法隆寺燃ゆ

hiro75

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第三章「皇女たちの憂鬱」 前編

第23話(了)

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 別に、間人大后は飛鳥派でもなければ、中大兄と人に言えないような仲と言うわけでもない。

 確かに、難波よりも飛鳥の方が好きだ。

 それに、兄とも周囲がからかうほど仲がよかったが、兄妹を脱するような関係ではなかったし、彼女も彼のことを何とも想っていなかった。

 飛鳥に赴いた時も兄から、『母が病らしく、見舞いに行こう』と連れ出され、そのまま飛鳥の地に幽閉状態になったのが、本当のところである。

 だが中大兄の方では、彼女を妹としてではなく、ひとりの女として見ていたようだ。

 彼が、間人大后を飛鳥に連れて行ったのは、軽大王派とやりあう際は、間人大后を奉じて戦おうとの考えもあったのだが、一方で彼女を軽大王から奪い去ってしまいたいという気持ちがあったらしい。

 飛鳥に流れている噂だと、侍女から聞いたことがる。

 だから、飛鳥から出て、難波に戻ってもよかったのだが………………

 歌を見た彼女は、軽大王を慕うどころか、逆に失望してしまった。

 ―― それほど私のことを案じて下さっていたなら、こんな歌を詠うよりも、飛鳥まで奪いに来て下さればよかったのに………………

    この歌も私に送ることなく、自分でお持ちになっていたなんて、陰湿だわ。

 女とは、時に優しさや凝った贈り物よりも、強さや直接の行為を求めるものである。

 間人大后は、今まで人を愛したことはなかった。

 もちろん、父や母、兄や弟のことは愛している。

 ここで言う愛とは、異性に対する愛 ―― 即ち男女の愛である。

 三十以上も年が離れている軽大王は、彼女の対象外である。

 そこにあったのは大后としての義務の愛であり、年上に対する労わりの愛であった。

 ―― 人を愛するとはどういうことだろう?

    どうやったら、人を愛することができるのだろ?

 母は、若い時に激しい恋をしたという。

 その相手が父ではないと知った時は少し悲しかったが、自分も母のような恋ができるのだろうと、心を躍らせたものだった。

 だが、彼女は激しい恋をする前に、人の妻となった。

 私は、もう人を愛することはないのだろうか?

 そう思うと、彼女は居た堪れなくなり、静かに席を立った。

 それに気付いたのは、有間皇子と宝皇女だけだ。

 大殿の外に出た。

 東の空が白んでいく。

 彼女は大きく息をした。

 明け方の空気は、冷たくて美味しい。

 大殿から、号泣の合唱が聞こえてくる。

 白雉五(六五四)年十月十日、蘇我氏を滅ぼし、大化改新という大事業を成し遂げた偉人は、静かに息を引き取った。

 国風諡号は天萬豊日天皇あめよろずとよひのすめらみこと、漢風諡号は孝徳天皇である。

「大后様、大王様がご崩御遊ばされました。中へお入り下さい」

 采女が、間人大后を呼びに来た。

「分かりました。いま参ります」

 彼女は大殿の中に入りかけ、もう一度東の空を見た。

 新しい日が昇る。

 彼女は、初めて一筋の涙を流した。

 それは軽大王への涙ではなく、全ての呪縛から解かれたという涙であった。

 (第三章 前編 了)
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