240 / 378
第四章「白村江は朱に染まる」 中編
第21話
しおりを挟む
高尾深草は、先に御座船に乗り込んで、船底の最終点検をしていた。
あと少しですべての点検が終わろうかという時、朴市秦田来津から上がってくるよう指示があった。
彼は、指示どおり甲板上に出る。
田来津は川岸に佇み、流れゆく川をじっと眺めていた。
「お呼びですか、田来津様?」
川岸に上がった深草は、田来津に声を掛けた。
「ああ、お前に頼みたいことがあってね」
「はあ……」
田来津は、胸元から一切れの布を取り出す。
「これは、妻が私の無事を思って、襟元に縫い付けてくれた彼女の領巾の片割れなのだが、これに妻への歌が数首書いてある。あっ、待て、もう一首書くのを忘れていた……」
篝火の下、彼はその領巾に、もう一首歌を書き付けた ―― 長津を出航する前日、大伴朴本大国が教えてくれた松浦の佐用姫の歌である。
「これを、妻に渡してくれないか」
深草は、それを受け取った。
が、よく事情が呑み込めない。
「あの……と言いますと?」
「お前は御座船を下り、大国の船に乗ってくれ」
「どうしてですか? なぜです? 私もお供させてください!」
「御座船はおとりだ、命の保障はできない。だから、お前には下りてもらうのだ」
「なぜですか? 私は、長年秦家に仕えてきたのですよ! 主を残して、自分だけ安全な場所へはいけません!」
「深草、長年仕えてきてくれたからこそ、お前には朴市に戻って、安孫子や小倉の力となって欲しいのだ、頼む!」
「田来津様……、田来津様は?」
深草は、涙を零す。
「俺は……死ぬよ………………、明日の戦さでは、多くの死者が出るだろう。武人でもない倭国の良民が、国に徴収され、そして名の知らぬ土地で眠りにつく。将軍の中で、だれか一緒に眠ってやるヤツがいなくては、彼らがあまりにも可哀想じゃないか。それに……、私はあの人を守ることができなかったのだし……」
それは、田来津の人生そのものだった。
弱き者のために力を使い、弱き者のために命を落とす。
父の言葉は、こういうことだったのだと彼は思っていた。
「深草、お前は生きろ! 生きて、再び倭国の土を踏むのだ! そして、妻や小倉に、いや、朴市の人々に伝えるのだ。秦田来津造、弱き者のために生き、弱き者のために死したと、良いな!」
「田来津様……」
深草は泣いた。
田来津も泣いた。
後年、深草は孫たちに話をせがまれると、好んでこの話をしたという。
その時、彼は決まって、最後は涙を流しながら話をしたらしい。
―― さて、件の片割れの領巾だが、安孫子郎女は、毎日のように、これを愛しそうに眺め暮らした。
そして、そこに記された歌を、小倉に子守唄代わりに聞かせ、小倉も、この歌を全て覚えてしまった。
彼は、特に松浦の佐用姫の歌が好きで、よく口遊んだそうだ。
秦小倉は、後年、近江甲賀の粟田氏の一族である山上氏の娘と結婚し、姓を山上小倉と改める ―― これが、あの萬葉集に名高い山上憶良である………………かどうかは分からない。
あと少しですべての点検が終わろうかという時、朴市秦田来津から上がってくるよう指示があった。
彼は、指示どおり甲板上に出る。
田来津は川岸に佇み、流れゆく川をじっと眺めていた。
「お呼びですか、田来津様?」
川岸に上がった深草は、田来津に声を掛けた。
「ああ、お前に頼みたいことがあってね」
「はあ……」
田来津は、胸元から一切れの布を取り出す。
「これは、妻が私の無事を思って、襟元に縫い付けてくれた彼女の領巾の片割れなのだが、これに妻への歌が数首書いてある。あっ、待て、もう一首書くのを忘れていた……」
篝火の下、彼はその領巾に、もう一首歌を書き付けた ―― 長津を出航する前日、大伴朴本大国が教えてくれた松浦の佐用姫の歌である。
「これを、妻に渡してくれないか」
深草は、それを受け取った。
が、よく事情が呑み込めない。
「あの……と言いますと?」
「お前は御座船を下り、大国の船に乗ってくれ」
「どうしてですか? なぜです? 私もお供させてください!」
「御座船はおとりだ、命の保障はできない。だから、お前には下りてもらうのだ」
「なぜですか? 私は、長年秦家に仕えてきたのですよ! 主を残して、自分だけ安全な場所へはいけません!」
「深草、長年仕えてきてくれたからこそ、お前には朴市に戻って、安孫子や小倉の力となって欲しいのだ、頼む!」
「田来津様……、田来津様は?」
深草は、涙を零す。
「俺は……死ぬよ………………、明日の戦さでは、多くの死者が出るだろう。武人でもない倭国の良民が、国に徴収され、そして名の知らぬ土地で眠りにつく。将軍の中で、だれか一緒に眠ってやるヤツがいなくては、彼らがあまりにも可哀想じゃないか。それに……、私はあの人を守ることができなかったのだし……」
それは、田来津の人生そのものだった。
弱き者のために力を使い、弱き者のために命を落とす。
父の言葉は、こういうことだったのだと彼は思っていた。
「深草、お前は生きろ! 生きて、再び倭国の土を踏むのだ! そして、妻や小倉に、いや、朴市の人々に伝えるのだ。秦田来津造、弱き者のために生き、弱き者のために死したと、良いな!」
「田来津様……」
深草は泣いた。
田来津も泣いた。
後年、深草は孫たちに話をせがまれると、好んでこの話をしたという。
その時、彼は決まって、最後は涙を流しながら話をしたらしい。
―― さて、件の片割れの領巾だが、安孫子郎女は、毎日のように、これを愛しそうに眺め暮らした。
そして、そこに記された歌を、小倉に子守唄代わりに聞かせ、小倉も、この歌を全て覚えてしまった。
彼は、特に松浦の佐用姫の歌が好きで、よく口遊んだそうだ。
秦小倉は、後年、近江甲賀の粟田氏の一族である山上氏の娘と結婚し、姓を山上小倉と改める ―― これが、あの萬葉集に名高い山上憶良である………………かどうかは分からない。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
白い皇女は暁にたたずむ
東郷しのぶ
歴史・時代
7世紀の日本。飛鳥時代。斎王として、伊勢神宮に仕える大伯皇女。彼女のもとへ、飛鳥の都より弟の大津皇子が訪れる。
母は亡く、父も重病となった姉弟2人の運命は――
※「小説家になろう」様など、他サイトにも投稿しています。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
大兇の妻
hiro75
歴史・時代
宇音美大郎女のもとに急な知らせが入る ―― 夫である蘇我入鹿が亡くなったという。
それが、『女王への反逆』の罪で誅殺されたと聞き、大郎女は屋敷を飛び出し、夫の屋敷へと駆け付けるのだが………………
―― 645年、古代史上の大悪人である蘇我入鹿が、中大兄皇子と中臣鎌足によって誅殺され、大化改新の先駆けとなった。
だが、入鹿は本当に大悪人だったのか?
これは、敗れた者と、その家族の物語である………………
【完結】女神は推考する
仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。
直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。
強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。
まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。
今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。
これは、大王となる私の守る為の物語。
額田部姫(ヌカタベヒメ)
主人公。母が蘇我一族。皇女。
穴穂部皇子(アナホベノミコ)
主人公の従弟。
他田皇子(オサダノオオジ)
皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。
広姫(ヒロヒメ)
他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。
彦人皇子(ヒコヒトノミコ)
他田大王と広姫の嫡子。
大兄皇子(オオエノミコ)
主人公の同母兄。
厩戸皇子(ウマヤドノミコ)
大兄皇子の嫡子。主人公の甥。
※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。
※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。
※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。)
※史実や事実と異なる表現があります。
※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
伊藤とサトウ
海野 次朗
歴史・時代
幕末に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウと、後に初代総理大臣となる伊藤博文こと伊藤俊輔の活動を描いた物語です。終盤には坂本龍馬も登場します。概ね史実をもとに描いておりますが、小説ですからもちろんフィクションも含まれます。モットーは「目指せ、司馬遼太郎」です(笑)。
基本参考文献は萩原延壽先生の『遠い崖』(朝日新聞社)です。
もちろんサトウが書いた『A Diplomat in Japan』を坂田精一氏が日本語訳した『一外交官の見た明治維新』(岩波書店)も参考にしてますが、こちらは戦前に翻訳された『維新日本外交秘録』も同時に参考にしてます。さらに『図説アーネスト・サトウ』(有隣堂、横浜開港資料館編)も参考にしています。
他にもいくつかの史料をもとにしておりますが、明記するのは難しいので必要に応じて明記するようにします。そのまま引用する場合はもちろん本文の中に出典を書いておきます。最終回の巻末にまとめて百冊ほど参考資料を載せておきました。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる