大兇の妻

hiro75

文字の大きさ
上 下
1 / 21

第1話

しおりを挟む
 侍女が、部屋に転がり込んできた。

「大変でございます、宇音美大郎女うねみのおおいらつめさま。林大臣はやしのおおおみ(蘇我入鹿)さまが、お亡くなりあそばされました」

 宇音美は、青ざめた顔の侍女を呆然と見つめる。

 重たげな瞼を幾度も瞬かせる。

 女は、針仕事をしていた。

 暑い日が続いていた。

 半時前から雨が降り出したが、一向に涼しくならない。

 部屋の中は、湿気があるせいで蒸し暑かった。

 額から噴出した汗が、宇音美の豊かな頬を伝わり、零れ落ちていった。

 衣に染みができないように、注意しながら針を動かしていた。

 麻の単である。

 暑さに弱い夫のためである。

 夫は、決して己の感情を顔に出さない。

 出来上がった衣に手を通しても、仏像のような顔で、ただ一言、ありがとうと言うだけだろう。

 ときどき、本当に愛されているのだろうかと不安になる。

 不安になるから、もっと尽くさねばと懸命になる。

 その愛情表現が押し付けがましいと、夫の母には不評のようだ。

『でも、よいのです。あの人さえ喜んでくだされば。お父さまは、きっと喜んでくださるわよね?』と、すやすや寝入る赤子に声をかけながら、針仕事に勤しんでいた。

 突然の訃報に、宇音美は驚きながらも、ああ、やはりと思った。

 夫は、昨夜から体調が悪かった。

 今日は、三韓が貢物を進上する大切な儀式があるとかで、無理をして外出した。

 日ごろの激務が祟ったのだろうか?

 それにしては若すぎる。

 まだまだ働き盛りなのに………………

 信じたくはない。

 きっと何かの間違いだろう。

 そうだ、入鹿の父である豊浦大臣とようらのおおおみ(蘇我蝦夷)の間違いであろうと宇音美は思った。

 義父は、ここ数年体調を崩している。

 大臣として政務を全うできないので、入鹿に職を譲り、屋敷に籠もって静養に当っていた。

 義父が亡くなったのなら頷ける。それなりの覚悟もしていた。

「豊浦さまの間違いでしょう? 豊浦さまが身罷られたのでは?」と問い質した。

 侍女は、悲しく首を振った。

「豊浦大臣さまではございません。林大臣さまでございます。林大臣さまが……」

「そ、そんな……、そんなことはありません。大郎たろうさまが亡くなるなんて。何処からの知らせですか?」

「谷のお屋敷からです」

「お義母さまの嫌がらせでは?」

「林大臣さま直々の祖子孺者おやのこわらわからの知らせです」

 間違いないようだ。

 夫は、亡くなったのだ!

「そうですか……」と、宇音美は全てを悟ったように静かに訊いた、「それで、大郎さまの最後は? 体調を崩されてお倒れになったのですか?」

 侍女は、言いづらそうに口をもごもごと動かしている。

「私なら大丈夫です。それなりの覚悟はしていましたから。大郎さまの最後はどうだったのです?」

「林大臣さまは……」と、区切ったあと、侍女は宇音美から目を逸らした、「女王さまに逆心ありと、誅殺された……と」

 一瞬、我が耳を疑った。

「ば、馬鹿なことを申すな!」

 宇音美は勢いよく立ち上がった。

 麻衣が零れ落ちる。

 傍らにいた赤子が目を覚まし、激しく泣きだす。

「大郎さまが、あの人が逆心を起すわけがないでしょう。誰よりも国を想い、誰よりも民を想うあの人が」

「しかし、孺者はそのように申しております。林大臣さまの御遺体は、谷のお屋敷のほうに戻られたと」

「ああ、何てことを……」

 女は、麻衣の上に崩れ落ちた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

法隆寺燃ゆ

hiro75
歴史・時代
奴婢として、一生平凡に暮らしていくのだと思っていた………………上宮王家の奴婢として生まれた弟成だったが、時代がそれを許さなかった。上宮王家の滅亡、乙巳の変、白村江の戦………………推古天皇、山背大兄皇子、蘇我入鹿、中臣鎌足、中大兄皇子、大海人皇子、皇極天皇、孝徳天皇、有間皇子………………為政者たちの権力争いに巻き込まれていくのだが……………… 正史の裏に隠れた奴婢たちの悲哀、そして権力者たちの愛憎劇、飛鳥を舞台にした大河小説がいまはじまる!!

江戸の櫛

春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。

鬼の桃姫

井田いづ
歴史・時代
これはむかしむかしの物語。鬼の頭領である桃姫は日々"狩り"をしながら平和に島を治めていた。ある日のこと、鬼退治を掲げた人間が島に攻め入って来たとの知らせが入る。桃姫の夢と城が崩れ始めた────。 +++++++++++++++++ 当作品は『桃太郎』『吉備津彦命の温羅退治』をベースに創作しています。

四本目の矢

南雲遊火
歴史・時代
戦国大名、毛利元就。 中国地方を統一し、後に「謀神」とさえ言われた彼は、 彼の時代としては珍しく、大変な愛妻家としての一面を持ち、 また、彼同様歴史に名を遺す、優秀な三人の息子たちがいた。 しかし。 これは、素直になれないお年頃の「四人目の息子たち」の物語。   ◆◇◆ ※:2020/06/12 一部キャラクターの呼び方、名乗り方を変更しました

WEAK SELF.

若松だんご
歴史・時代
かつて、一人の年若い皇子がいた。 時の帝の第三子。 容姿に優れ、文武に秀でた才ある人物。 自由闊達で、何事にも縛られない性格。 誰からも慕われ、将来を嘱望されていた。 皇子の母方の祖父は天智天皇。皇子の父は天武天皇。 皇子の名を、「大津」という。 かつて祖父が造った都、淡海大津宮。祖父は孫皇子の資質に期待し、宮号を名として授けた。 壬申の乱後、帝位に就いた父親からは、その能力故に政の扶けとなることを命じられた。 父の皇后で、実の叔母からは、その人望を異母兄の皇位継承を阻む障害として疎んじられた。 皇子は願う。自分と周りの者の平穏を。 争いたくない。普通に暮らしたいだけなんだ。幸せになりたいだけなんだ。 幼い頃に母を亡くし、父と疎遠なまま育った皇子。長じてからは、姉とも引き離され、冷たい父の元で暮らした。 愛してほしかった。愛されたかった。愛したかった。 愛を求めて、周囲から期待される「皇子」を演じた青年。 だが、彼に流れる血は、彼を望まぬ未来へと押しやっていく。 ーー父についていくとはどういうことか、覚えておけ。 壬申の乱で散った叔父、大友皇子の残した言葉。その言葉が二十歳になった大津に重く、深く突き刺さる。 遠い昔、強く弱く生きた一人の青年の物語。 ――――――― weak self=弱い自分。

華日録〜攫われ姫君の城内観察記〜

神崎みゆ
歴史・時代
時は江戸時代、 五代将軍徳川綱吉の治世。 江戸城のお膝元で、 南町奉行所の下っ端同心を父に持つ、 お転婆な町娘のおはな。 ある日、いきなり怪しげな 男たちに攫われてしまい、 次に目にしたのは、絢爛豪華な 江戸城大奥で…!? なんと、将軍の愛娘…鶴姫の 身代わりをすることに…! 仰天するおはなだったが、 せっかく江戸城にいるんだし…と 城内を観察することに! 鶴姫として暮らす江戸城内で おはなの目に映ったものとは…?

ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て

せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。 カクヨムから、一部転載

ようこそ安蜜屋へ

歴史・時代
 妻に先立たれた半次郎は、ひょんなことから勘助と出会う。勘助は捨て子で、半次郎の家で暮らすようになった。  勘助は目があまり見えず、それが原因で捨てられたらしい。一方半次郎も栄養失調から舌の調子が悪く、飲食を生業としているのに廃業の危機に陥っていた。勘助が半次郎の舌に、半次郎が勘助の目になることで二人で一人の共同生活が始まる。

処理中です...