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第13話
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日はとっぷりと暮れ、屋敷中に明かりが灯された。
宇音美は放心したように座り込み、庇に打ち付ける弱々しい雨音を聞くともなしに聞いていた。
―― お義母さまや侍女たちの言うとおり、私は不幸を運んでくる女かもしれない。
と思った。
―― 私と一緒になって、大郎さまは不幸続きだわ。私、それに気がついていながら、大郎さまの優しさに甘えていたのね。
宇音美は、自分が呆れるほど心配性だと分かっている。
義母には、『いつも眉間に皺を寄せて、不安な顔をしている。あの顔を見ているだけで不幸になる』と、陰口を叩かれている。
できるだけ良いほうに考えようとするのだが、ついつい悪いことばかり頭に思い浮かぶ。
一度思い浮かぶと、小指にできた逆剥けのように気になってしまう。
特にここ一年は、眉間に皺を寄せることばかり起きた。
一年前、義父の大津の倉に休留(ふくろう)が巣を作り、子を産んだ。
みな気味悪がった。
宇音美も、巫覡を呼んでお払いをしてもらったほうがよいと夫に話した。
入鹿は、迷信だと言い切った。
彼は、そういった類を信じない人だった。
全ては作り話だ。
人間の不安や恐怖が迷信を作り出すのだ。
確かに、日輪さえ活動を止める真夜中に、茅鴟が我が物顔で飛び回っているのを見れば、誰でも気味悪く思うだろう。
だが、それは人が怖いと思っているだけで、茅鴟(ふくろう)にはいい迷惑だと、夫はしごくまじめな顔で言った。
入鹿は、すやすやと寝入るわが子の顔を覗きこみながら続けた。
可愛らしい笑顔だ。
この笑顔を見ていると、仕事の悩みや疲れが吹っ飛ぶと、入鹿は急に父親の顔になった。
茅鴟も同じだ、ただ子を産み、育てたかっただけだ、母茅鴟に何の罪があろうか、子茅鴟に何の咎があるだろうか、と語った。
母や子に、何の罪はない。
宇根美は、同じ母親として、休留親子を忌み嫌った自分を恥じた。
何事も悪いほうへと考える自分に、ほとほと嫌気がした。
剣池に、一本の茎に二つの蓮の花が咲いた。
義父は瑞兆だと喜び、飛鳥寺に丈六仏を献上したが、宇音美は眉を顰めた。
幾ら蓮がおめでたい花だからといっても、一つの胴体に二つの頭があるのと同じだ。
何だか気味が悪い。
義父が、橋の上から突き落とされるという事件も起きた。
蝦夷が橋を渡ろうとしたとき、巫覡たちが何事かを叫びながら駆け寄ってきた。
その数が余りにも多かったので、従者たちでは防ぎきれず、勢い余って橋から転落した。
低い橋だったので怪我はなかったが、ずぶ濡れになり、風邪をひいてしまった。
巫覡たちを捕まえ、問い質した。錯乱状態なのか、訳の分からぬことを喚くだけで、一向に埒があかなかった。
神仏を信じる人々は、『移風の前兆だ』と噂した。
去年の秋ごろ、東国の不尽河一帯で、常世神という奇妙な虫を信仰するのが流行りだした。
大生部多という男が、家財を全て捨て、常世神だけを祈れば豊かになれると触れ回った。
人々は田仕事を放り出し、大生部多に財産を寄付し、虫を拝んだ。
瞬く間に、飛鳥地方にまで広がった。
民が働かなくなったせいで、群臣たちの収益が減った。
彼らは、ただちに大生部多を討つべきだと主張した。
大いに激昂したのは、入鹿であった。
『人々ノ不安ヤ恐怖ヲ煽リ、己ガ富ヲ得ヨウトハ、外道ナリ』と、すぐに秦造河勝を遣わし、大生部多を掃討した。
常世神は、ただの養蚕だった。
今年の春にも、不吉なことが起こった。
飛鳥のいたるところに猿が出没し、騒ぎ立てた。
新緑鮮やかな山々から涼やかな川辺、煌びやかな宮殿から荘厳な寺院まで。
盆地特有の地形のせいで、猿の叫び声が木霊し、蝉のように二重にも三重にも響き渡った。
昼も夜も絶え間なく叫び続けるため、赤子が怖がって泣き止まない。
宇音美も怖くてひとりでは寝られなかった。
ひとり寝の夜は、頭まで夜具を被り、両手で耳を塞いだ。
それでも、頭の中にまで響き渡ってきた。
こんな夜は、大郎さまがお傍にいてくださればいいのにと、宇音美は幾夜も枕を濡らした。
夫が来た夜は、玉葛のようにしがみ付いた。
夫は、きっと雄と雌が愛し合っているのだ。
だから、私たちも愛し合えば、猿たちも遠慮して静かになるはずだと、宇音美の唇をそっと塞いだ。
妻の頭をぎゅっと抱き締めた。
不思議と、猿の叫び声も暴れまわる音も聞こえなくなった。
ことが終わって、はたと気がつくと、屋敷は静まり返っていた。
宇音美のあのときの声が大きいからと、夫が珍しく冗談を言った。
―― もう遠い昔のよう。二度と、あの胸に抱かれることはないのね。
宇音美は放心したように座り込み、庇に打ち付ける弱々しい雨音を聞くともなしに聞いていた。
―― お義母さまや侍女たちの言うとおり、私は不幸を運んでくる女かもしれない。
と思った。
―― 私と一緒になって、大郎さまは不幸続きだわ。私、それに気がついていながら、大郎さまの優しさに甘えていたのね。
宇音美は、自分が呆れるほど心配性だと分かっている。
義母には、『いつも眉間に皺を寄せて、不安な顔をしている。あの顔を見ているだけで不幸になる』と、陰口を叩かれている。
できるだけ良いほうに考えようとするのだが、ついつい悪いことばかり頭に思い浮かぶ。
一度思い浮かぶと、小指にできた逆剥けのように気になってしまう。
特にここ一年は、眉間に皺を寄せることばかり起きた。
一年前、義父の大津の倉に休留(ふくろう)が巣を作り、子を産んだ。
みな気味悪がった。
宇音美も、巫覡を呼んでお払いをしてもらったほうがよいと夫に話した。
入鹿は、迷信だと言い切った。
彼は、そういった類を信じない人だった。
全ては作り話だ。
人間の不安や恐怖が迷信を作り出すのだ。
確かに、日輪さえ活動を止める真夜中に、茅鴟が我が物顔で飛び回っているのを見れば、誰でも気味悪く思うだろう。
だが、それは人が怖いと思っているだけで、茅鴟(ふくろう)にはいい迷惑だと、夫はしごくまじめな顔で言った。
入鹿は、すやすやと寝入るわが子の顔を覗きこみながら続けた。
可愛らしい笑顔だ。
この笑顔を見ていると、仕事の悩みや疲れが吹っ飛ぶと、入鹿は急に父親の顔になった。
茅鴟も同じだ、ただ子を産み、育てたかっただけだ、母茅鴟に何の罪があろうか、子茅鴟に何の咎があるだろうか、と語った。
母や子に、何の罪はない。
宇根美は、同じ母親として、休留親子を忌み嫌った自分を恥じた。
何事も悪いほうへと考える自分に、ほとほと嫌気がした。
剣池に、一本の茎に二つの蓮の花が咲いた。
義父は瑞兆だと喜び、飛鳥寺に丈六仏を献上したが、宇音美は眉を顰めた。
幾ら蓮がおめでたい花だからといっても、一つの胴体に二つの頭があるのと同じだ。
何だか気味が悪い。
義父が、橋の上から突き落とされるという事件も起きた。
蝦夷が橋を渡ろうとしたとき、巫覡たちが何事かを叫びながら駆け寄ってきた。
その数が余りにも多かったので、従者たちでは防ぎきれず、勢い余って橋から転落した。
低い橋だったので怪我はなかったが、ずぶ濡れになり、風邪をひいてしまった。
巫覡たちを捕まえ、問い質した。錯乱状態なのか、訳の分からぬことを喚くだけで、一向に埒があかなかった。
神仏を信じる人々は、『移風の前兆だ』と噂した。
去年の秋ごろ、東国の不尽河一帯で、常世神という奇妙な虫を信仰するのが流行りだした。
大生部多という男が、家財を全て捨て、常世神だけを祈れば豊かになれると触れ回った。
人々は田仕事を放り出し、大生部多に財産を寄付し、虫を拝んだ。
瞬く間に、飛鳥地方にまで広がった。
民が働かなくなったせいで、群臣たちの収益が減った。
彼らは、ただちに大生部多を討つべきだと主張した。
大いに激昂したのは、入鹿であった。
『人々ノ不安ヤ恐怖ヲ煽リ、己ガ富ヲ得ヨウトハ、外道ナリ』と、すぐに秦造河勝を遣わし、大生部多を掃討した。
常世神は、ただの養蚕だった。
今年の春にも、不吉なことが起こった。
飛鳥のいたるところに猿が出没し、騒ぎ立てた。
新緑鮮やかな山々から涼やかな川辺、煌びやかな宮殿から荘厳な寺院まで。
盆地特有の地形のせいで、猿の叫び声が木霊し、蝉のように二重にも三重にも響き渡った。
昼も夜も絶え間なく叫び続けるため、赤子が怖がって泣き止まない。
宇音美も怖くてひとりでは寝られなかった。
ひとり寝の夜は、頭まで夜具を被り、両手で耳を塞いだ。
それでも、頭の中にまで響き渡ってきた。
こんな夜は、大郎さまがお傍にいてくださればいいのにと、宇音美は幾夜も枕を濡らした。
夫が来た夜は、玉葛のようにしがみ付いた。
夫は、きっと雄と雌が愛し合っているのだ。
だから、私たちも愛し合えば、猿たちも遠慮して静かになるはずだと、宇音美の唇をそっと塞いだ。
妻の頭をぎゅっと抱き締めた。
不思議と、猿の叫び声も暴れまわる音も聞こえなくなった。
ことが終わって、はたと気がつくと、屋敷は静まり返っていた。
宇音美のあのときの声が大きいからと、夫が珍しく冗談を言った。
―― もう遠い昔のよう。二度と、あの胸に抱かれることはないのね。
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