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第6話
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谷の屋敷の従者たちは、物の怪のような宇音美の姿を見ると、驚き、恐れ、困惑した。
谷の屋敷に、入鹿はいなかった。
どこに言ったのかと問い詰めると、従者の一人が言いにくそうに口を開いた。
「上の屋敷にごさいます」
「なぜ、お義父さまのお屋敷に?」
「奥方さまが……」
入鹿の母が、遺体を上の屋敷に移動させたらしい。
「お義母さまが、何故そのようなことを?」
「多分、お傍にいらっしゃりたいからだと思いますが」
宇音美は、谷の屋敷を飛び出し、上の屋敷へと走った。
雨によって山道はぬかるんでいる。
跳ねあがった泥で、背中まで真っ黒になった。
ところどころ岩が顔を覗かせている。
濡れた岩に足を滑らせ、顔から泥に突っ込んだ。
それでも、夫に会いたくて山道を駆け上がった。
これが義母のいつもの意地悪で、夫は無事であると思いながら。
上の屋敷には、多くの兵士たちが屯していた。
宇音美が現れると、さすがの兵士たちも、その姿に驚嘆し、気味悪がった。
「大郎さま、大郎さまはどこです?」
泣き叫ぶ赤子を背負い、着物は肩まではだけ、腰紐を引きずり、乱れた髪をそのままに、入鹿の姿を求めながらさ迷い歩く姿は、黄泉の国より這い出した伊邪那美命を想わせた。
兵士たちが騒いでいると、屋敷からひとりの男が剣を振り回しながら出てきた。
「何事か? 敵襲か? 女王軍が攻めてきたか?」
「物部大臣さま、怪しい女が」
聞き覚えのある声に振り返ると、入鹿の弟であった。
入鹿兄弟の祖母 ―― 蘇我馬子の妻は物部守屋大連の妹である。
物部の財産を受け継いだ弟は、物部大臣と呼ばれていた。
義弟の顔を見ると、急に力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
「う、宇音美さまですか? 何というお姿で……」
入鹿の弟は、宇音美の姿を見て絶句した。
「もしや、兄上を心配なされて、お一人で来られたのですか? この雨の中を? おお、何と麗しき愛であろうか」
男は、大袈裟と思えるほど感動した口調で叫んだ。
「蘇我氏が存亡の危機というときに、馳せ参じることもない一族がいるというのに。中には同族を裏切り、女王側についた者までいるというのに。みなのもの、見たか! 兄上に対する宇音美大郎女さまの愛を。蘇我一族に対する想いを」
物部大臣は剣を突上げ、兵士たちを鼓舞した。
「女である宇音美さまが、かくも蘇我一族を想っていらっしゃる。男である我らも、宇音美さまに恥じぬよう、力の限り戦おうぞ!」
兵士たちから鬨の声があがった。
男たちの勇ましい声はうねりとなり、宇音美の体を酷く圧迫した。
ただならぬ雰囲気に、息苦しさを感じた。
宇音美は、溺れかかった人間が必死でもがくように、手足をばたつかせながら義弟に駆け寄った。
泥だらけの手で義弟の裾にしがみ付いた。
「中郎さま、大郎さまはどこにいるのです? 無事なのですか? いえ、きっと無事なのですよね」
「宇音美さま、兄上は……」
物部大臣は、眉間に皺を寄せた。
奥歯をぎりぎりといわせ、怒りで全身を震わせた。
谷の屋敷に、入鹿はいなかった。
どこに言ったのかと問い詰めると、従者の一人が言いにくそうに口を開いた。
「上の屋敷にごさいます」
「なぜ、お義父さまのお屋敷に?」
「奥方さまが……」
入鹿の母が、遺体を上の屋敷に移動させたらしい。
「お義母さまが、何故そのようなことを?」
「多分、お傍にいらっしゃりたいからだと思いますが」
宇音美は、谷の屋敷を飛び出し、上の屋敷へと走った。
雨によって山道はぬかるんでいる。
跳ねあがった泥で、背中まで真っ黒になった。
ところどころ岩が顔を覗かせている。
濡れた岩に足を滑らせ、顔から泥に突っ込んだ。
それでも、夫に会いたくて山道を駆け上がった。
これが義母のいつもの意地悪で、夫は無事であると思いながら。
上の屋敷には、多くの兵士たちが屯していた。
宇音美が現れると、さすがの兵士たちも、その姿に驚嘆し、気味悪がった。
「大郎さま、大郎さまはどこです?」
泣き叫ぶ赤子を背負い、着物は肩まではだけ、腰紐を引きずり、乱れた髪をそのままに、入鹿の姿を求めながらさ迷い歩く姿は、黄泉の国より這い出した伊邪那美命を想わせた。
兵士たちが騒いでいると、屋敷からひとりの男が剣を振り回しながら出てきた。
「何事か? 敵襲か? 女王軍が攻めてきたか?」
「物部大臣さま、怪しい女が」
聞き覚えのある声に振り返ると、入鹿の弟であった。
入鹿兄弟の祖母 ―― 蘇我馬子の妻は物部守屋大連の妹である。
物部の財産を受け継いだ弟は、物部大臣と呼ばれていた。
義弟の顔を見ると、急に力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
「う、宇音美さまですか? 何というお姿で……」
入鹿の弟は、宇音美の姿を見て絶句した。
「もしや、兄上を心配なされて、お一人で来られたのですか? この雨の中を? おお、何と麗しき愛であろうか」
男は、大袈裟と思えるほど感動した口調で叫んだ。
「蘇我氏が存亡の危機というときに、馳せ参じることもない一族がいるというのに。中には同族を裏切り、女王側についた者までいるというのに。みなのもの、見たか! 兄上に対する宇音美大郎女さまの愛を。蘇我一族に対する想いを」
物部大臣は剣を突上げ、兵士たちを鼓舞した。
「女である宇音美さまが、かくも蘇我一族を想っていらっしゃる。男である我らも、宇音美さまに恥じぬよう、力の限り戦おうぞ!」
兵士たちから鬨の声があがった。
男たちの勇ましい声はうねりとなり、宇音美の体を酷く圧迫した。
ただならぬ雰囲気に、息苦しさを感じた。
宇音美は、溺れかかった人間が必死でもがくように、手足をばたつかせながら義弟に駆け寄った。
泥だらけの手で義弟の裾にしがみ付いた。
「中郎さま、大郎さまはどこにいるのです? 無事なのですか? いえ、きっと無事なのですよね」
「宇音美さま、兄上は……」
物部大臣は、眉間に皺を寄せた。
奥歯をぎりぎりといわせ、怒りで全身を震わせた。
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