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第三章「皇女たちの憂鬱」 中編
第18話
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間人皇女は、差し込んでくる温かい光の中に、女の姿を見ていた。
―― ああ……、天女かしら?
「間人様、お加減は宜しいですか?」
それは、彼女の聞き覚えのある声だ。
「私……、どうして……?」
「寸前のところでしたわ。もう少し遅ければ、危ういところでした」
その声は、中大兄の妻 ―― 倭姫王の声である。
間人皇女は、紀温湯の仮宮の、彼女の寝室に寝かされていた。
この数時間前、有間皇子のもとに逝こうと毒を煽ったのであるが、たまたま彼女の様子を見に来た倭姫王によって、一命を取り止めたのである。
涙が溢れてきた。
―― もう少しで有間様のもとに行けたのに、また、私たちは引き裂かれたんだわ………………
「侍女や薬師には、私の方から固く口止めをしておきましたから、他に漏れることもないと思いますが……」
「どうして? どうして私を助けたの? どうして死なせてくれなかったの?」
「間人様……」
それは、倭姫王にも分からなかった。
だが、彼女を逝かせてはいけない気がした。
ただ、それだけだ。
「どうして? どうして?」
「間人様、あなたが亡くなられても、有間様は喜びませんわ。有間様なら、こう言うはずです、私の分も生きてくださいと」
「違うわ! 違う! あの方は言ったの、誰も私たちを引き裂くことはできないと!」
「体は繋がっていなくとも、心は繋がっているはずです、間人様」
それは、まさしく有間皇子の言葉だった。
「間人様、あなたのお気持ち、痛いほど分かります。私も、愛する人を失いましたから。私は、愛する人を怨みました。なぜ、私を呼んでくださらないのかと。でも、分かったのです。残された者には、残された者の定めがあるのだと」
「定め?」
「そう、定めです。私の定めは、父の恨みを晴らすこと。ただ、そのためだけに生きているのだと。それは、何と辛い人生でしょうか? 何と、悲しい人生でしょうか? それでも、私には、それが生きるための支えなのです」
「倭姫様……」
「間人様、生きてください、有間様のために」
間人様の目から、再び涙が溢れた。
「失礼します。ただいま、丹比小沢様がお見えになり、間人様にお渡しになるようにと」
侍女が差し出したのは、二枚の木簡である。
それは、有間皇子の辞世の歌であった。
磐代の 濱松が枝を 引き結び
眞幸くあらば また還り見む
(磐代の浜松の枝を引き結んで幸せを祈ったので、
命があれば、再び帰ってこれを見よう)
(『萬葉集』巻第二)
家にあれば 笥に盛る飯を
草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいると笥に盛る飯を、
旅に出れば、椎の葉に盛って食べることだよ)
(『萬葉集』巻第二)
悲しい定めを背負った二人の女の嗚咽が、部屋中に木霊した。
「倭姫様、お願いがあります。私の歌を、有間様のお墓にお供えしてください」
間人皇女の懇願により、倭姫王は、彼女の歌を書き取った。
君が代も 我が代も知るや
磐代の 岡の草根を いざ結びてな
(あなたの寿命も、私の寿命も知っている磐代の岡の草を、
さあ結びましょう、幸せを祈るために)
(『萬葉集』巻第一)
我が背子は 假廬作らす
草無くは 小松が下の 草を刈らさぬ
(私の愛しい人は、仮廬を作っていらっしゃる
茅がないのなら、小松の下の茅をお刈りなさい)
(『萬葉集』巻第一)
わが欲りし 野島は見せつ 底深き
阿胡根の浦の 珠そ拾はぬ
(私が見たかった野島を、あなたは見せてくださいました
阿胡根の浦の珠は拾えなかったのが残念でしたが)
(『萬葉集』巻第一)
有間皇子事件から四ヵ月後、有間皇子とともに謀反を計画した安倍臣に、再び蝦夷征伐の命令が下る。
都から辺境の地へ遠ざける ―― これが、有間事件に対する中大兄の制裁であった。
―― ああ……、天女かしら?
「間人様、お加減は宜しいですか?」
それは、彼女の聞き覚えのある声だ。
「私……、どうして……?」
「寸前のところでしたわ。もう少し遅ければ、危ういところでした」
その声は、中大兄の妻 ―― 倭姫王の声である。
間人皇女は、紀温湯の仮宮の、彼女の寝室に寝かされていた。
この数時間前、有間皇子のもとに逝こうと毒を煽ったのであるが、たまたま彼女の様子を見に来た倭姫王によって、一命を取り止めたのである。
涙が溢れてきた。
―― もう少しで有間様のもとに行けたのに、また、私たちは引き裂かれたんだわ………………
「侍女や薬師には、私の方から固く口止めをしておきましたから、他に漏れることもないと思いますが……」
「どうして? どうして私を助けたの? どうして死なせてくれなかったの?」
「間人様……」
それは、倭姫王にも分からなかった。
だが、彼女を逝かせてはいけない気がした。
ただ、それだけだ。
「どうして? どうして?」
「間人様、あなたが亡くなられても、有間様は喜びませんわ。有間様なら、こう言うはずです、私の分も生きてくださいと」
「違うわ! 違う! あの方は言ったの、誰も私たちを引き裂くことはできないと!」
「体は繋がっていなくとも、心は繋がっているはずです、間人様」
それは、まさしく有間皇子の言葉だった。
「間人様、あなたのお気持ち、痛いほど分かります。私も、愛する人を失いましたから。私は、愛する人を怨みました。なぜ、私を呼んでくださらないのかと。でも、分かったのです。残された者には、残された者の定めがあるのだと」
「定め?」
「そう、定めです。私の定めは、父の恨みを晴らすこと。ただ、そのためだけに生きているのだと。それは、何と辛い人生でしょうか? 何と、悲しい人生でしょうか? それでも、私には、それが生きるための支えなのです」
「倭姫様……」
「間人様、生きてください、有間様のために」
間人様の目から、再び涙が溢れた。
「失礼します。ただいま、丹比小沢様がお見えになり、間人様にお渡しになるようにと」
侍女が差し出したのは、二枚の木簡である。
それは、有間皇子の辞世の歌であった。
磐代の 濱松が枝を 引き結び
眞幸くあらば また還り見む
(磐代の浜松の枝を引き結んで幸せを祈ったので、
命があれば、再び帰ってこれを見よう)
(『萬葉集』巻第二)
家にあれば 笥に盛る飯を
草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいると笥に盛る飯を、
旅に出れば、椎の葉に盛って食べることだよ)
(『萬葉集』巻第二)
悲しい定めを背負った二人の女の嗚咽が、部屋中に木霊した。
「倭姫様、お願いがあります。私の歌を、有間様のお墓にお供えしてください」
間人皇女の懇願により、倭姫王は、彼女の歌を書き取った。
君が代も 我が代も知るや
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(あなたの寿命も、私の寿命も知っている磐代の岡の草を、
さあ結びましょう、幸せを祈るために)
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有間皇子事件から四ヵ月後、有間皇子とともに謀反を計画した安倍臣に、再び蝦夷征伐の命令が下る。
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