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翌朝、店の者たちは、すでにおつたと若様の話を知っていた。
手放しで喜んだ。
当のおつたは、幾分強張った顔をしていたが、それも恥ずかしさのためだろうと、おみねは思った。
お糸やおみねは、「良かったね」と手を取り合って喜んでいた。
おけいは、相変わらずつんと澄ました顔をしていたが、人の見ていないところで、「良かったよ、本当に良かったよ」と袂を濡らしていた。
「そうだよ、みんな本当の姉妹みたいなものだからね」
と、おみねはしみじみと呟いた。
昼の忙しさが終わって帳場に戻ると、鏡磨ぎの嘉平が縁側に座って、煙管を吹かせていた。
「おや、びっくりしたよ、どうしたんだい? 鏡磨ぎには早いだろう? それとも、もうあの鏡が磨げたのかい?」
「へえ、お上さん、今日もいい天気ですね」
と、相変わらずちぐはぐな会話だった。
耳元で、「何の用だい」と訊くと、嘉平は、「えっ……、あっ、そうそう、えっと……、なんだったかな……」と咽喉まで出掛かっているのに、なかなか出ない、もどかしそうな顔をして見せた。
「あっ、そうそう、若様だ」
おみねは双眸を見開いた。
嘉平から、若様の名を聞くとは思わなかった。
「若様がどうしたんだい?」
「何がです?」
「いや、だから若様だよ?」
「えっ、ああ、そうそう、若様ですよ。あの盆暗には、本当に頭にきましてね」
盆暗とはあまりに酷い。
おみねは、眉間に皺を寄せて、何があったのかと訊いた。
「いや、昨晩、長屋のほうに来ましてね。で、一緒に酒を飲んでたんですが……」
突然、弟子にしてくれと言い出したそうである。
嘉平も驚いて、理由を訊く。
と、武士を辞める云々……、おつたを貰う云々……話したそうである。
「いや、それを聞いて頭にきましてね。てやんでぃ、べら棒め! てめえみたいな盆暗に、鏡磨ぎがつとまるかい! と言ってやったんですよ」
「な、なんでまた、そんなことを?」
おみねは驚いて訊いた。
折角、清太郎が武士を辞めて、生きる証を見つけたのだ。
それを頭ごなしに否定するなんて………………
「だって、そうじゃありませんかい? 侍の仕事も碌にできないようなやつが、鏡磨ぎなんかできますか? 鏡磨ぎは、そんな甘い仕事じゃねんですぜ」
なるほど、確かにそうである。
「だから、あっしは言ってやったんです。いいかい、若様、あんたはお旗本だ。お旗本の仕事はなんですか、城勤めだけが仕事じゃねえはずだ。公方様の大事のときに、いち早く駆けつけ、お守りするのがあんたたちの仕事のはずだ。だったら、日がな一日、ごろごろしていられねえはずだ。剣術、弓、馬、日頃から鍛錬しておかないと役に立たないはずだぜって」
嘉平は、まるで何かに憑かれたようにしゃべり続けた。
そこには、普段の好々爺はなかった。
鬼だ。
仕事の鬼がいた。
おみねも、不思議と老人の話に引き込まれていた。
手放しで喜んだ。
当のおつたは、幾分強張った顔をしていたが、それも恥ずかしさのためだろうと、おみねは思った。
お糸やおみねは、「良かったね」と手を取り合って喜んでいた。
おけいは、相変わらずつんと澄ました顔をしていたが、人の見ていないところで、「良かったよ、本当に良かったよ」と袂を濡らしていた。
「そうだよ、みんな本当の姉妹みたいなものだからね」
と、おみねはしみじみと呟いた。
昼の忙しさが終わって帳場に戻ると、鏡磨ぎの嘉平が縁側に座って、煙管を吹かせていた。
「おや、びっくりしたよ、どうしたんだい? 鏡磨ぎには早いだろう? それとも、もうあの鏡が磨げたのかい?」
「へえ、お上さん、今日もいい天気ですね」
と、相変わらずちぐはぐな会話だった。
耳元で、「何の用だい」と訊くと、嘉平は、「えっ……、あっ、そうそう、えっと……、なんだったかな……」と咽喉まで出掛かっているのに、なかなか出ない、もどかしそうな顔をして見せた。
「あっ、そうそう、若様だ」
おみねは双眸を見開いた。
嘉平から、若様の名を聞くとは思わなかった。
「若様がどうしたんだい?」
「何がです?」
「いや、だから若様だよ?」
「えっ、ああ、そうそう、若様ですよ。あの盆暗には、本当に頭にきましてね」
盆暗とはあまりに酷い。
おみねは、眉間に皺を寄せて、何があったのかと訊いた。
「いや、昨晩、長屋のほうに来ましてね。で、一緒に酒を飲んでたんですが……」
突然、弟子にしてくれと言い出したそうである。
嘉平も驚いて、理由を訊く。
と、武士を辞める云々……、おつたを貰う云々……話したそうである。
「いや、それを聞いて頭にきましてね。てやんでぃ、べら棒め! てめえみたいな盆暗に、鏡磨ぎがつとまるかい! と言ってやったんですよ」
「な、なんでまた、そんなことを?」
おみねは驚いて訊いた。
折角、清太郎が武士を辞めて、生きる証を見つけたのだ。
それを頭ごなしに否定するなんて………………
「だって、そうじゃありませんかい? 侍の仕事も碌にできないようなやつが、鏡磨ぎなんかできますか? 鏡磨ぎは、そんな甘い仕事じゃねんですぜ」
なるほど、確かにそうである。
「だから、あっしは言ってやったんです。いいかい、若様、あんたはお旗本だ。お旗本の仕事はなんですか、城勤めだけが仕事じゃねえはずだ。公方様の大事のときに、いち早く駆けつけ、お守りするのがあんたたちの仕事のはずだ。だったら、日がな一日、ごろごろしていられねえはずだ。剣術、弓、馬、日頃から鍛錬しておかないと役に立たないはずだぜって」
嘉平は、まるで何かに憑かれたようにしゃべり続けた。
そこには、普段の好々爺はなかった。
鬼だ。
仕事の鬼がいた。
おみねも、不思議と老人の話に引き込まれていた。
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