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「迷っていました、自分のいく道を。迷って、迷ってここに足を運びました。別に、酒が答えを出してくれるわけではないのですが、飲まずにはいられませんでした」
ああ、それで日を置かずにお見えになったのかと、おみねは理解した。
「でも、ここに来たのは良かった。答えが見つかりましたよ」
おみねは首を傾げた。
「昨夜、鏡磨ぎの嘉平さんと酒を飲んだのですが……」
酔っ払った嘉平を長屋まで送っていくと、世話になった、礼がしたいから飲んでいけと誘われたらしい。
若様は辞退したが、それじゃあ、俺の気がすまねぇと無理やり付き合わされたそうだ。
「でも、嘉平さんと話が合いまして? 嘉平さん、ちょいと耳が遠くて、それに最近、惚けも始まってるようで……」
「ええ、ちぐはぐでした。でも、すごいですね。鏡のことになると、目の色が変わるのですよ。それまで、ぐでんぐでんに酔っていたのが、背筋をぴんと伸ばして、瞳を輝かせて、そもそも鏡って言うものは………………と語りだすのですよ。私、それを見て思ったのです。ああ、そうだ、これが生きているということなのだ。例え貧しくても、例えその日暮しの生活であっても、自分の仕事に誇りを持って、ひとつのことにこつこつと打ち込む。これが生きるということなのだと」
「だから、武士を捨てようとお思いなさった?」
おみねは、恐る恐る訊いた。
「明日が見えないのなら、今を精一杯生きたいと」
若様は酒を煽った。
それは、確かに正論だ。
「で、でも、なぜそれを私に?」
そうである。
そんな大事なことを、なぜおみねに話すのか?
―― 清太郎は、あたしが本当の母親だと知っている……?
そんな、まさか………………
若様は、おみねを見てにこりと微笑んだ。
「なぜでしょう? なぜだか分からないが、お上さんに聞いてもらいたくなったのです。お上さんなら、正しいことを言ってくれると思ったのですね」
「そ、そんな、なぜ?」
「そう、なぜか? それは多分、お上さんが私の母に似ているからでしょう」
おみねは胸が詰った。
今にもその場に倒れ込んでしまいそうで、息苦しかった。
「似ているのです、私の本当の母に。いえ、私は、生みの母の顔を覚えていません。ただ、幽霊は覚えているのです」
「鏡の?」
思わず口走った。
「そう、鏡、おや、どうしてお上さん、その話を?」
おみねは焦った。
今、私が母ですと名乗るべきなのか?
いや、そんなことをして何の意味があるというのだ。
「おつたちゃんに聞いたんです」
そうか、おつたに、しかし、鏡の話まではしたかなと、若様は口の中で呟いた。
「まあいいです。そう、鏡の反射だったんですよ、その女性の幽霊は……」と、若様は言った、「私はね、その幽霊の笑顔見て、これが私の本当の母親なのだと思っていたのです。見ているだけで、こっちまでもが温かい気持ちになる笑顔。今の屋敷に引き取られてから、私は寂しかった。父も義母も、私にはまるで他人のようでした。そんな時、あの幽霊の笑顔を見て、私は心が癒されたのです。ああ、私の母は、こんな素敵な笑い顔の持ち主なのだ。この幽霊が、私の本当の母上なのだと。お上さん、その幽霊に似ているのですよ。だから、ついつい本当の母親のように甘えてしまったのかもしれませんね」
居た堪れなかった。
居た堪れなさに、すぐにでも部屋を飛び出し、思いっきり泣き叫びたかった。
「あとから父に聞いた話なのですが、その鏡は、父が、私の母のために特別に造らせたそうです。だから、義母もいやだったのでしょうね。ある日、私が鏡を眺めていたら、行き成り怒り出して、平手打ちしたのです。口では煩い義母も、手をあげるようなことはしませんでしたから、私も気が動転してしまいました。なぜ叩かれたのかも分かりませんでした。その翌日から鏡はなくなっていました。でも、大きくなって父から鏡の由来を聞いて、ああ、義母は、鏡に私の母を見ていたのだな、母を忘れられない私を憎んでいたのだな……と思い当たりましたよ」
おみねのところに鏡が戻ってきたのは、そんな経緯があったのだと、彼女は理解した。
ああ、それで日を置かずにお見えになったのかと、おみねは理解した。
「でも、ここに来たのは良かった。答えが見つかりましたよ」
おみねは首を傾げた。
「昨夜、鏡磨ぎの嘉平さんと酒を飲んだのですが……」
酔っ払った嘉平を長屋まで送っていくと、世話になった、礼がしたいから飲んでいけと誘われたらしい。
若様は辞退したが、それじゃあ、俺の気がすまねぇと無理やり付き合わされたそうだ。
「でも、嘉平さんと話が合いまして? 嘉平さん、ちょいと耳が遠くて、それに最近、惚けも始まってるようで……」
「ええ、ちぐはぐでした。でも、すごいですね。鏡のことになると、目の色が変わるのですよ。それまで、ぐでんぐでんに酔っていたのが、背筋をぴんと伸ばして、瞳を輝かせて、そもそも鏡って言うものは………………と語りだすのですよ。私、それを見て思ったのです。ああ、そうだ、これが生きているということなのだ。例え貧しくても、例えその日暮しの生活であっても、自分の仕事に誇りを持って、ひとつのことにこつこつと打ち込む。これが生きるということなのだと」
「だから、武士を捨てようとお思いなさった?」
おみねは、恐る恐る訊いた。
「明日が見えないのなら、今を精一杯生きたいと」
若様は酒を煽った。
それは、確かに正論だ。
「で、でも、なぜそれを私に?」
そうである。
そんな大事なことを、なぜおみねに話すのか?
―― 清太郎は、あたしが本当の母親だと知っている……?
そんな、まさか………………
若様は、おみねを見てにこりと微笑んだ。
「なぜでしょう? なぜだか分からないが、お上さんに聞いてもらいたくなったのです。お上さんなら、正しいことを言ってくれると思ったのですね」
「そ、そんな、なぜ?」
「そう、なぜか? それは多分、お上さんが私の母に似ているからでしょう」
おみねは胸が詰った。
今にもその場に倒れ込んでしまいそうで、息苦しかった。
「似ているのです、私の本当の母に。いえ、私は、生みの母の顔を覚えていません。ただ、幽霊は覚えているのです」
「鏡の?」
思わず口走った。
「そう、鏡、おや、どうしてお上さん、その話を?」
おみねは焦った。
今、私が母ですと名乗るべきなのか?
いや、そんなことをして何の意味があるというのだ。
「おつたちゃんに聞いたんです」
そうか、おつたに、しかし、鏡の話まではしたかなと、若様は口の中で呟いた。
「まあいいです。そう、鏡の反射だったんですよ、その女性の幽霊は……」と、若様は言った、「私はね、その幽霊の笑顔見て、これが私の本当の母親なのだと思っていたのです。見ているだけで、こっちまでもが温かい気持ちになる笑顔。今の屋敷に引き取られてから、私は寂しかった。父も義母も、私にはまるで他人のようでした。そんな時、あの幽霊の笑顔を見て、私は心が癒されたのです。ああ、私の母は、こんな素敵な笑い顔の持ち主なのだ。この幽霊が、私の本当の母上なのだと。お上さん、その幽霊に似ているのですよ。だから、ついつい本当の母親のように甘えてしまったのかもしれませんね」
居た堪れなかった。
居た堪れなさに、すぐにでも部屋を飛び出し、思いっきり泣き叫びたかった。
「あとから父に聞いた話なのですが、その鏡は、父が、私の母のために特別に造らせたそうです。だから、義母もいやだったのでしょうね。ある日、私が鏡を眺めていたら、行き成り怒り出して、平手打ちしたのです。口では煩い義母も、手をあげるようなことはしませんでしたから、私も気が動転してしまいました。なぜ叩かれたのかも分かりませんでした。その翌日から鏡はなくなっていました。でも、大きくなって父から鏡の由来を聞いて、ああ、義母は、鏡に私の母を見ていたのだな、母を忘れられない私を憎んでいたのだな……と思い当たりましたよ」
おみねのところに鏡が戻ってきたのは、そんな経緯があったのだと、彼女は理解した。
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