法隆寺燃ゆ

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第二章「槻の木の下で」 前編

第4話

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 摂津・和泉地方には、難波津なにわのつという良港があった。

 この難波津は、飛鳥の玄関口に当たり、そして大陸への出発点でもあった。

 ここから、半島や大陸に遣隋使や遣唐使、時には兵士たちが送り出された。

 半島や大陸からは、使節団や珍しい献上品、大陸の文化が齎された。

 その中には、もちろん仏教も含まれていた。

 中臣鎌子は、智仙娘の屋敷を抜け出し、難波津まで来ていた。

 凄い賑わいである。

 ここ数日、彼は不満を鬱積させていた。

 それは、母が至福の午睡を止めて、彼に付きっ切りで勉強を教えていたからである。

 初めのうちは、彼も母が珍しくずっと傍にいてくれるので喜んで勉強していたのだが、これが一ヶ月近くになると、さすがに煩わしくなってきた。

 しかも、その勉強が半端ではない。

 いままでの遅れを取り戻すかのように、朝から晩まで、ずっと文机の前に座らされるのである。

 鎌子は、抜け出す機会を伺っていた。

 そして今日、母がちょっと席を外した隙に、屋敷を抜け出すことに成功したのであった。

 彼は歩いた。

 どこ行く当てもなく。

 そして、歩き続けて来たのが、この難波津であった。

 そこは、普段、母から出入りを禁じられていた場所である。

 今日は母から逃げ出して来た以上、そんなことは関係ない。

 むしろ、前々からこの賑わいに興味があったので、足を踏み入れた。

 彼の目の前を、色々な人が通り過ぎて行く。

 見た目は倭人と同じなのに、着ている服が明らかに違う人たちがいた。

 中には、目の色が瑠璃色の人や髪の毛が赤みを帯びた人もいた。

 この人たちは、どこから来たのだろう?

 胸が高鳴る ―― この世界には、色々な人たちがいるのだ!

 彼は、通りの左右に立ち並ぶ長屋を見て歩いた。

 どこもかしこも、珍しい異国の品々が並べられている。

 その品々を前に、男たちは時には激しく、時には穏やかに話をしていた。

 鎌子は、そんな男たちの言葉に耳を傾けたが、それは彼の知らない言葉だ。

 彼は歩いた………………新しい発見を求めて………………

 酒場では、男たちが昼間から酒を飲んでいた。

 辻では、胸も顕わな女が、男に話し掛けていた。

 長屋の格子窓から、乱れ髪の女が鎌子に手を振った。

 彼は、それに手を振って答えた。

 歩いて、歩いて、歩き通した。

 そして、盛り場を抜け出すと、多くの船が停泊している港に出た。

 その港には、大小、形も様々な船が泊まっていた。

 男たちが、忙しく働いている。

 船から荷物を降ろす男たちがいる。

 逆に、荷物を積み込む男たちもいる。

 荷物の前で、板に何かを書き付けている男の姿も見えた。

 その荷物を、熱心に見ている男もいた。

 髪がぼさぼさで、汚らしい格好の男もいた。

 女たちも、あちらこちらで働いている。

 いままさに、出て行こうとする船がある。

 いままさに、入って来た船がある。

 輝く海の中を、小船が走っていく。

 鎌子は、その中で一際大きな船の前で足を止めた。

 そこでも、男たちが忙しく働いている。

 彼は、そんな男たちの姿を飽くことなく見つめていた。

「何してんね、坊主?」

 鎌子の振り返った先には、大きな男がいた。

 服装からして、荷方らしい。

 港で初めて倭人の言葉を聞いたので、彼は思い切って訊いてみた。

「これは、どこの船ですか?」

「おお、これか、これはな、新羅の船やねん」

「新羅……?」

「なんや、お前、新羅も知らんのかいな。新羅はな、海を渡った、遥か西にある国やねん」

「へええ、おじさん、物知りなんだね」

「まあな。ちゅうか、こんなん当たり前や」

 鎌子は、新羅という国を思い描いた。

 どんな国なんだろう? ―― この船で行けたらな!

「なんあや、お前、船に興味あるんか? そやったら乗せたろうか?」

「本当に? いいの?」

「ああ、ちょっと待っとき。いま、船長ふなおさに話つけたるきに」

 そう言うと、男は彼を残し、船の中に消えて行った。

 そして、今度船の中から現れた時は、

「桟橋、気を付けいよ。揺れるからな」

 と、手招きをした。

 鎌子は、勇んで船に乗り込んだ。

 そこは、異国の匂いがした。

 鎌子は興奮していた。

 こんなに興奮したのは初めてだ。

 彼は、船板の上をあちらこちらと走り回った。

 日が赤みを帯びていくのも忘れて、走り回った。

「おじさん、明日も来ていい?」

 鎌子の目は輝いた。

「お前、随分気に入ったようやの。まあ、好きにせいや」

 鎌子は、明日が来るのを待ちわびて屋敷へと帰った。

 その日は、母から夜遅くまで小言をもらったのだが、その間中、彼は水面に浮かぶ異国の船を、ずっと思い描いていた。
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