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最終話
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雨はすでに上がっていた。
道はぬかるんでいた。
足をとられ、何度も転んだ。
白い衣は、すぐに泥だらけになった。
しばらく下りると、松明を持った男たちに出くわした。
「女だ! 女がいるぞ! 蘇我家の侍女だ。それ捕まえろ!」
女王軍の兵士たちだと分かった。
藪の中に逃げた。
うっそうと覆い茂った草木を掻き分ける。
枝や葉が刃となって、宇音美の柔らかい頬や首筋、腕や足を傷つける。
血が滲む。
が、彼女は構わず逃げる。
兵士たちは、猟犬のように追ってくる。
襟元をつかまれ、引きずり倒される。
手元から包が転がり落ちる。
「逃げるな、女。俺たちが可愛がってやるぞ」
もう駄目だと思った。
刹那、ひとりの男が宇音美と兵士の間に切り込んだ。
女の襟元を掴む兵士の手を、ざっと切り落とす。
ぎゃっと悲鳴があがる。
悲鳴はひとつだけに止まらず、二つ、三つと重なり、最後は夜の静寂へと戻った。
男は剣をおさめながら近づいてきた。
「宇音美さま、大丈夫ですか? 私です、高向です、国押です」
男が国押だと分かると、安堵から一気に全身の力が抜けた。
目の前が、暗夜よりも鮮やかな闇に包まれた。
暗闇に、入鹿が立っていた。宇音美が縫った衣を纏っている。
『大郎さま……』
『宇音美、ただいま』
いままで見たなかで、一番の笑顔だった。
目を覚ますと、入鹿の姿はなかった。
粗末な小屋の中にいた。
傍らには見知らぬ女がいる。
国押もいる。
彼の話だと、飛鳥寺近くの良民の家だという。
丸一日寝ていたという。
その間、女が看病をしてくれた。
「一度は丘を下りましたが、みなさまのことが心配になり、戻ってきました。そうしたら、ちょうど宇音美さまが兵士たちに襲われておりましたので」
「丸一日も……、では、甘樫丘は? お義父さまは? お義母さまは?」
屋敷に火をつけ、蘇我本家は業火の中で果てた。
屋敷は丸一日燃えつづけたという。
国押は悲痛な顔で、「見事な最後であられました」と、咽喉の奥から絞り出した。
宇音美は、甘樫丘に手をあわせた。
「それで、国押、あの子は?」
「ここに」と、女が赤子を手渡した。
宇音美は涙を流し、赤子に頬ずりをして再会を喜んだ。
女は、宇音美の看病だけでなく、赤子の面倒まで見てくれたそうだ。
「ありがとう、何とお礼を言って良いか」
女に礼を言うと、
「お礼なんてとんでもない。林大臣さまのお子さまのためですもの」
と、微笑んだ。
「でも、大郎さまの子だとわかれば、みなさまにご迷惑が」
「ここは大丈夫です。この辺りの民は、蘇我氏の味方ですから。いえ、すべての民が、林大臣さまの味方です」
国押の後ろには、数人の男女が控えていた。
ひとりの初老の男が、つっと前に進み出た。
「わしら、林大臣さまのお陰でなに不自由ない生活を送らせてもらっております。女王さまや他の豪族方は、わしらの生活など見向きもなさらないが、林大臣さまは違う。あの方は、常にわしらの生活のことを考えてくださっておりました。まるで、自分の親のような存在です。ですから今回のことは、自分の父が死んだようで悲しいのです」
男が涙ながらに話すと、他の者たちも嗚咽した。
宇音美も、ぽろぽろと涙が出てきた。
間違ってはいなかった。
やはり、夫は民のことを第一に考えていた。
そして、民も夫のことを慕っていてくれた。
為政者として、これ以上に嬉しいことがあるだろうか?
「宇音美さま、これを。ようやく見つけてまいりました」
男が差し出したのは、別れ間際、義母が手渡した包である。
敵兵に襲われそうになったときになくしたのを、危険を承知で男たちが手分けして捜してくれたとのことだ。
宇音美は再々礼を述べた。
「ところで、何の包ですか?」
国押が尋ねるが、宇音美も中身は知らない。
よほど大事なものなのか、義母は黙って手渡した。
首を傾げながら包を解いた。
「ああっ、これは………………」
入鹿の首であった。
間違いない。
のっぺりした顔に、きりりと切れ長の目元、薄い唇、血色は失っているが、間違いなく愛する夫の首であった。
宇音美は、冷たい首をかき抱き、声をあげて泣いた。
夫が亡くなってから、夫のために流す初めての涙であった。
国押も、民も泣いた。
赤子だけは、何が面白いのか、くすぐったそうに笑っている。
× × ×
飛鳥寺の近くに、小さな石塔がある。
蘇我入鹿の首塚である。
大極殿で刎ねられた首が、ここまで飛んできたと云われている。
古代史上最大の悪党である入鹿の首塚には、いまも花が絶えない。
入鹿に妻子がいたのか?
いたならば、彼の妻子はどうなったのか?
書記は何も語らない。(了)
道はぬかるんでいた。
足をとられ、何度も転んだ。
白い衣は、すぐに泥だらけになった。
しばらく下りると、松明を持った男たちに出くわした。
「女だ! 女がいるぞ! 蘇我家の侍女だ。それ捕まえろ!」
女王軍の兵士たちだと分かった。
藪の中に逃げた。
うっそうと覆い茂った草木を掻き分ける。
枝や葉が刃となって、宇音美の柔らかい頬や首筋、腕や足を傷つける。
血が滲む。
が、彼女は構わず逃げる。
兵士たちは、猟犬のように追ってくる。
襟元をつかまれ、引きずり倒される。
手元から包が転がり落ちる。
「逃げるな、女。俺たちが可愛がってやるぞ」
もう駄目だと思った。
刹那、ひとりの男が宇音美と兵士の間に切り込んだ。
女の襟元を掴む兵士の手を、ざっと切り落とす。
ぎゃっと悲鳴があがる。
悲鳴はひとつだけに止まらず、二つ、三つと重なり、最後は夜の静寂へと戻った。
男は剣をおさめながら近づいてきた。
「宇音美さま、大丈夫ですか? 私です、高向です、国押です」
男が国押だと分かると、安堵から一気に全身の力が抜けた。
目の前が、暗夜よりも鮮やかな闇に包まれた。
暗闇に、入鹿が立っていた。宇音美が縫った衣を纏っている。
『大郎さま……』
『宇音美、ただいま』
いままで見たなかで、一番の笑顔だった。
目を覚ますと、入鹿の姿はなかった。
粗末な小屋の中にいた。
傍らには見知らぬ女がいる。
国押もいる。
彼の話だと、飛鳥寺近くの良民の家だという。
丸一日寝ていたという。
その間、女が看病をしてくれた。
「一度は丘を下りましたが、みなさまのことが心配になり、戻ってきました。そうしたら、ちょうど宇音美さまが兵士たちに襲われておりましたので」
「丸一日も……、では、甘樫丘は? お義父さまは? お義母さまは?」
屋敷に火をつけ、蘇我本家は業火の中で果てた。
屋敷は丸一日燃えつづけたという。
国押は悲痛な顔で、「見事な最後であられました」と、咽喉の奥から絞り出した。
宇音美は、甘樫丘に手をあわせた。
「それで、国押、あの子は?」
「ここに」と、女が赤子を手渡した。
宇音美は涙を流し、赤子に頬ずりをして再会を喜んだ。
女は、宇音美の看病だけでなく、赤子の面倒まで見てくれたそうだ。
「ありがとう、何とお礼を言って良いか」
女に礼を言うと、
「お礼なんてとんでもない。林大臣さまのお子さまのためですもの」
と、微笑んだ。
「でも、大郎さまの子だとわかれば、みなさまにご迷惑が」
「ここは大丈夫です。この辺りの民は、蘇我氏の味方ですから。いえ、すべての民が、林大臣さまの味方です」
国押の後ろには、数人の男女が控えていた。
ひとりの初老の男が、つっと前に進み出た。
「わしら、林大臣さまのお陰でなに不自由ない生活を送らせてもらっております。女王さまや他の豪族方は、わしらの生活など見向きもなさらないが、林大臣さまは違う。あの方は、常にわしらの生活のことを考えてくださっておりました。まるで、自分の親のような存在です。ですから今回のことは、自分の父が死んだようで悲しいのです」
男が涙ながらに話すと、他の者たちも嗚咽した。
宇音美も、ぽろぽろと涙が出てきた。
間違ってはいなかった。
やはり、夫は民のことを第一に考えていた。
そして、民も夫のことを慕っていてくれた。
為政者として、これ以上に嬉しいことがあるだろうか?
「宇音美さま、これを。ようやく見つけてまいりました」
男が差し出したのは、別れ間際、義母が手渡した包である。
敵兵に襲われそうになったときになくしたのを、危険を承知で男たちが手分けして捜してくれたとのことだ。
宇音美は再々礼を述べた。
「ところで、何の包ですか?」
国押が尋ねるが、宇音美も中身は知らない。
よほど大事なものなのか、義母は黙って手渡した。
首を傾げながら包を解いた。
「ああっ、これは………………」
入鹿の首であった。
間違いない。
のっぺりした顔に、きりりと切れ長の目元、薄い唇、血色は失っているが、間違いなく愛する夫の首であった。
宇音美は、冷たい首をかき抱き、声をあげて泣いた。
夫が亡くなってから、夫のために流す初めての涙であった。
国押も、民も泣いた。
赤子だけは、何が面白いのか、くすぐったそうに笑っている。
× × ×
飛鳥寺の近くに、小さな石塔がある。
蘇我入鹿の首塚である。
大極殿で刎ねられた首が、ここまで飛んできたと云われている。
古代史上最大の悪党である入鹿の首塚には、いまも花が絶えない。
入鹿に妻子がいたのか?
いたならば、彼の妻子はどうなったのか?
書記は何も語らない。(了)
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