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第三章「皇女たちの憂鬱」 前編
第7話
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そんな幸せな人生の歯車が狂い始めたのは、彼女の叔父にあたる田村皇子が大王候補にと目されるようになった頃からである。
大王になった場合、大后を立てる必要があり、大后には皇族しかなることが許されていなかった。
田村皇子には、蘇我馬子の娘の法提郎媛と、吉備国の蚊屋采女の2人の妻がいたが、何れも大后にはなれない。
となると、何処からか皇女を持ってこなくてはならない。
この時、田村皇子が指名したのが宝皇女である。
なぜ、彼は並みいる皇女の中で、宝皇女を指名したのか。
恐らくは、彼と同じ敏達天皇の血を父方から受け継ぎ、用明天皇の血を母方から受け継ぐという誉れ高い血統を持つ宝皇女を妻に待つことで、自分の大王としての正統性を主張したかったのであろう。
また、彼女自身は否定するかもしれないが、その美しさが、その選定要因の一つであったことは言うまでもあるまい。
宝皇女の父茅渟王は、当初この話を断った。
娘の幸せを、無理に壊す親が何処にいようか?
が、田村皇子からの再三の要請と、茅渟王の男としての野心が、徐々に彼の気持ちを変化させていった。
もし宝皇女が大后となれば、自分は大后の父として、そして孫が大王になれば大王の祖父として牽制を振るうことができるのではないか!
政治の片隅に追いやられていた自分だが、ようやく幸運が舞い降りて来たのだと。
彼は、はじめに母親から説得してもらおうと、吉備姫王に相談したのだが、彼女は、『馬鹿を仰い』と取り合わなかった。
次は、直接娘の説得にあたったが、幸せの絶頂にある宝皇女がそんな馬鹿げた話を聞く訳もなかった。
そのことを、宝皇女は高向王に話した。
『本当に、人を馬鹿にしている話だと思いません?』
彼女は、こんな話も夫なら一笑に付してしまうだろうと思っている。
誰も、私たちの仲を引き裂くことはできませんよ………………と、甘い言葉を使って彼女を安心させてくれ、優しく抱いてくれるだろう。
それとも、田村皇子に嫉妬して、誰にもあなたを渡さないと、激しく抱いてくれるかもしれない。
幾分身体の芯を火照らせながら、彼女は夫の返答を待った。
高向王は、宝皇女に顔を向けた。
そこに、春の日の柔らかな日差しを思わせるような穏やかな彼の顔はなかった。
まるで、今にも降り出しそうな曇天を見上げる不安げな男がいた。
夫の意外な反応に、妻は動揺した。
『あ、あなた……、ど、どうなされたのですか?』
『あっ、いえ……、そうですか、そのようなことを……』
『あ、あなた?』
男は、悪夢から覚めたようにはっとして、いつもの優しい笑みを零した。
『大丈夫、私たちの仲を引き裂くことはできませんよ』
そう言って優しく抱きしめ、そのまま寝台へと倒れこんだ。
優しかった。
優しい愛撫であった。
が、いつもとどこか違う。
いつもは、まるで宝物のように、それが自分にとって何よりも大切な宝物のように、熱を込め、ときに激しさで壊れそうになるぐらいに、誰にも渡すまいと、肉体の隅から隅まで愛してくれる。
だが今日は、確かに宝物であることは違いないのだが、それはまるで預かり物のように、壊れてしまうことを恐れ、触れることさえも恐れて、気が無いような愛し方だった。
終わったあと、彼女は恐る恐る尋ねた。
『あの……、お気を悪くなされて? あんなこと話してしまって……』
男は、しばし女を見つめながら考え事をしていたようだが、ふっと笑い、
『いえ、大丈夫です』
油皿の炎が消え去るように静かに言うと、宝皇女の屋敷をあとにした。
―― うそ!
宝皇女は、夫の後ろ姿を黙って見送った。
大王になった場合、大后を立てる必要があり、大后には皇族しかなることが許されていなかった。
田村皇子には、蘇我馬子の娘の法提郎媛と、吉備国の蚊屋采女の2人の妻がいたが、何れも大后にはなれない。
となると、何処からか皇女を持ってこなくてはならない。
この時、田村皇子が指名したのが宝皇女である。
なぜ、彼は並みいる皇女の中で、宝皇女を指名したのか。
恐らくは、彼と同じ敏達天皇の血を父方から受け継ぎ、用明天皇の血を母方から受け継ぐという誉れ高い血統を持つ宝皇女を妻に待つことで、自分の大王としての正統性を主張したかったのであろう。
また、彼女自身は否定するかもしれないが、その美しさが、その選定要因の一つであったことは言うまでもあるまい。
宝皇女の父茅渟王は、当初この話を断った。
娘の幸せを、無理に壊す親が何処にいようか?
が、田村皇子からの再三の要請と、茅渟王の男としての野心が、徐々に彼の気持ちを変化させていった。
もし宝皇女が大后となれば、自分は大后の父として、そして孫が大王になれば大王の祖父として牽制を振るうことができるのではないか!
政治の片隅に追いやられていた自分だが、ようやく幸運が舞い降りて来たのだと。
彼は、はじめに母親から説得してもらおうと、吉備姫王に相談したのだが、彼女は、『馬鹿を仰い』と取り合わなかった。
次は、直接娘の説得にあたったが、幸せの絶頂にある宝皇女がそんな馬鹿げた話を聞く訳もなかった。
そのことを、宝皇女は高向王に話した。
『本当に、人を馬鹿にしている話だと思いません?』
彼女は、こんな話も夫なら一笑に付してしまうだろうと思っている。
誰も、私たちの仲を引き裂くことはできませんよ………………と、甘い言葉を使って彼女を安心させてくれ、優しく抱いてくれるだろう。
それとも、田村皇子に嫉妬して、誰にもあなたを渡さないと、激しく抱いてくれるかもしれない。
幾分身体の芯を火照らせながら、彼女は夫の返答を待った。
高向王は、宝皇女に顔を向けた。
そこに、春の日の柔らかな日差しを思わせるような穏やかな彼の顔はなかった。
まるで、今にも降り出しそうな曇天を見上げる不安げな男がいた。
夫の意外な反応に、妻は動揺した。
『あ、あなた……、ど、どうなされたのですか?』
『あっ、いえ……、そうですか、そのようなことを……』
『あ、あなた?』
男は、悪夢から覚めたようにはっとして、いつもの優しい笑みを零した。
『大丈夫、私たちの仲を引き裂くことはできませんよ』
そう言って優しく抱きしめ、そのまま寝台へと倒れこんだ。
優しかった。
優しい愛撫であった。
が、いつもとどこか違う。
いつもは、まるで宝物のように、それが自分にとって何よりも大切な宝物のように、熱を込め、ときに激しさで壊れそうになるぐらいに、誰にも渡すまいと、肉体の隅から隅まで愛してくれる。
だが今日は、確かに宝物であることは違いないのだが、それはまるで預かり物のように、壊れてしまうことを恐れ、触れることさえも恐れて、気が無いような愛し方だった。
終わったあと、彼女は恐る恐る尋ねた。
『あの……、お気を悪くなされて? あんなこと話してしまって……』
男は、しばし女を見つめながら考え事をしていたようだが、ふっと笑い、
『いえ、大丈夫です』
油皿の炎が消え去るように静かに言うと、宝皇女の屋敷をあとにした。
―― うそ!
宝皇女は、夫の後ろ姿を黙って見送った。
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