200 / 378
第四章「白村江は朱に染まる」 前編
第5話
しおりを挟む
大化元(六四五)年九月十二日深夜、吉野の寺が、菟田朴室古と高麗宮知を将軍とする政府軍に取り囲まれたのである。
その理由は、古人皇子と蘇我田口川堀臣に謀反の疑いがあったというものだ。
『如何いうことですか、謀反の疑いなどと? 誰がそんなことを言ったのですか、物部殿?』
納得のいかない田来津は、椎子に激しく迫った。
―― 自分は、ずっと古人皇子を見てきた。
彼が、そんなことを企てるはずはない。
『吉備笠殿が、中大兄に上申なされたそうだ。それ以外は分からん』
『なぜです? 古人皇子がそのようなことをする人ではないでしょう。物部殿も、それ位は分かっておられるはずです』
『当然だ。だが、我々はあくまで大王から護衛官の命を受けた身、飛鳥の指示には逆らえん』
そんなことで、田来津の正義感がおさまるはずもない。
彼は飛鳥に飛び、中大兄の補佐役の中臣鎌子に、古人皇子の無実を訴えた。
鎌子は古人皇子を出家させ、吉野に封じ込めた張本人であったが、今回のことは彼も予想外のことであったようだ。
『内臣殿、古人皇子は無実です。あの方が、謀反など起こそうはずはないのです。私は、傍で見てきたので良く分かるのです』
『私も、中大兄様にそう申したのだが、何せ、吉備笠殿の証言があると、聞いても下さらないからなあ』
『無実の者を斬るなど、正義に反します。内臣殿、もう一度、中大兄様に御嘆願下さい』
『しかし、なあ……』
鎌子も、なかなか煮え切らない。
『分かりました。内臣殿が言いづらいのなら、私が直接嘆願します。中大兄様は何処ですか?』
『いや、それはまずい』
田来津は、鎌子の制止も聞かず、大殿の控えの間に入って行った。
そこには、中大兄だけでなく、改新政府の主だった群臣がいた。
『何だ、キサマ! ここは、お前が入れるような所ではないぞ! 無礼者が!』
それは巨勢徳太であったが、田来津は全く眼中にはなかった。
『中大兄様、吉備笠殿が何を言ったかは知りませんが、古人皇子は無実です。確りとしたお調べをお願いします』
田来津は、深々と頭を下げた。
一時の沈黙の後、群臣の間からは笑いが起こった。
不審に思い、顔を上げた。
確かに皆笑っている。
―― 何が可笑しいのだ?
こっちは真剣なのだぞ!
『確か、秦田来津造だったな。古人が、謀反を起こそうが起こすまいが関係はない。我々は、初めからあいつを始末するつもりだったからな』
中大兄の言葉に、田来津は唖然とした。
『古人皇子は、憎き蘇我の血を引いておる。それに、蘇我の残党が彼を奉じて兵を上げんとも限らん。そのために、始末をつけるのだ』
これは、安倍内麻呂の言葉である。
「そんな……、ではなぜ、我々を護衛官に?」
『護衛官ではない、監視役だ。謀反の罪を着せるとは言え、本当に謀反を起こされては敵わん。そのために、お前たちの監視が必要だったのだ』
『監視……、護衛では……? 我らを騙したのですか?』
『騙した? キサマを騙すほど暇ではない。利用したのだ。お前も、中央で名を挙げたいのなら、こんなことでいちいち大殿まで来るな!』
中大兄の言葉に、田来津の怒りが爆発した。
携えていた剣を抜こうと、柄を握り締める。
が、それを止めた手があった ―― 大伴長徳である。
長徳は、田来津を大殿の外に連れ出した。
『堪えろ、田来津。お前が剣を振り回したところで、古人皇子への処分は変わらんぞ』
『しかし、これは正義に反します!』
『お前が大殿で剣を抜けば、それこそ正義に反する。それに、お前だけではない。秦一族も、蘇我のように滅びることになるのだぞ。それでも良いのか?』
長徳の言葉に、田来津は怒りに震える手を下ろすしかなかった。
十一月三十日、改新政府は安倍渠曾倍臣と佐伯部子麻呂を遣わして、古人皇子とその家族、そして蘇我田口川堀を斬らせた。
その日、田来津は全ての役職を退き、朴市へと下った。
これで、出世の道も、希望に輝いた未来も完全に閉ざされたが、それは弱き者を守りきれなかった自分への罰であるとともに、悪が蔓延る中央政界との決別でもあった。
その理由は、古人皇子と蘇我田口川堀臣に謀反の疑いがあったというものだ。
『如何いうことですか、謀反の疑いなどと? 誰がそんなことを言ったのですか、物部殿?』
納得のいかない田来津は、椎子に激しく迫った。
―― 自分は、ずっと古人皇子を見てきた。
彼が、そんなことを企てるはずはない。
『吉備笠殿が、中大兄に上申なされたそうだ。それ以外は分からん』
『なぜです? 古人皇子がそのようなことをする人ではないでしょう。物部殿も、それ位は分かっておられるはずです』
『当然だ。だが、我々はあくまで大王から護衛官の命を受けた身、飛鳥の指示には逆らえん』
そんなことで、田来津の正義感がおさまるはずもない。
彼は飛鳥に飛び、中大兄の補佐役の中臣鎌子に、古人皇子の無実を訴えた。
鎌子は古人皇子を出家させ、吉野に封じ込めた張本人であったが、今回のことは彼も予想外のことであったようだ。
『内臣殿、古人皇子は無実です。あの方が、謀反など起こそうはずはないのです。私は、傍で見てきたので良く分かるのです』
『私も、中大兄様にそう申したのだが、何せ、吉備笠殿の証言があると、聞いても下さらないからなあ』
『無実の者を斬るなど、正義に反します。内臣殿、もう一度、中大兄様に御嘆願下さい』
『しかし、なあ……』
鎌子も、なかなか煮え切らない。
『分かりました。内臣殿が言いづらいのなら、私が直接嘆願します。中大兄様は何処ですか?』
『いや、それはまずい』
田来津は、鎌子の制止も聞かず、大殿の控えの間に入って行った。
そこには、中大兄だけでなく、改新政府の主だった群臣がいた。
『何だ、キサマ! ここは、お前が入れるような所ではないぞ! 無礼者が!』
それは巨勢徳太であったが、田来津は全く眼中にはなかった。
『中大兄様、吉備笠殿が何を言ったかは知りませんが、古人皇子は無実です。確りとしたお調べをお願いします』
田来津は、深々と頭を下げた。
一時の沈黙の後、群臣の間からは笑いが起こった。
不審に思い、顔を上げた。
確かに皆笑っている。
―― 何が可笑しいのだ?
こっちは真剣なのだぞ!
『確か、秦田来津造だったな。古人が、謀反を起こそうが起こすまいが関係はない。我々は、初めからあいつを始末するつもりだったからな』
中大兄の言葉に、田来津は唖然とした。
『古人皇子は、憎き蘇我の血を引いておる。それに、蘇我の残党が彼を奉じて兵を上げんとも限らん。そのために、始末をつけるのだ』
これは、安倍内麻呂の言葉である。
「そんな……、ではなぜ、我々を護衛官に?」
『護衛官ではない、監視役だ。謀反の罪を着せるとは言え、本当に謀反を起こされては敵わん。そのために、お前たちの監視が必要だったのだ』
『監視……、護衛では……? 我らを騙したのですか?』
『騙した? キサマを騙すほど暇ではない。利用したのだ。お前も、中央で名を挙げたいのなら、こんなことでいちいち大殿まで来るな!』
中大兄の言葉に、田来津の怒りが爆発した。
携えていた剣を抜こうと、柄を握り締める。
が、それを止めた手があった ―― 大伴長徳である。
長徳は、田来津を大殿の外に連れ出した。
『堪えろ、田来津。お前が剣を振り回したところで、古人皇子への処分は変わらんぞ』
『しかし、これは正義に反します!』
『お前が大殿で剣を抜けば、それこそ正義に反する。それに、お前だけではない。秦一族も、蘇我のように滅びることになるのだぞ。それでも良いのか?』
長徳の言葉に、田来津は怒りに震える手を下ろすしかなかった。
十一月三十日、改新政府は安倍渠曾倍臣と佐伯部子麻呂を遣わして、古人皇子とその家族、そして蘇我田口川堀を斬らせた。
その日、田来津は全ての役職を退き、朴市へと下った。
これで、出世の道も、希望に輝いた未来も完全に閉ざされたが、それは弱き者を守りきれなかった自分への罰であるとともに、悪が蔓延る中央政界との決別でもあった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
鵺の哭く城
崎谷 和泉
歴史・時代
鵺に取り憑かれる竹田城主 赤松広秀は太刀 獅子王を継承し戦国の世に仁政を志していた。しかし時代は冷酷にその運命を翻弄していく。本作は竹田城下400年越しの悲願である赤松広秀公の名誉回復を目的に、その無二の友 儒学者 藤原惺窩の目を通して描く短編小説です。
蒼穹(そら)に紅~天翔る無敵皇女の冒険~ 四の巻
初音幾生
歴史・時代
日本がイギリスの位置にある、そんな架空戦記的な小説です。
1940年10月、帝都空襲の報復に、連合艦隊はアイスランド攻略を目指す。
霧深き北海で戦艦や空母が激突する!
「寒いのは苦手だよ」
「小説家になろう」と同時公開。
第四巻全23話
本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
小童、宮本武蔵
雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
兵法家の子供として生まれた弁助は、野山を活発に走る小童だった。ある日、庄屋の家へ客人として旅の武芸者、有馬喜兵衛が逗留している事を知り、見学に行く。庄屋の娘のお通と共に神社へ出向いた弁助は、境内で村人に稽古をつける喜兵衛に反感を覚える。実は、弁助の父の新免無二も武芸者なのだが、人気はさっぱりだった。つまり、弁助は喜兵衛に無意識の内に嫉妬していた。弁助が初仕合する顚末。
備考 井上雄彦氏の「バガボンド」や司馬遼太郎氏の「真説 宮本武蔵」では、武蔵の父を無二斎としていますが、無二の説もあるため、本作では無二としています。また、通説では、武蔵の父は幼少時に他界している事になっていますが、関ヶ原の合戦の時、黒田如水の元で九州での戦に親子で参戦した。との説もあります。また、佐々木小次郎との決闘の時にも記述があるそうです。
その他、諸説あり、作品をフィクションとして楽しんでいただけたら幸いです。物語を鵜呑みにしてはいけません。
宮本武蔵が弁助と呼ばれ、野山を駆け回る小僧だった頃、有馬喜兵衛と言う旅の武芸者を見物する。新当流の達人である喜兵衛は、派手な格好で神社の境内に現れ、門弟や村人に稽古をつけていた。弁助の父、新免無二も武芸者だった為、その盛況ぶりを比較し、弁助は嫉妬していた。とは言え、まだ子供の身、大人の武芸者に太刀打ちできる筈もなく、お通との掛け合いで憂さを晴らす。
だが、運命は弁助を有馬喜兵衛との対決へ導く。とある事情から仕合を受ける事になり、弁助は有馬喜兵衛を観察する。当然だが、心技体、全てに於いて喜兵衛が優っている。圧倒的に不利な中、弁助は幼馴染みのお通や又八に励まされながら仕合の準備を進めていた。果たして、弁助は勝利する事ができるのか? 宮本武蔵の初死闘を描く!
備考
宮本武蔵(幼名 弁助、弁之助)
父 新免無二(斎)、武蔵が幼い頃に他界説、親子で関ヶ原に参戦した説、巌流島の決闘まで存命説、など、諸説あり。
本作は歴史の検証を目的としたものではなく、脚色されたフィクションです。
旅路ー元特攻隊員の願いと希望ー
ぽんた
歴史・時代
舞台は1940年代の日本。
軍人になる為に、学校に入学した
主人公の田中昴。
厳しい訓練、激しい戦闘、苦しい戦時中の暮らしの中で、色んな人々と出会い、別れ、彼は成長します。
そんな彼の人生を、年表を辿るように物語りにしました。
※この作品は、残酷な描写があります。
※直接的な表現は避けていますが、性的な表現があります。
※「小説家になろう」「ノベルデイズ」でも連載しています。
織田信長に逆上された事も知らず。ノコノコ呼び出された場所に向かっていた所、徳川家康の家臣に連れ去られました。
俣彦
歴史・時代
織田信長より
「厚遇で迎え入れる。」
との誘いを保留し続けた結果、討伐の対象となってしまった依田信蕃。
この報を受け、急ぎ行動に移した徳川家康により助けられた依田信蕃が
その後勃発する本能寺の変から端を発した信濃争奪戦での活躍ぶりと
依田信蕃の最期を綴っていきます。
三國志 on 世説新語
ヘツポツ斎
歴史・時代
三國志のオリジンと言えば「三国志演義」? あるいは正史の「三國志」?
確かに、その辺りが重要です。けど、他の所にもネタが転がっています。
それが「世説新語」。三國志のちょっと後の時代に書かれた人物エピソード集です。当作はそこに載る1130エピソードの中から、三國志に関わる人物(西晋の統一まで)をピックアップ。それらを原文と、その超訳とでお送りします!
※当作はカクヨムさんの「世説新語 on the Web」を起点に、小説家になろうさん、ノベルアッププラスさん、エブリスタさんにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる