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第二章「槻の木の下で」 後編
第9話
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あの日以来、弟成は、八重女の顔をまともに見ることはできなかった。
彼女の顔を見ると、どうしても彼女の僅かにふくらみはじめた胸のことを思い出してしまう。
逆に、八重女の方は、その弟成の感情を知ってか知らずか、彼に頻繁に声を掛けるようになった。
弟成にとって、八重女のそんな態度は迷惑だったが、弟成と一緒にいる黒万呂は、むしろ八重女と話す機会が増えたので喜んでいた。
そして話をする度に、彼女の境遇が分かってきた。
彼女には家族がいなかった。
気付いた時には、たった一人で斑鳩寺の中門の屋根瓦から落ちる雨水を見ていたらしい。
彼女は、その時の雨音を、いまでもはっきりと覚えているらしい。
その後、彼女は寺と上宮王家の計らいで、山背王の祖母、即ち厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女の屋敷(中宮)の奴婢として貰われたのだ。
彼女は、中宮の奴婢たちから大変優しくされたようで、彼らのことを本当の家族のように思っていた。
だから、離れ離れになった時は、涙が溢れてしまったようだ。
それが、弟成と黒万呂が、初めて松の下に佇む彼女を見た時の情景だったのだ。
「そうか……、そうやったんや……」
黒万呂は、しょんぼりした口調で言った。
それが余にも寂しそうな様子だったので、傍で聞いていた弟成も沈んだ気持ちになってしまった。
が、黒万呂は持ち前の明るさがある。
「でも大丈夫や! 今度は、俺らが新しい家族になったるよ」
黒万呂は、人懐っこい笑顔を八重女に見せた。
「そうやね」
八重女も笑った。
弟成は、彼女の大きな目を見た。
その目は、彼に微笑み掛けているようだった。
煩かった蝉の鳴き声も日に日に弱まり、気付いた時には、田んぼの上を蜻蛉が飛び回る季節となっていた。
今年は、稲のできもまあまあのようで、一年を何とか過ごせるだけの収穫が期待できた。
稲刈りは、寺の家人・奴婢総出で行う。
弟成も、黒万呂とともに田んぼに足を突っ込んで、稲を刈った。
他の田んぼには、八重女や稲女たちの姿も見え隠れしていた。
田の作業が一段落すると、今度は山に入ってその恵みを収穫する。
弟成も、黒万呂と連れ立って山に入った。
山は、あちらこちらに宝物が転がっていた。
木にアケビが巻き付いている。
黒万呂はその実を二つ取って、ひとつを弟成に手渡した。
弟成は口に含む。
含んだ瞬間、甘さが口一杯に広がった………………顔がとろけそうになった。
黒万呂も同じだ………………彼の顔は、既にとろけていた。
弟成は、もっと甘さを味わおうと口を動かした。
その瞬間、今度はなんとも言えない渋みが広がった。
彼は、渋さのあまり、それを吐き出してしまった。
「はははっ、種咬んだんやろ」
黒万呂は、口をもごもごさせている弟成の顔見て笑った。
だが、その彼も、
「あっ……、俺も種咬んだ。うわ、不味い」
と、吐き出してしまった。
子供たちは、まるで地面とにらめっこをするように、ゆっくりと歩いて木の実を探している。
その中に、稲女の姿があった。
彼女も地面ばかり見て、頭の上に甘い実がなっていることに気付いていないようだ。
弟成は、アケビを二つもぎ取ると、彼女の下に走り寄った。
「稲女、アケビを見つけたからあげる」
「ほんま! 嬉しい、ありがとう」
稲女は、目を輝かせて受け取ると、それを頬張った。
弟成は、周囲を見回した。
しかし、そこにはいるべき人がいない。
「あれ、八重女は?」
黒万呂も、アケビを数個手に持って駆けつけた。
「うん、よく分からへんけど、上の人呼ばれて、お寺に行っちゃたの」
「なんや、折角アケビを見つけたのにな。まあええわ、これ持って帰ってやろう」
どうやら黒万呂は、八重女のためにアケビを持って来たようだ。
弟成も、手に一つアケビを持っていた。
勿論、目的は黒万呂と同じだ。
でも、彼は黒万呂のように思ったことをはっきりと行動にするような子どもではない。
「稲女、もう一個やるわ」
彼は、稲女に八重女のアケビを差し出した。
「ええの? ありがとう」
稲女は、もうひとつアケビを受け取ると、またそれを頬張った。
「甘い、美味しい」
稲女は、顔一杯に甘さを表現した。
その仕草は、ちょっと可愛らしく思えた。
その後、八重女と会うことはなかった。
斑鳩寺は、奴婢の人員削減のため、数十人を市場に売りに出した。
その中に、八重女が含まれていたと弟成が知ったのは、吐く息が白くなり始めた頃のことであった。
彼女の顔を見ると、どうしても彼女の僅かにふくらみはじめた胸のことを思い出してしまう。
逆に、八重女の方は、その弟成の感情を知ってか知らずか、彼に頻繁に声を掛けるようになった。
弟成にとって、八重女のそんな態度は迷惑だったが、弟成と一緒にいる黒万呂は、むしろ八重女と話す機会が増えたので喜んでいた。
そして話をする度に、彼女の境遇が分かってきた。
彼女には家族がいなかった。
気付いた時には、たった一人で斑鳩寺の中門の屋根瓦から落ちる雨水を見ていたらしい。
彼女は、その時の雨音を、いまでもはっきりと覚えているらしい。
その後、彼女は寺と上宮王家の計らいで、山背王の祖母、即ち厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女の屋敷(中宮)の奴婢として貰われたのだ。
彼女は、中宮の奴婢たちから大変優しくされたようで、彼らのことを本当の家族のように思っていた。
だから、離れ離れになった時は、涙が溢れてしまったようだ。
それが、弟成と黒万呂が、初めて松の下に佇む彼女を見た時の情景だったのだ。
「そうか……、そうやったんや……」
黒万呂は、しょんぼりした口調で言った。
それが余にも寂しそうな様子だったので、傍で聞いていた弟成も沈んだ気持ちになってしまった。
が、黒万呂は持ち前の明るさがある。
「でも大丈夫や! 今度は、俺らが新しい家族になったるよ」
黒万呂は、人懐っこい笑顔を八重女に見せた。
「そうやね」
八重女も笑った。
弟成は、彼女の大きな目を見た。
その目は、彼に微笑み掛けているようだった。
煩かった蝉の鳴き声も日に日に弱まり、気付いた時には、田んぼの上を蜻蛉が飛び回る季節となっていた。
今年は、稲のできもまあまあのようで、一年を何とか過ごせるだけの収穫が期待できた。
稲刈りは、寺の家人・奴婢総出で行う。
弟成も、黒万呂とともに田んぼに足を突っ込んで、稲を刈った。
他の田んぼには、八重女や稲女たちの姿も見え隠れしていた。
田の作業が一段落すると、今度は山に入ってその恵みを収穫する。
弟成も、黒万呂と連れ立って山に入った。
山は、あちらこちらに宝物が転がっていた。
木にアケビが巻き付いている。
黒万呂はその実を二つ取って、ひとつを弟成に手渡した。
弟成は口に含む。
含んだ瞬間、甘さが口一杯に広がった………………顔がとろけそうになった。
黒万呂も同じだ………………彼の顔は、既にとろけていた。
弟成は、もっと甘さを味わおうと口を動かした。
その瞬間、今度はなんとも言えない渋みが広がった。
彼は、渋さのあまり、それを吐き出してしまった。
「はははっ、種咬んだんやろ」
黒万呂は、口をもごもごさせている弟成の顔見て笑った。
だが、その彼も、
「あっ……、俺も種咬んだ。うわ、不味い」
と、吐き出してしまった。
子供たちは、まるで地面とにらめっこをするように、ゆっくりと歩いて木の実を探している。
その中に、稲女の姿があった。
彼女も地面ばかり見て、頭の上に甘い実がなっていることに気付いていないようだ。
弟成は、アケビを二つもぎ取ると、彼女の下に走り寄った。
「稲女、アケビを見つけたからあげる」
「ほんま! 嬉しい、ありがとう」
稲女は、目を輝かせて受け取ると、それを頬張った。
弟成は、周囲を見回した。
しかし、そこにはいるべき人がいない。
「あれ、八重女は?」
黒万呂も、アケビを数個手に持って駆けつけた。
「うん、よく分からへんけど、上の人呼ばれて、お寺に行っちゃたの」
「なんや、折角アケビを見つけたのにな。まあええわ、これ持って帰ってやろう」
どうやら黒万呂は、八重女のためにアケビを持って来たようだ。
弟成も、手に一つアケビを持っていた。
勿論、目的は黒万呂と同じだ。
でも、彼は黒万呂のように思ったことをはっきりと行動にするような子どもではない。
「稲女、もう一個やるわ」
彼は、稲女に八重女のアケビを差し出した。
「ええの? ありがとう」
稲女は、もうひとつアケビを受け取ると、またそれを頬張った。
「甘い、美味しい」
稲女は、顔一杯に甘さを表現した。
その仕草は、ちょっと可愛らしく思えた。
その後、八重女と会うことはなかった。
斑鳩寺は、奴婢の人員削減のため、数十人を市場に売りに出した。
その中に、八重女が含まれていたと弟成が知ったのは、吐く息が白くなり始めた頃のことであった。
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