332 / 378
第五章「生命燃えて」 中編
第31話(了)
しおりを挟む
年の瀬が迫ったころ、巷では飛鳥の鼠が大量に北へと移動しているという噂が広がった。
「ワシも見たで、何百匹という鼠がぞろぞろと走り去っていくのを」
「ほんまけ?」
「ほんまじゃ! 気持ち悪うてな」
「なんやろうか? また地揺れとか、大水とかやろうか?」
「いや、もしかしたら宮遷しかもしれへんど」
「またか? 今度はどこや? また難波か?」
「鼠は北へ向かってたんや、難波は西や。すると、北の方は……」
「北に、宮を造るところなんてあんのけ?」
「最近淡海ちゅうでっかい池のほとりに、なや色んなものを建てとるらしいからな。もしかしたら、そこかもしれへんで」
「淡海なんて、あんな辺鄙なところに宮を遷してどないすんねん? 飛鳥が一番やないけ?」
「お偉いさんの考えとることなんて、ワシ、知らんがな。どうせ、方角が悪いとか、場所が悪いとか、そんな理由やろう」
「そんな理由で宮遷しされたら、かなわんな。また人を出せとか、稲を出せとか言われるんやろうな」
「全く、ワシらは奴婢以下やな」
と、人々は陰口を叩いた。
奴婢は道具のような扱いだが、衣食住はある程度保証された。
一般の人は、人としての権利は保証されるが、重い税と気まぐれな天候に、明日生きていけるか、それさえ定かではなかった。
人々が懸念したとおり、年が明けて宮遷しの命が下った。
案の定、人を出せ、稲を出せである。
斑鳩寺からも何人か寄越せと言われ、寺法頭の下氷雑物が張り切っている。
さすがに、これ以上は無理だと寺司の聞師が言うのだが、「お国のためだ」「お国のだめだ」と連呼されると、反論しにくい。
挙句に、
「今回の宮遷しは、百済移民に新しい土地を当たるためでもあるのですよ」
と、言われると、もともと百済とのつながりのある斑鳩寺から人を出さずにはいられず、また十人ほどかき集めて、近江へと送り出した。
大伴氏からも、人員を出すことになった。
兵士を何人か送り込むことになったが、八重女と毎日のように逢瀬を交わしている黒万呂は、今度は手を上げることはなく、指名されないように小さくなっていた。
が、何のいたずらか、当たってしまった。
大津に、なぜ自分が近江に行かなければならないのかと抗議した。
「なんでって……、命令やからな」
大津は、こいつは何を言ってるんだという顔だった。
「いや、俺は大伴本家の警護がいいっす」
「お前……、この前は筑紫に行きたいとか言ってなかったか?」
いつの話だ。
「兎も角、これは命令だ、近江へ行って来い。大国さま直々の命令だ、それだけお前を買っているということだ。それとも、何かあるのか? 女でもできたか?」
黒万呂は一瞬顔を引き攣らせ、「いえ」と引き下がるしかなかった。
正直に女ができたといえば、大津のことだ、考慮してくれるかもしれない。
だが、相手は今や貴人……しかも、表向き大伴家の娘だ ―― むかしは奴婢であったとしても、そんな娘と結ばれたなどと分かれば、どんな目に合うか分からない。
一生会えなくなることだってありうる。
それなら、ここは我慢して近江へ行き、頃合いを見て戻ってくるしかないだろう。
ずっと近江へ行っていろということでもないし、今までだって死ぬ思いをして飛鳥に戻ってきた。
今度も………………
そう思って、黒万呂は八重女に近江行きを打ち明けた。
当初は嫌がるかと思っていたが、女は意外に素直に受け入れた。
「仕方ないわ、それが私たちの宿命ですもの。誰かの命に従わなければならない……」
八重女は、そういう人生を歩んでこなければならなかったのだ。
それは、黒万呂も同じ。
いや、奴婢という存在が、そうだった。
「でも、大丈夫よ。黒万呂はきっと帰ってくる、そうよね、きっと……」
女は、潤んだ瞳で見上げる。
「ああ、きっと戻ってくる。俺は絶対に戻ってくるで。そやから、待っててくれ、誰のものにもならず……」
黒万呂は、八重女を抱きしめながら、空を見上げる。
女との新たな人生を思い描きながら………………
(第五章 中編 了)
「ワシも見たで、何百匹という鼠がぞろぞろと走り去っていくのを」
「ほんまけ?」
「ほんまじゃ! 気持ち悪うてな」
「なんやろうか? また地揺れとか、大水とかやろうか?」
「いや、もしかしたら宮遷しかもしれへんど」
「またか? 今度はどこや? また難波か?」
「鼠は北へ向かってたんや、難波は西や。すると、北の方は……」
「北に、宮を造るところなんてあんのけ?」
「最近淡海ちゅうでっかい池のほとりに、なや色んなものを建てとるらしいからな。もしかしたら、そこかもしれへんで」
「淡海なんて、あんな辺鄙なところに宮を遷してどないすんねん? 飛鳥が一番やないけ?」
「お偉いさんの考えとることなんて、ワシ、知らんがな。どうせ、方角が悪いとか、場所が悪いとか、そんな理由やろう」
「そんな理由で宮遷しされたら、かなわんな。また人を出せとか、稲を出せとか言われるんやろうな」
「全く、ワシらは奴婢以下やな」
と、人々は陰口を叩いた。
奴婢は道具のような扱いだが、衣食住はある程度保証された。
一般の人は、人としての権利は保証されるが、重い税と気まぐれな天候に、明日生きていけるか、それさえ定かではなかった。
人々が懸念したとおり、年が明けて宮遷しの命が下った。
案の定、人を出せ、稲を出せである。
斑鳩寺からも何人か寄越せと言われ、寺法頭の下氷雑物が張り切っている。
さすがに、これ以上は無理だと寺司の聞師が言うのだが、「お国のためだ」「お国のだめだ」と連呼されると、反論しにくい。
挙句に、
「今回の宮遷しは、百済移民に新しい土地を当たるためでもあるのですよ」
と、言われると、もともと百済とのつながりのある斑鳩寺から人を出さずにはいられず、また十人ほどかき集めて、近江へと送り出した。
大伴氏からも、人員を出すことになった。
兵士を何人か送り込むことになったが、八重女と毎日のように逢瀬を交わしている黒万呂は、今度は手を上げることはなく、指名されないように小さくなっていた。
が、何のいたずらか、当たってしまった。
大津に、なぜ自分が近江に行かなければならないのかと抗議した。
「なんでって……、命令やからな」
大津は、こいつは何を言ってるんだという顔だった。
「いや、俺は大伴本家の警護がいいっす」
「お前……、この前は筑紫に行きたいとか言ってなかったか?」
いつの話だ。
「兎も角、これは命令だ、近江へ行って来い。大国さま直々の命令だ、それだけお前を買っているということだ。それとも、何かあるのか? 女でもできたか?」
黒万呂は一瞬顔を引き攣らせ、「いえ」と引き下がるしかなかった。
正直に女ができたといえば、大津のことだ、考慮してくれるかもしれない。
だが、相手は今や貴人……しかも、表向き大伴家の娘だ ―― むかしは奴婢であったとしても、そんな娘と結ばれたなどと分かれば、どんな目に合うか分からない。
一生会えなくなることだってありうる。
それなら、ここは我慢して近江へ行き、頃合いを見て戻ってくるしかないだろう。
ずっと近江へ行っていろということでもないし、今までだって死ぬ思いをして飛鳥に戻ってきた。
今度も………………
そう思って、黒万呂は八重女に近江行きを打ち明けた。
当初は嫌がるかと思っていたが、女は意外に素直に受け入れた。
「仕方ないわ、それが私たちの宿命ですもの。誰かの命に従わなければならない……」
八重女は、そういう人生を歩んでこなければならなかったのだ。
それは、黒万呂も同じ。
いや、奴婢という存在が、そうだった。
「でも、大丈夫よ。黒万呂はきっと帰ってくる、そうよね、きっと……」
女は、潤んだ瞳で見上げる。
「ああ、きっと戻ってくる。俺は絶対に戻ってくるで。そやから、待っててくれ、誰のものにもならず……」
黒万呂は、八重女を抱きしめながら、空を見上げる。
女との新たな人生を思い描きながら………………
(第五章 中編 了)
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
浅井長政は織田信長に忠誠を誓う
ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる