20 / 21
第20話
しおりを挟む
宇音美は、ひとりで死装束に着替えた。
真っ白な衣と裳を着け、染み一つない帯を結び終えると、ふと夫の遺体を見ていないことに気がついた。
―― 黄泉の国で会えるのだけれども、やはり最後にひと目だけ………………
遺体が安置されている部屋の前まで来ると、同じく死装束を身に纏った義母が立ち塞がった。
「そなたは、ここには入れぬ」
「なぜでございますか? お義母さま」
「そなたは蘇我家の女ではない。蘇我家の女ではないそなたと、ともに自害するいわれはない」
宇音美は呆然となった。
最後の最後になっても、義母は宇音美を他人扱いする。
宇音美を入鹿の妻として認めてはくれない。
あまりにも非道だと、宇音美は泣きついた。
「黙れ! そなたのような不吉な女と死をともにすれば、黄泉の国まで行けぬは。さあ、出ていて! この屋敷から出て行け!」
「いえ、出て行きません。私も、蘇我の女として自害いたします。蘇我の誇りを持って」
「この馬鹿女が!」
義母は右手を振り上げ、宇音美の頬目掛けて振り下ろした。
鋭い音が響き渡り、遅れて痛みがやってきた。
「大郎の気持ちが分かってないのは、そなたのほうではないか!」
宇音美は、義母の言っている意味が分からなかった。
「あの子を残して死ぬことが、そなたの母としての役目ですか!」
赤子に必要なのは、家柄でも、名誉でも、冨でもない、親の温もりだ、どんなに苦しくても、親さえいれば生きていけるのだ、大郎は、そなたが子を残して死ぬのを望んではいない、そなたに生きて欲しいと望んでいる、そして、わが子を立派に育てて欲しい………………と、義母の双眸からぽたぽたと涙が零れ落ちた。
「自分の人生観や価値観、誇りのために、子どもを犠牲にするのは最大の悪です。人は、子を産み、慈しみ、育てるために生きているのです。人生において、それ以上に掛替えのない仕事がありましょうや。さあ行きなさい。赤子のあとを追いなさい。そして、あの子の傍にいてやるのです。立派に育て上げるのです。それが、蘇我の女としての責務です」
義母が認めてくれた。
蘇我の女として認めてくれた。
初めて、義母と心が通じ合ったような気がした。
感動と欣幸に、宇音美はただ立ち尽くした。
「何をしているのです。さあ、お行きなさい。赤子が待っていますよ。そなたには聞こえないのですか、赤子の泣く声が。さあ、さあ」
「でも、お母さまは?」
「私は、息子の傍にいてやります。それが、母親としての責務です」
義母は、赤子ほどもある包を手渡した。
宇音美が入鹿のためにと縫っていた衣で包んである。
中身は何かと問うと、義母は黙って押し付けた。
「これを持って、早く赤子のところへ」
宇音美は裳を翻した。
裾がふわりと花びらのように舞った。
口元を抑え、嗚咽を堪えながら屋敷を出た。
後ろ髪を引かれるような思いで、丘を駆け下りた。
真っ白な衣と裳を着け、染み一つない帯を結び終えると、ふと夫の遺体を見ていないことに気がついた。
―― 黄泉の国で会えるのだけれども、やはり最後にひと目だけ………………
遺体が安置されている部屋の前まで来ると、同じく死装束を身に纏った義母が立ち塞がった。
「そなたは、ここには入れぬ」
「なぜでございますか? お義母さま」
「そなたは蘇我家の女ではない。蘇我家の女ではないそなたと、ともに自害するいわれはない」
宇音美は呆然となった。
最後の最後になっても、義母は宇音美を他人扱いする。
宇音美を入鹿の妻として認めてはくれない。
あまりにも非道だと、宇音美は泣きついた。
「黙れ! そなたのような不吉な女と死をともにすれば、黄泉の国まで行けぬは。さあ、出ていて! この屋敷から出て行け!」
「いえ、出て行きません。私も、蘇我の女として自害いたします。蘇我の誇りを持って」
「この馬鹿女が!」
義母は右手を振り上げ、宇音美の頬目掛けて振り下ろした。
鋭い音が響き渡り、遅れて痛みがやってきた。
「大郎の気持ちが分かってないのは、そなたのほうではないか!」
宇音美は、義母の言っている意味が分からなかった。
「あの子を残して死ぬことが、そなたの母としての役目ですか!」
赤子に必要なのは、家柄でも、名誉でも、冨でもない、親の温もりだ、どんなに苦しくても、親さえいれば生きていけるのだ、大郎は、そなたが子を残して死ぬのを望んではいない、そなたに生きて欲しいと望んでいる、そして、わが子を立派に育てて欲しい………………と、義母の双眸からぽたぽたと涙が零れ落ちた。
「自分の人生観や価値観、誇りのために、子どもを犠牲にするのは最大の悪です。人は、子を産み、慈しみ、育てるために生きているのです。人生において、それ以上に掛替えのない仕事がありましょうや。さあ行きなさい。赤子のあとを追いなさい。そして、あの子の傍にいてやるのです。立派に育て上げるのです。それが、蘇我の女としての責務です」
義母が認めてくれた。
蘇我の女として認めてくれた。
初めて、義母と心が通じ合ったような気がした。
感動と欣幸に、宇音美はただ立ち尽くした。
「何をしているのです。さあ、お行きなさい。赤子が待っていますよ。そなたには聞こえないのですか、赤子の泣く声が。さあ、さあ」
「でも、お母さまは?」
「私は、息子の傍にいてやります。それが、母親としての責務です」
義母は、赤子ほどもある包を手渡した。
宇音美が入鹿のためにと縫っていた衣で包んである。
中身は何かと問うと、義母は黙って押し付けた。
「これを持って、早く赤子のところへ」
宇音美は裳を翻した。
裾がふわりと花びらのように舞った。
口元を抑え、嗚咽を堪えながら屋敷を出た。
後ろ髪を引かれるような思いで、丘を駆け下りた。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

法隆寺燃ゆ
hiro75
歴史・時代
奴婢として、一生平凡に暮らしていくのだと思っていた………………上宮王家の奴婢として生まれた弟成だったが、時代がそれを許さなかった。上宮王家の滅亡、乙巳の変、白村江の戦………………推古天皇、山背大兄皇子、蘇我入鹿、中臣鎌足、中大兄皇子、大海人皇子、皇極天皇、孝徳天皇、有間皇子………………為政者たちの権力争いに巻き込まれていくのだが………………
正史の裏に隠れた奴婢たちの悲哀、そして権力者たちの愛憎劇、飛鳥を舞台にした大河小説がいまはじまる!!
江戸の櫛
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。

鬼の桃姫
井田いづ
歴史・時代
これはむかしむかしの物語。鬼の頭領である桃姫は日々"狩り"をしながら平和に島を治めていた。ある日のこと、鬼退治を掲げた人間が島に攻め入って来たとの知らせが入る。桃姫の夢と城が崩れ始めた────。
+++++++++++++++++
当作品は『桃太郎』『吉備津彦命の温羅退治』をベースに創作しています。
四本目の矢
南雲遊火
歴史・時代
戦国大名、毛利元就。
中国地方を統一し、後に「謀神」とさえ言われた彼は、
彼の時代としては珍しく、大変な愛妻家としての一面を持ち、
また、彼同様歴史に名を遺す、優秀な三人の息子たちがいた。
しかし。
これは、素直になれないお年頃の「四人目の息子たち」の物語。
◆◇◆
※:2020/06/12 一部キャラクターの呼び方、名乗り方を変更しました
WEAK SELF.
若松だんご
歴史・時代
かつて、一人の年若い皇子がいた。
時の帝の第三子。
容姿に優れ、文武に秀でた才ある人物。
自由闊達で、何事にも縛られない性格。
誰からも慕われ、将来を嘱望されていた。
皇子の母方の祖父は天智天皇。皇子の父は天武天皇。
皇子の名を、「大津」という。
かつて祖父が造った都、淡海大津宮。祖父は孫皇子の資質に期待し、宮号を名として授けた。
壬申の乱後、帝位に就いた父親からは、その能力故に政の扶けとなることを命じられた。
父の皇后で、実の叔母からは、その人望を異母兄の皇位継承を阻む障害として疎んじられた。
皇子は願う。自分と周りの者の平穏を。
争いたくない。普通に暮らしたいだけなんだ。幸せになりたいだけなんだ。
幼い頃に母を亡くし、父と疎遠なまま育った皇子。長じてからは、姉とも引き離され、冷たい父の元で暮らした。
愛してほしかった。愛されたかった。愛したかった。
愛を求めて、周囲から期待される「皇子」を演じた青年。
だが、彼に流れる血は、彼を望まぬ未来へと押しやっていく。
ーー父についていくとはどういうことか、覚えておけ。
壬申の乱で散った叔父、大友皇子の残した言葉。その言葉が二十歳になった大津に重く、深く突き刺さる。
遠い昔、強く弱く生きた一人の青年の物語。
―――――――
weak self=弱い自分。
華日録〜攫われ姫君の城内観察記〜
神崎みゆ
歴史・時代
時は江戸時代、
五代将軍徳川綱吉の治世。
江戸城のお膝元で、
南町奉行所の下っ端同心を父に持つ、
お転婆な町娘のおはな。
ある日、いきなり怪しげな
男たちに攫われてしまい、
次に目にしたのは、絢爛豪華な
江戸城大奥で…!?
なんと、将軍の愛娘…鶴姫の
身代わりをすることに…!
仰天するおはなだったが、
せっかく江戸城にいるんだし…と
城内を観察することに!
鶴姫として暮らす江戸城内で
おはなの目に映ったものとは…?
ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て
せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。
カクヨムから、一部転載

ようこそ安蜜屋へ
凜
歴史・時代
妻に先立たれた半次郎は、ひょんなことから勘助と出会う。勘助は捨て子で、半次郎の家で暮らすようになった。
勘助は目があまり見えず、それが原因で捨てられたらしい。一方半次郎も栄養失調から舌の調子が悪く、飲食を生業としているのに廃業の危機に陥っていた。勘助が半次郎の舌に、半次郎が勘助の目になることで二人で一人の共同生活が始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる