法隆寺燃ゆ

hiro75

文字の大きさ
上 下
118 / 378
第二章「槻の木の下で」 後編

第9話

しおりを挟む
 あの日以来、弟成は、八重女の顔をまともに見ることはできなかった。

 彼女の顔を見ると、どうしても彼女の僅かにふくらみはじめた胸のことを思い出してしまう。

 逆に、八重女の方は、その弟成の感情を知ってか知らずか、彼に頻繁に声を掛けるようになった。

 弟成にとって、八重女のそんな態度は迷惑だったが、弟成と一緒にいる黒万呂は、むしろ八重女と話す機会が増えたので喜んでいた。

 そして話をする度に、彼女の境遇が分かってきた。

 彼女には家族がいなかった。

 気付いた時には、たった一人で斑鳩寺の中門の屋根瓦から落ちる雨水を見ていたらしい。

 彼女は、その時の雨音を、いまでもはっきりと覚えているらしい。

 その後、彼女は寺と上宮王家の計らいで、山背王の祖母、即ち厩戸皇子の母である穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこの屋敷(中宮)の奴婢として貰われたのだ。

 彼女は、中宮の奴婢たちから大変優しくされたようで、彼らのことを本当の家族のように思っていた。

 だから、離れ離れになった時は、涙が溢れてしまったようだ。

 それが、弟成と黒万呂が、初めて松の下に佇む彼女を見た時の情景だったのだ。

「そうか……、そうやったんや……」

 黒万呂は、しょんぼりした口調で言った。

 それが余にも寂しそうな様子だったので、傍で聞いていた弟成も沈んだ気持ちになってしまった。

 が、黒万呂は持ち前の明るさがある。

「でも大丈夫や! 今度は、俺らが新しい家族になったるよ」

 黒万呂は、人懐っこい笑顔を八重女に見せた。

「そうやね」

 八重女も笑った。

 弟成は、彼女の大きな目を見た。

 その目は、彼に微笑み掛けているようだった。

 煩かった蝉の鳴き声も日に日に弱まり、気付いた時には、田んぼの上を蜻蛉が飛び回る季節となっていた。

 今年は、稲のできもまあまあのようで、一年を何とか過ごせるだけの収穫が期待できた。

 稲刈りは、寺の家人・奴婢総出で行う。

 弟成も、黒万呂とともに田んぼに足を突っ込んで、稲を刈った。

 他の田んぼには、八重女や稲女たちの姿も見え隠れしていた。

 田の作業が一段落すると、今度は山に入ってその恵みを収穫する。

 弟成も、黒万呂と連れ立って山に入った。

 山は、あちらこちらに宝物が転がっていた。

 木にアケビが巻き付いている。

 黒万呂はその実を二つ取って、ひとつを弟成に手渡した。

 弟成は口に含む。

 含んだ瞬間、甘さが口一杯に広がった………………顔がとろけそうになった。

 黒万呂も同じだ………………彼の顔は、既にとろけていた。

 弟成は、もっと甘さを味わおうと口を動かした。

 その瞬間、今度はなんとも言えない渋みが広がった。

 彼は、渋さのあまり、それを吐き出してしまった。

「はははっ、種咬んだんやろ」

 黒万呂は、口をもごもごさせている弟成の顔見て笑った。

 だが、その彼も、

「あっ……、俺も種咬んだ。うわ、不味い」

 と、吐き出してしまった。

 子供たちは、まるで地面とにらめっこをするように、ゆっくりと歩いて木の実を探している。

 その中に、稲女の姿があった。

 彼女も地面ばかり見て、頭の上に甘い実がなっていることに気付いていないようだ。

 弟成は、アケビを二つもぎ取ると、彼女の下に走り寄った。

「稲女、アケビを見つけたからあげる」

「ほんま! 嬉しい、ありがとう」

 稲女は、目を輝かせて受け取ると、それを頬張った。

 弟成は、周囲を見回した。

 しかし、そこにはいるべき人がいない。

「あれ、八重女は?」

 黒万呂も、アケビを数個手に持って駆けつけた。

「うん、よく分からへんけど、上の人呼ばれて、お寺に行っちゃたの」

「なんや、折角アケビを見つけたのにな。まあええわ、これ持って帰ってやろう」

 どうやら黒万呂は、八重女のためにアケビを持って来たようだ。

 弟成も、手に一つアケビを持っていた。

 勿論、目的は黒万呂と同じだ。

 でも、彼は黒万呂のように思ったことをはっきりと行動にするような子どもではない。

「稲女、もう一個やるわ」

 彼は、稲女に八重女のアケビを差し出した。

「ええの? ありがとう」

 稲女は、もうひとつアケビを受け取ると、またそれを頬張った。

「甘い、美味しい」

 稲女は、顔一杯に甘さを表現した。

 その仕草は、ちょっと可愛らしく思えた。

 その後、八重女と会うことはなかった。

 斑鳩寺は、奴婢の人員削減のため、数十人を市場に売りに出した。

 その中に、八重女が含まれていたと弟成が知ったのは、吐く息が白くなり始めた頃のことであった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

RUBBER LADY 屈辱の性奴隷調教

RUBBER LADY
ファンタジー
RUBBER LADYが活躍するストーリーの続編です

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

勝負に勝ったので委員長におっぱいを見せてもらった

矢木羽研
青春
優等生の委員長と「勝ったほうが言うことを聞く」という賭けをしたので、「おっぱい見せて」と頼んでみたら……青春寸止めストーリー。

処理中です...