15 / 378
第一章「宿命の子どもたち」 前編
第14話
しおりを挟む
あれ以来、弟成は斑鳩にお遣いに行くと、文屋の屋敷を訪れるようになった。
文屋夫妻には子どもがおらず、彼らもこの小さな訪問者を心待ちにしていた。
しかし三成や大成たちは弟成に、三輪様のご好意に甘えてはならないと言い聞かせた。
それでも弟成は、彼らの目を盗んで屋敷に行った。
何度か彼の屋敷に出入りするうちに、弟成は一人の女の子を度々見かけるようになった。
その子は弟成より小さかったが、着ているものは明らかに貴人服である。
彼は、文屋の子かなと思っていた。
が、どうも文屋夫妻の彼女に接する態度が仰々しいので、なかなか推し測れずにいた。
その日の午後、先ほどまでの青い空が嘘のように空一面に白い雲が膨れ上がると、辺りを闇が包み、激しい雨を降らせた。
文屋の屋敷を訪れていた弟成は、いつもは縁側に座たりして屋敷の中には入らないのだが、この日は急な雨のために屋敷の中まで上がり込んで座っていた。
板葺きの屋根を、雨が激しく打ち付ける。
弟成は、その雨音を聞きながら外を眺めていたが、誰かに見られているような気配に気がついた。
―― あの子だ!
その女の子は、大きな目をしていた。
弟成は、その目に吸い込まれそうになった。
肌は、透通るように白い。
いや、あの時の桃のようだ。
その白い肌に、小さな唇は血の如く赤く浮き立ち、薄暗い部屋に輝いて見えた。
その子は、とことこと弟成の傍まで来ると、彼を見下ろした。
弟成は、彼女を見上げた。
雨音は、なお激しくなる。
されど、彼には聞こえない。
「三嶋様! 三嶋女王様、どちらですか?」
奥から声が聞こえた。
彼女はその声に振り返り、すっと弟成の前から消えて行った。
弟成の鼻には、桃の甘い香りが蘇った。
文屋の屋敷のことは、黒万呂以外には秘密にしていたが、今日の出来事は黒万呂にも黙っていた。
彼は夜具の中に入って、今日の出来事を思い出すのだが、雨の音とともに彼女が出てくると彼の気持ちは高ぶり、耳の奥で、ドック、ドックと勢いよく血が流れていった。
そして、彼の子が残した香りが、また蘇ってくるのだった。
その後、何度か屋敷に行ったが、彼女を見かけることはなかった。
弟成は、彼女に会いたいという激しい衝動に襲われた。
こんな気持ち、いままでにない。
むかし三成が斑鳩寺の塔の話をしてくれた折に、塔の頂上に舞う天女の話をしてくれたが、もしかしたら、あれは天女かも知れないと思うようになっていた。
天女なら、もう一度会いたい。
いや、天女でなくても、もう一度だけでいいから彼女に会いたい。
そして今度は、その目に吸い込まれたいと願った。
その機会は、稲が重たい頭に体を支え切れなくなった頃にやって来た。
文屋の屋敷に寄るつもりはなかったのだが、東門の前を通ると、屋敷の庭先で、あの女の子が一人で土弄りをしているのを見掛けた。
周囲に誰もいなかった。
弟成は、これ幸いにと彼女に近づいて行った。
天女だ ―― 彼はそう思った。
弟成に気付いた彼女は、その真っ直ぐな瞳で弟成を見つめた。
彼は、こんなことが以前にあったような気がしたが、どうでも良かった。
彼女と同じ時、同じ場所にいられるだけで良かった。
彼女は微笑んだ。
桃の香りが、彼を包み込んだ。
文屋夫妻には子どもがおらず、彼らもこの小さな訪問者を心待ちにしていた。
しかし三成や大成たちは弟成に、三輪様のご好意に甘えてはならないと言い聞かせた。
それでも弟成は、彼らの目を盗んで屋敷に行った。
何度か彼の屋敷に出入りするうちに、弟成は一人の女の子を度々見かけるようになった。
その子は弟成より小さかったが、着ているものは明らかに貴人服である。
彼は、文屋の子かなと思っていた。
が、どうも文屋夫妻の彼女に接する態度が仰々しいので、なかなか推し測れずにいた。
その日の午後、先ほどまでの青い空が嘘のように空一面に白い雲が膨れ上がると、辺りを闇が包み、激しい雨を降らせた。
文屋の屋敷を訪れていた弟成は、いつもは縁側に座たりして屋敷の中には入らないのだが、この日は急な雨のために屋敷の中まで上がり込んで座っていた。
板葺きの屋根を、雨が激しく打ち付ける。
弟成は、その雨音を聞きながら外を眺めていたが、誰かに見られているような気配に気がついた。
―― あの子だ!
その女の子は、大きな目をしていた。
弟成は、その目に吸い込まれそうになった。
肌は、透通るように白い。
いや、あの時の桃のようだ。
その白い肌に、小さな唇は血の如く赤く浮き立ち、薄暗い部屋に輝いて見えた。
その子は、とことこと弟成の傍まで来ると、彼を見下ろした。
弟成は、彼女を見上げた。
雨音は、なお激しくなる。
されど、彼には聞こえない。
「三嶋様! 三嶋女王様、どちらですか?」
奥から声が聞こえた。
彼女はその声に振り返り、すっと弟成の前から消えて行った。
弟成の鼻には、桃の甘い香りが蘇った。
文屋の屋敷のことは、黒万呂以外には秘密にしていたが、今日の出来事は黒万呂にも黙っていた。
彼は夜具の中に入って、今日の出来事を思い出すのだが、雨の音とともに彼女が出てくると彼の気持ちは高ぶり、耳の奥で、ドック、ドックと勢いよく血が流れていった。
そして、彼の子が残した香りが、また蘇ってくるのだった。
その後、何度か屋敷に行ったが、彼女を見かけることはなかった。
弟成は、彼女に会いたいという激しい衝動に襲われた。
こんな気持ち、いままでにない。
むかし三成が斑鳩寺の塔の話をしてくれた折に、塔の頂上に舞う天女の話をしてくれたが、もしかしたら、あれは天女かも知れないと思うようになっていた。
天女なら、もう一度会いたい。
いや、天女でなくても、もう一度だけでいいから彼女に会いたい。
そして今度は、その目に吸い込まれたいと願った。
その機会は、稲が重たい頭に体を支え切れなくなった頃にやって来た。
文屋の屋敷に寄るつもりはなかったのだが、東門の前を通ると、屋敷の庭先で、あの女の子が一人で土弄りをしているのを見掛けた。
周囲に誰もいなかった。
弟成は、これ幸いにと彼女に近づいて行った。
天女だ ―― 彼はそう思った。
弟成に気付いた彼女は、その真っ直ぐな瞳で弟成を見つめた。
彼は、こんなことが以前にあったような気がしたが、どうでも良かった。
彼女と同じ時、同じ場所にいられるだけで良かった。
彼女は微笑んだ。
桃の香りが、彼を包み込んだ。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる