法隆寺燃ゆ

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第三章「皇女たちの憂鬱」 前編

第20話

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「ところで、どうなさったの、これ?」

 額田姫王は、酒で口を潤した後に、机の上の木簡を指差した。

「集めていた歌を整理しようと思って、随分溜まっていたのもだから。でも、こうやって引っ張り出すと、詠んだ時の想い出が蘇るわね」

「そうね……、あら、これは?」

 額田姫王は、一枚の木簡を手にした。



  妹が家も 継ぎて見ましを

    大和なる 大島の嶺に 家もあらましを

  (妻の家をずっと見ることができるのに、

   大島の嶺に私の家があるのなら)

  (『萬葉集』巻第二)



「ああ、それは初めて中大兄様から頂いた歌ね」

「えっ、本当? なんだか感動ね。それで、何てお返ししたの?」

 額田姫王は目を輝かせている。

「ええっと、確か……」

 鏡姫王は首をちょっと傾げ、



  秋山の 樹の下隠り 逝く水の

    われこそさめ 御思よりは

  (秋山の木の下を隠れて流れる水のかさが増すように、

   私の方の想いが増さっておりますでしょうに、

   あなたが想っているよりは)

  (『萬葉集』巻第二)



「それって、ちょっと厳しい歌ね」

「いいのよ。中大兄様は、あなたの代わりに、私を妻にしたのだから」

 中大兄が額田姫王に婚姻を申し込んだことはあったが、彼女は彼の弟を夫として選んだ。

 中大兄はその後、姉の鏡姫王を妻としたが、姉としては、それは妹に対する腹いせとも、また妹の代わりともとれ、いい気分はしなかったのである。

 額田姫王も、姉のそんな気持ちは重々分かっていたが、いままで面と向かって話し合うこともなかった。

「ごめんなさい」

 素直に謝った。

「あっ、ごめんなさい、そんな意味で言った訳ではないのよ。私も幸せだったし、皇子の妻になれたのだし、贅沢もできたし。でもね……、やっぱりそんなことでは満たされないのね」

 二人の間に、気まずい空気が流れる。

 十市皇女は、庭の草木を見て回っている。

 額田姫王は話を変えようと、傍の木簡に目をやった。

 そこには、太いく、硬い文字があった。

「まあ、これは、ちょっと恥ずかしくない?」



  玉くしげ みむろの山の さなかづら

    さ寝ずはつひに ありかつましじ

  (三輪山の真葛のように、あなたと寝なければ、

   結局そのまま耐えられないでしょう)

  (『萬葉集』巻第二)



「ああ、これはね、鎌子様が初めて下さった歌なの」

 鏡姫王は、愛しそうにその木簡を手にする。

「好きだと言う気持ちは伝わってくるけど、歌としてはね……」

 と、妹は辛辣な言葉を浴びせた。

「これはね、私が出した婚姻の条件のひとつなの、歌を毎日作って送るように、と。どうせ鎌子様は、私を中大兄様からの預かりものとしか見ないだろうと思ったから。だから、ちょっとした意地悪でね。鎌子様、歌が苦手だとお聞きしていたから」

「それで、その答えは?」



 玉くしげ 覆ふを安み 開けて行かば

   君が名はあれど わが名し惜しも

 (櫛を入れる箱の蓋を開けるように簡単に、

  お泊りになって夜が明けてから帰られるならば、

  あなたの名はともかく、私の名が噂に立って口惜しいです)

 (『萬葉集』巻第二)



「これは、いまでもはっきりと覚えているの、ひどい歌を返してしまったって」

「いいじゃない? あなたに興味はありませんって、はっきり言えたのでしょう?」

「はじめはね、私もそう思っていたのだけれども、毎日あの人の歌を見るとね……、ああ、今日も一生懸命考えていらっしゃったのだろうなとか、私のことを強く想って書いていらっしゃるのだろうな……とか思えてきてね、そしたら何だか、この素直な歌も、不恰好な文字も、愛しく想えてきたの。それからかな、あの人のことを想っている自分に気が付いたのわ」

「お姉様、内臣うちつのおみ様(鎌子)を愛していらっしゃるの?」

「愛? 愛ではないかもしれない。でも、愛になるかもしれない……と言ったところかしら」

 額田姫王は、姉の幸せを願っていた。

 ―― 私が大海人様についたために、姉は中大兄様と愛のない夫婦生活を送ってしまった。

    そしていま、物のように他人に譲られた。

    姉の不幸の原因は、私にもあるのだ。

    だから、今度の夫婦生活だけは成功して欲しい………………

 額田姫王は、鎌子と面と向かって話をしたことはないが、いつも額に汗して難波を忙しく走り回っている姿を見ると、要領は良くなさそうだが、実直な印象を受けていた。

 鎌子の歌を目の当たりにして、その印象は間違いではなかったと思う。

 内臣様なら、必ず姉を幸せにしてくれると………………
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