万石とはいえ、もともと谷間のやせ細った土地である。
実際の石高は、二万石弱。
それまでも慎ましやかに暮らしていた農民たちであったが、賄賂費用捻出のための度重なる重税で、最低限の暮らしを強いられるようになる。
さらに悪いことに、家臣団が、幕府に陳情するのか、それとも本家の長山藩に陳情するのかで割れている。
必然、それぞれの派閥が、幕府と本家それぞれに陳情するものだから、お金が倍かかる。
農民は、ますます貧しくなり、農家の竈からは三日に一日、煙があがればいいといった有様であった。
いまの国家老、柿里内蔵助頼久は、幕府派の首領である。
対する本家派の筆頭は、領主の叔父にあたる吉野弾正少弼為定である。
彼らが、藩への格上げは領主様のためだ、領民のためだと、権力争いをしているのである。
ちなみに、由比の父隆景は幕府派である。
必然、道場には幕府派の武士が集まる。
一方の木場経長はそういった派閥争いを好まず、中立の構えだ。
が、一方の道場に幕府派が集えば、木場道場には本家派の弟子が多く集まった。
そこに最近、独立派ができた。
重役たちの派閥争いに嫌気がさし、農民たちの現状に心を痛めた、若く、志のある侍たちが、幕府、本家に頼ることなく、藩として独立しようという動き出したのである。
その中心にいたのが、仁左衛門の上役にあたる勘定方の本庄修理勝正である。
いま城下町は、幕府派と本家派、そして独立派の侍たちが三つ巴でにらみ合う、殺気立った雰囲気に満ちていた。
由比が男性を卑下するのは、こういったことも要因である。
道場でも、やれ国家老はどうだ、吉野様はこうだ、やはり幕府にとか、いや本家が許すまいとか、さんざん論じ合っているが、誰一人、真に領主や領民のことを想って言っている者はいない。
みな、自分の食い扶持、出世のために、派閥を作ろうとしているだけである。
そもそもの武士の本分を忘れている。
自分たちの食い扶持を支えてくれる農民たちの暮らしを守ることこそが、俸禄を受けている者の務めではないのか?
領民のためだといいながら、賄賂のために農民に更なる税を押し付けるのは、『本末転倒だ』と由比は思う。
それを考えれば、農民たちの現状を憂う独立派には、ある程度好感が持てた。
果たして、仁左衛門は独立派だろうか ―― などと思いめぐらしながら山門を潜り、境内を見渡すと、石垣の縁に腰かけた男を見つけた。
ほかに人は見当たらない。
きっとこの男が仁左衛門なのだろうと、由比は躊躇いもなく声をかけた。
すると男は、子どもが親にでも叱られたように、可哀想になるぐらい体を震わせ、ゆっくりと振り返った。
手には団子を持ち、今まさに食べようとしていたのか、口をあんぐりと開けたままの間抜けな面をしている。
由比は思った ―― まさに『ぼんくら』だ、と。
頭を下げると、男も口を開けたまま頭を下げた。
「あ、あの……、どちら様で?」
男は、間の抜けた顔で尋ねた。
名乗ると、「ああ、あの佐伯様の!」と、納得したように頷き、立ち上がって再び頭を下げた。
由比は、人に名乗るたびに、「ああ、あの……」と言われる。
きっと、男勝りだとか、行き遅れだとか、質の悪い噂が流れているのだろう。
そんなこと、慣れっこであった。
男は、豆腐のようにのっぺりとした顔であった。
体もひょろひょろで、着物が大きいのか、まるで兄の御下がりを着た子どもである。
道場にいる藩士たちのように、男ぶりをこれ見よがしに見せびらかせたり、偉くなってやろうという殺気立ったところがなく、桃源郷の仙人のように飄々としていた。
なるほど、こちらも噂どおりである、と思った。
「あの槇田仁左衛門様ですよね?」
こちらも、嫌みのように『あの』を強調して言ってやった。
「然様でございます」
仁左衛門は、ひどく当たり前のように答える。
自分がなんと噂されているか、知らないのか?
それとも、そんなこと気にしていないのか?
はたまた、そんなこと気にならないほどの『ぼんくら』なのか?
由比は、この仁左衛門という男にますます興味が沸いた。
「それで、拙者に何用で?」
「はい、それは……」
由比は言いかけて、仁左衛門の手元を見た。
まだしっかりと団子が握られている ―― 焼き味噌を塗った串団子だ。
香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「あっ、いや、これは……、ちょいと小腹が減りまして」
仁左衛門は、特段武士として体面を恥じることもなく、頭を掻きながらケラケラと笑った。
手元に一本だけということは、残りの九本はすでに腹の中であろう。
「九本も召し上がられたのですか?」
とっさに口を突いた。
思ったことがすぐに口に出る ―― それが由比の良きところでもあり、悪いところでもある。
「はい?」、一瞬間を置いて、笑顔で、「食べてしまいました」
由比は、呆れたように訊いた、「お好きなのですか、お団子?」
「はい、好きです」、悪ぶる様子もなく答える、「召し上がりますか? 美味いですよ」
「いえ、結構です」
仁左衛門は、「そうですか、では」と、口に運んだ。
武士にあるまじき振る舞いを、あまりに自然とするので、由比は口をモグモグと動かす仁左衛門を唖然と見つめた。
男は、ゴクリと飲み込むと、串を谷底へと放り投げ、手の甲で口元を拭うと言った。
「それで、拙者に何用でしょうか?」
由比は、単刀直入に答えた、「私の家に婿養子に来てください」
今度は、仁左衛門のほうが唖然とする番だった。
「つまり……、あなたの婿になれと?」
「そうです」
「何故、私があなたの婿に?」
由比は、仁左衛門を婿に選んだ理由を説明した。
もちろん、はっきりと『ぼんくら』であるからと言った。
仁左衛門は、「ぼんくらとは酷いですね」と苦笑した。
「ですが、なるほど、理にかなっている。つまり、あなたはお好きな剣術や首切り役ができると、私は遊んで暮らせると、そういうことですね?」
「その通りです、いかがでしょうか?」
「よろしい! お受けいたしましょう」
正直、断ると思っていた。
『ぼんくら』と噂されるぐらいだから、面倒だとか、自分には婿としての素質がないとか、色々文句をつけて、てっきり断ると思っていた。
だが、男は団子を食うよりも簡単に、婿になると言った。
これには、由比のほうが少々腹が立った。
団子よりも、自分の婿の座のほうが軽いなんて………………
「よろしいのですか、 私の婿になるのですよ?」
「もちろんですとも」
「私が、なんと言われているのか、ご承知なのですか?」
「それも知っております」
「首切りという、不浄の役も受けるのですよ? 妻がそんなことをして、本当によろしいのですか?」
「それはお役目ですから、誰かはしなければならないこと。それを佐伯殿がすすんでなされるというのですから、素晴らしいことだと思いますよ」
「素晴らしいことですか………………」
珍しい男である。
大抵の男は、首切り役など不浄だと言うのに。
由比の父でさえ、「外では首切りの役目のことは言うな」とのたまっている。
それを、素晴らしいことだなんて………………
「それに、私は何もしなくていいんでしょう? 日がな一日、遊んでいられるのでしょう? おまけに、岩沼小町と呼ばれる佐伯殿と一緒になれるなんて、夢みたいではありませんか」
面と向かって、『岩沼小町』などと言われると恥ずかしい。
頬が熱いのは、残暑のせいだけではない。
「私も、父から早く婿に行け、婿に行けとせっつかれていたものですから、次男坊の悲しきサガです。しかし、これでようやく煩い親父からおさらばすることができますよ」
仁左衛門は、ケタケタとよくとおる声で笑った。
由比も、なぜか可笑しく、噴き出してしまった。
町中の娘が振り返るような良い男ではない。
仕事も不真面目だし、性格も少々風変りだ。
が、どこか憎めない。
あれやこれやと指図する男よりも、よっぽど使いやすいと、由比は笑いながら思った。
「では、私の婿になるということでよろしいですね?」
由比が念をおすと、仁左衛門はもちろんと頷いた。
「あっ、ただし、ひとつ条件が」
「なんでございましょう?」
「三日に一回は、ここの店の団子を買うことを許してください」
そんなことかと、由比はまた笑った。
連れ立って石段を下りていくと、仁左衛門は「少し待ってください」と、例の団子屋に入った。
出てきたときには、包み紙を抱えている。
「もしかして、お団子ですか?」
「はい」
「本当にお好きですね」
流石に呆れてしまった。
店先に、客は見当たらない。
由比は、額にしっとりと浮かんだ汗を手の甲でぬぐうと、そっと中を覗いた。
店の中にも、客はいなかった。
ただ由比と同じ年頃の少女が、框に腰掛け、暇そうに足をぶらつかせていた。
ふと由比と目があうと、
「いらっしゃいませ」
と、上擦った声でいい、頬を紅潮させ 慌てて駆け寄ってきた。
「どうぞ、こちらへ」
席を勧めるが、由比は申し訳なさそうに手を振って断った。
「すみません、こちらに槇田様がいらっしゃると聞いてきたのですが……」
仁左衛門は、結局道場にいなかった。
同僚に聞くと、『たぶんお寺の団子屋でしょ。あそこで、団子でも食ってるんじゃないですか? 稽古をさぼってなにやってるんだか』と、突っ慳貪に教えられた。
「槇田様ですか? はい、いらっしゃいましたが、お団子を十個ほど買われて、出て行かれました」
「十個!?」、その数に目を見開いた、「そんなにも?」
「はい、いつもそのくらい買われますが」
少女は、さも当然のごとく言う。
なんて食いしん坊な男だろう。
仕事や稽古もしないのに、飯は人並み以上食べる。
まさに『ぼんくら』だ。
由比は、ひときわ仁左衛門という男に興味が沸いた。
「それでは、槇田様はもうお屋敷に戻られたのですね」
「いえ、たぶん、あそこだと思いますよ」
少女は、階段の上を指差した。
数人の子どもたちが、はしゃぎながら駆け下りてくるのが見える。
少女の指先には、竜閣寺という山寺があった。
お寺からは、城下町が一望できる。
岩沼領は、三方を山に囲まれた狭い谷間である。
中央に大きな川が蛇のようにうねり、海へと注いでいる。
竜閣寺から臨む岩沼城は、その川のうねりにできた小高い丘の山頂にある、三層三重の小さな城であった。
三万石の大名格である。
が、岩沼藩ではなく、岩沼領である。
幕府からは藩として認められず、あくまでお隣の長山藩の支藩として扱われる。
従って、殿様も、藩主ではなく、領主と呼ばれた。
領主がこの地に移り住んだのは、二百年ほど前の天下を分けた大戦の後である。
西軍総大将の分家筋にあたった初代領主は、内大臣に内通し、東軍勝利の起因を作った。
大戦後は、総大将であった本家の助命、本領安堵に尽力した。
領主としては、西軍、東軍どちらが勝っても、本家・分家が守れればよいという思惑があったようだが、本家の家臣団からすれば、分家のそういった動きは裏切りであると見なされ、しかも本領安堵といっても、それまで百二十万石近くあった石高が、一気に三十万石に減らされたことへの恨みもあって、以降分家筋は本家から藩として認められず、幕府へは本家の支藩、いち領地であると届けられた。
そのため、長山藩へ年貢の一部を納めなければならなくなった。
これを不服とした分家筋は幕府へと訴え出たが、幕府は本家と分家の争いには口を出さない、もとは西軍であった分家筋が領地を与えられていることだけでも御の字と思えと、我関せずといった立場をとった。
その癖幕府は、岩沼領主を大名並みに扱い、参勤交代から普請事業まで、大名昇進を餌に何かと金のかかることを押し付けてきた。
このため岩沼領主は、三万石の大名の格式がありながらも、本家から土地を与えられている領地であるという、本家からも幕府からも金を毟り取られるだけという惨めな立場となった。
以降、岩沼領主にとって、藩への格上げが悲願となり、本家や幕府に藩として認めてもらうための陳情が活発におこわなれるようになる。
陳情といえば聞こえも良いが、要は賄賂である。
本家藩主、重役への賄賂、将軍・幕閣への賄賂、それに従事する者への心付けで、多額のお金が必要であった。
そのお金をどうやって工面するか?
為政者の考えることは、みな同じである。
お金が足りないなら、下々の者から毟り取ればいい。
表向きの石高は三万石とはいえ、もともと谷間のやせ細った土地である。
実際の石高は、二万石弱。
それまでも慎ましやかに暮らしていた農民たちであったが、賄賂費用捻出のための度重なる重税で、最低限の暮らしを強いられるようになる。
さらに悪いことに、家臣団が、幕府に陳情するのか、それとも本家の長山藩に陳情するのかで割れている。
必然、それぞれの派閥が、幕府と本家それぞれに陳情するものだから、お金が倍かかる。
農民は、ますます貧しくなり、農家の竈からは三日に一日、煙があがればいいといった有様であった。
いまの国家老、柿里内蔵助頼久は、幕府派の首領である。
対する本家派の筆頭は、領主の叔父にあたる吉野弾正少弼為定である。
彼らが、藩への格上げは領主様のためだ、領民のためだと、権力争いをしているのである。
ちなみに、由比の父隆景は幕府派である。
必然、道場には幕府派の武士が集まる。
一方の木場経長はそういった派閥争いを好まず、中立の構えだ。
が、一方の道場に幕府派が集えば、木場道場には本家派の弟子が多く集まった。
そこに最近、独立派ができた。
重役たちの派閥争いに嫌気がさし、農民たちの現状に心を痛めた、若く、志のある侍たちが、幕府、本家に頼ることなく、藩として独立しようという動き出したのである。
その中心にいたのが、仁左衛門の上役にあたる勘定方の本庄修理勝正である。
いま城下町は、幕府派と本家派、そして独立派の侍たちが三つ巴でにらみ合う、殺気立った雰囲気に満ちていた。
由比が男性を卑下するのは、こういったことも要因である。
道場でも、やれ国家老はどうだ、吉野様はこうだ、やはり幕府にとか、いや本家が許すまいとか、さんざん論じ合っているが、誰一人、真に領主や領民のことを想って言っている者はいない。
みな、自分の食い扶持、出世のために、派閥を作ろうとしているだけである。
そもそもの武士の本分を忘れている。
自分たちの食い扶持を支えてくれる農民たちの暮らしを守ることこそが、俸禄を受けている者の務めではないのか?
領民のためだといいながら、賄賂のために農民に更なる税を押し付けるのは、『本末転倒だ』と由比は思う。
それを考えれば、農民たちの現状を憂う独立派には、ある程度好感が持てた。
果たして、仁左衛門は独立派だろうか ―― などと思いめぐらしながら山門を潜り、境内を見渡すと、石垣の縁に腰かけた男を見つけた。
ほかに人は見当たらない。
きっとこの男が仁左衛門なのだろうと、由比は躊躇いもなく声をかけた。
すると男は、子どもが親にでも叱られたように、可哀想になるぐらい体を震わせ、ゆっくりと振り返った。
手には団子を持ち、今まさに食べようとしていたのか、口をあんぐりと開けたままの間抜けな面をしている。
由比は思った ―― まさに『ぼんくら』だ、と。
頭を下げると、男も口を開けたまま頭を下げた。
「あ、あの……、どちら様で?」
男は、間の抜けた顔で尋ねた。
名乗ると、「ああ、あの佐伯様の!」と、納得したように頷き、立ち上がって再び頭を下げた。
由比は、人に名乗るたびに、「ああ、あの……」と言われる。
きっと、男勝りだとか、行き遅れだとか、質の悪い噂が流れているのだろう。
そんなこと、慣れっこであった。
男は、豆腐のようにのっぺりとした顔であった。
体もひょろひょろで、着物が大きいのか、まるで兄の御下がりを着た子どもである。
道場にいる藩士たちのように、男ぶりをこれ見よがしに見せびらかせたり、偉くなってやろうという殺気立ったところがなく、桃源郷の仙人のように飄々としていた。
なるほど、こちらも噂どおりである、と思った。
「あの槇田仁左衛門様ですよね?」
こちらも、嫌みのように『あの』を強調して言ってやった。
「然様でございます」
仁左衛門は、ひどく当たり前のように答える。
自分がなんと噂されているか、知らないのか?
それとも、そんなこと気にしていないのか?
はたまた、そんなこと気にならないほどの『ぼんくら』なのか?
由比は、この仁左衛門という男にますます興味が沸いた。
「それで、拙者に何用で?」
「はい、それは……」
由比は言いかけて、仁左衛門の手元を見た。
まだしっかりと団子が握られている ―― 焼き味噌を塗った串団子だ。
香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「あっ、いや、これは……、ちょいと小腹が減りまして」
仁左衛門は、特段武士として体面を恥じることもなく、頭を掻きながらケラケラと笑った。
手元に一本だけということは、残りの九本はすでに腹の中であろう。
「九本も召し上がられたのですか?」
とっさに口を突いた。
思ったことがすぐに口に出る ―― それが由比の良きところでもあり、悪いところでもある。
「はい?」、一瞬間を置いて、笑顔で、「食べてしまいました」
由比は、呆れたように訊いた、「お好きなのですか、お団子?」
「はい、好きです」、悪ぶる様子もなく答える、「召し上がりますか? 美味いですよ」
「いえ、結構です」
仁左衛門は、「そうですか、では」と、口に運んだ。
武士にあるまじき振る舞いを、あまりに自然とするので、由比は口をモグモグと動かす仁左衛門を唖然と見つめた。
男は、ゴクリと飲み込むと、串を谷底へと放り投げ、手の甲で口元を拭うと言った。
「それで、拙者に何用でしょうか?」
由比は、単刀直入に答えた、「私の家に婿養子に来てください」
今度は、仁左衛門のほうが唖然とする番だった。
「つまり……、あなたの婿になれと?」
「そうです」
「何故、私があなたの婿に?」
由比は、仁左衛門を婿に選んだ理由を説明した。
もちろん、はっきりと『ぼんくら』であるからと言った。
仁左衛門は、「ぼんくらとは酷いですね」と苦笑した。
「ですが、なるほど、理にかなっている。つまり、あなたはお好きな剣術や首切り役ができると、私は遊んで暮らせると、そういうことですね?」
「その通りです、いかがでしょうか?」
「よろしい! お受けいたしましょう」
正直、断ると思っていた。
『ぼんくら』と噂されるぐらいだから、面倒だとか、自分には婿としての素質がないとか、色々文句をつけて、てっきり断ると思っていた。
だが、男は団子を食うよりも簡単に、婿になると言った。
これには、由比のほうが少々腹が立った。
団子よりも、自分の婿の座のほうが軽いなんて………………
「よろしいのですか、 私の婿になるのですよ?」
「もちろんですとも」
「私が、なんと言われているのか、ご承知なのですか?」
「それも知っております」
「首切りという、不浄の役も受けるのですよ? 妻がそんなことをして、本当によろしいのですか?」
「それはお役目ですから、誰かはしなければならないこと。それを佐伯殿がすすんでなされるというのですから、素晴らしいことだと思いますよ」
「素晴らしいことですか………………」
珍しい男である。
大抵の男は、首切り役など不浄だと言うのに。
由比の父でさえ、「外では首切りの役目のことは言うな」とのたまっている。
それを、素晴らしいことだなんて………………
「それに、私は何もしなくていいんでしょう? 日がな一日、遊んでいられるのでしょう? おまけに、岩沼小町と呼ばれる佐伯殿と一緒になれるなんて、夢みたいではありませんか」
面と向かって、『岩沼小町』などと言われると恥ずかしい。
頬が熱いのは、残暑のせいだけではない。
「私も、父から早く婿に行け、婿に行けとせっつかれていたものですから、次男坊の悲しきサガです。しかし、これでようやく煩い親父からおさらばすることができますよ」
仁左衛門は、ケタケタとよくとおる声で笑った。
由比も、なぜか可笑しく、噴き出してしまった。
町中の娘が振り返るような良い男ではない。
仕事も不真面目だし、性格も少々風変りだ。
が、どこか憎めない。
あれやこれやと指図する男よりも、よっぽど使いやすいと、由比は笑いながら思った。
「では、私の婿になるということでよろしいですね?」
由比が念をおすと、仁左衛門はもちろんと頷いた。
「あっ、ただし、ひとつ条件が」
「なんでございましょう?」
「三日に一回は、ここの店の団子を買うことを許してください」
そんなことかと、由比はまた笑った。
連れ立って石段を下りていくと、仁左衛門は「少し待ってください」と、例の団子屋に入った。
出てきたときには、包み紙を抱えている。
「もしかして、お団子ですか?」
「はい」
「本当にお好きですね」
流石に呆れてしまった。
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