法隆寺燃ゆ

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第三章「皇女たちの憂鬱」 前編

第4話

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 宝皇女は、普段の彼女では有り得ないほど、の人を見つめた。

 彼は、ゆっくりと彼女のもとに歩いてくる。

 目を逸らすことができない。

 貴人は彼女の傍まで来ると、彼女の耳元近くに咲いていた橘に手を伸ばし、そのまま顔を近づける。

 顔の近くに、彼の顔がある。

 微かに橘の香りがした。

 美しい顔が傍にあることと、その香りに陶酔していた。

『申し訳ありません、あまりにも芳しい橘の香りがしたものですから、黙って入って来てしまったのです』

 男は言った。

 その瞬間、宝皇女は、自分の置かれている立場に赤面し、顔を覆った。

 父や弟を除けば、こんなに近くで異性と話したことなどない。

『なぜ、お顔を御隠しになるのです?』

『いやです、恥ずかしいもの。見ないで下さい』

『恥ずかしがることはありませんよ、あなたは美しい』

『嘘をおっしゃらないで、私が美しいなんて……』

『いえ、あなたは美しい。さあ、その愛くるしい顔を見せてください』

 男は、彼女の手を取り、無理やり抱きかかえる。

 抵抗したが、男の力に勝てようはずもなく、真赤になった顔を彼の前にさらした。

『ああ、やはり思ったとおりだ、あなたは橘の精だったのですね。ここに足を踏み入れた時、木の下で佇むあなたを見って、この世の人ではない神々しさを感じたのですよ』

『あなた様はいったい……』

 宝皇女は小さく身を捩るが、その度に男の手が強く抱きしめてくるのが分かった。

『私は……、霍公鳥』

『霍公鳥?』

『そう、この庭の橘の香りに誘われて舞い降りて来たのです』

 どこかで霍公鳥の声がする。

 二人は、顔を見合わせた。

『ほらね』

 それが可笑しかった。

 宝皇女は笑い出し、男も笑った。

『ごめんなさい、余にも可笑しかったから』

『ははは、そうですね』

『あの、もういいですか? その……、ちょっと痛くて……』

 宝皇女が逃げようとする度に男が力を入れるので、彼女はひどく痛かった。

 と同時に、その大きな手に抱きしめられて、心地良くもある。

『もう、その可愛らしいお顔を覆ったりしませんか?』

『ええ、ですから』

 彼は、ゆっくりと手を離した。

 彼女は、人心地付いた。

 男は、また橘に顔を寄せ、香りを楽しむ。

 宝皇女は、ゆっくりと男を見る。

 背が高い ―― 彼女の首二つ分ぐらいはあろうか。

 着物の上からでも、肉付きがいいのが分かった。

『あの……、橘、お好きなのですか?』

『ええ、祖父が好きで屋敷に植えていたのですが、その影響で。でも、こんなに美しく、芳しい橘は初めてです』

『そうですか……、あの……』

 宝皇女は、男の名を訊きたかった。

 だが、これまで男性経験のない彼女にとって、それは至難のことである。

『ああ、もう行かなくては』

『えっ、あの……』

 もしかしたら、もう会うことはできないかもしれない。

 いましかない、名を訊かなくては ―― 名は………………?

『また、この香りに誘われて、降りて来てもよろしいですか? 橘の君』

 男は、そっと宝皇女の顔に触れた。

『はい……、いつでもお待ちしております、霍公鳥様』

 男は微笑む。

 そして、彼女にゆっくりと顔を近づける。

 彼女も目を瞑り、その瞬間を待った。

 それは、一瞬のことであった………………が、彼女には、それが永遠に続くものと思われた。

 彼女が目を開けた時には、男の姿はなかった。

 遠くで、霍公鳥が鳴いた。
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