329 / 378
第五章「生命燃えて」 中編
第28話
しおりを挟む
その矢先の出来事だった。
十月に入って、幾分肌寒くなった夜だ。
菟道(京都府宇治市)で、唐からやってきたお偉いさんを招いて閲兵式をやるとかで、月初めから大伴の主力部隊も派遣され、残された部隊にしわ寄せがきて、宿直が三日に一度だったのが、休みなく続いて、他の兵から不満が出ていたところである。
黒万呂は、確かに疲れはあったが、願ってもない好機だと思った。
毎夜屋敷を見回り、今夜も駄目かと肩を落としていたのだが、その夜は様子が違った。
満月の夜である ―― 寒さで青白くなった月が闇夜に怖いほど冴えわたり、池の水面にもその影が落ちていた。
蛍に見惚れて落ちそうになった池である。
今宵は、月に見惚れて落ちないように気をつけねばと通りがかると、不意に屋敷から声がした。
「ずっとなかに籠っていては、体を壊す。たまにはこうやって戸を開け、夜の澄んだ空気を入れるのがいいよ。良いころ合いに、今夜は満月だ、ほら」
見ると、外に面した廊下に立ち、月を見上げる男がいた。
恐らく大伴家の誰かと思われたが、黒万呂にはそれが誰か分かりかねた。
「随分良い月だね。どれ、一句詠みたい気分だね、さてさて……」
と、男は顎に手を添え、首を捻る。
「兄様は、本当に歌がお好きなのですね」
屋敷の中から声が聞こえる。
黒万呂は、その声にはたと立ち止まり、急いで近くの木陰に身を顰め、耳を澄ませた。
この声は………………
「歌は、私の生きがいだからね。歌を詠っていると、気分が良くなる。八重子もどうだい、一句」
八重子………………!
間違いない、いま男の口から八重子と聞いた ―― 大伴家の娘になった八重女の別名だ。
黒万呂は、木陰からそっと顔を覗かせ、屋敷を見た。
珍しく戸が開け放たれている。
そこから、女の白い顔が覗いている。
声が出そうになったのを必死で押さえた。
「私は、不調法ものですから」
「そんなことはない、この前も額田様が褒めておられたぞ」
「お恥ずかしいことです」
「いやいや、八重子は覚えが早い、私も見習わねばな」
などと、男と八重子の他愛無い会話が続いた。
十月に入って、幾分肌寒くなった夜だ。
菟道(京都府宇治市)で、唐からやってきたお偉いさんを招いて閲兵式をやるとかで、月初めから大伴の主力部隊も派遣され、残された部隊にしわ寄せがきて、宿直が三日に一度だったのが、休みなく続いて、他の兵から不満が出ていたところである。
黒万呂は、確かに疲れはあったが、願ってもない好機だと思った。
毎夜屋敷を見回り、今夜も駄目かと肩を落としていたのだが、その夜は様子が違った。
満月の夜である ―― 寒さで青白くなった月が闇夜に怖いほど冴えわたり、池の水面にもその影が落ちていた。
蛍に見惚れて落ちそうになった池である。
今宵は、月に見惚れて落ちないように気をつけねばと通りがかると、不意に屋敷から声がした。
「ずっとなかに籠っていては、体を壊す。たまにはこうやって戸を開け、夜の澄んだ空気を入れるのがいいよ。良いころ合いに、今夜は満月だ、ほら」
見ると、外に面した廊下に立ち、月を見上げる男がいた。
恐らく大伴家の誰かと思われたが、黒万呂にはそれが誰か分かりかねた。
「随分良い月だね。どれ、一句詠みたい気分だね、さてさて……」
と、男は顎に手を添え、首を捻る。
「兄様は、本当に歌がお好きなのですね」
屋敷の中から声が聞こえる。
黒万呂は、その声にはたと立ち止まり、急いで近くの木陰に身を顰め、耳を澄ませた。
この声は………………
「歌は、私の生きがいだからね。歌を詠っていると、気分が良くなる。八重子もどうだい、一句」
八重子………………!
間違いない、いま男の口から八重子と聞いた ―― 大伴家の娘になった八重女の別名だ。
黒万呂は、木陰からそっと顔を覗かせ、屋敷を見た。
珍しく戸が開け放たれている。
そこから、女の白い顔が覗いている。
声が出そうになったのを必死で押さえた。
「私は、不調法ものですから」
「そんなことはない、この前も額田様が褒めておられたぞ」
「お恥ずかしいことです」
「いやいや、八重子は覚えが早い、私も見習わねばな」
などと、男と八重子の他愛無い会話が続いた。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる