法隆寺燃ゆ

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序章「世間虚假 唯佛是眞(せけんこれ ゆいぶつぜしん)」

世間虚假 唯佛是眞(せけんこれ ゆいぶつぜしん)

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 生駒の果てに沈まんとする夕日は、その命を惜しむが如く輝き、斑鳩寺いかるがのてらいらかを朱に染めていく。

 やがて日は燃え尽き、人々を蒼黒の世界へと導くだろう。

 そしてここに、真っ赤に燃え盛る斑鳩寺に見守られながら、一人の男がその命を大地に沈めようとしていた。

 沈むのなら、日も、人も同じだ。

 しかし、日は再び廻っても、己に明日がこないことを男は知っている。

 男の名は、厩戸皇子うまやとのみこ ―― 推古すいこ女帝の摂政で、蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみとともに現朝廷の最高責任者である。

 厩戸皇子が病に倒れたのは、いまから一ヶ月前のことである。

 当初は、推古女帝の従者や有力氏族たちが入れ替わり立ち替わり押し掛けて来たものだが、ここ数日は訪れる者もなく、斑鳩宮いかるがのみやは静寂に包まれていた。 

 その状況が一変したのは昨日のことで、彼と同じく病の床に臥していた妃の菩岐々美郎女ほききみのいらつめが亡くなったのである。

 愛する妻を失った悲しみは、厩戸皇子に、現世に対する僅かな希望をも捨て去るには十分であった。

 漆黒が支配し始めた斑鳩宮で、彼は自分の吐き出す息の音に耳を澄ませていた。

 彼のもとに集った妃や息子たちも、厩戸皇子の息の音に耳を澄ませている。 

 ああ、まるで、魂までが抜け出してしまいそうだ。

 彼は、消えゆく意識の中で、最後の言葉を探していた。 

 用明ようめい天皇(欽明きんめい天皇と馬子の妹の堅塩媛きたしひめの息子)と異母妹である穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ(欽明天皇と馬子の妹の小姉君おあねのきみの娘)の第一子として生を受けた彼は、天皇家と蘇我家の血筋を持つ期待の星であった。

 時の権力者である馬子は、彼の本居うぶすなである葛城地方の馬屋古氏に、厩戸皇子の養育を任せ、将来の天皇として、また自分の意のままに動く傀儡くぐつとして手なずけようとした。

 厩戸には、幼少から徹底した帝王教育が施された。

 その中に、当時の最先端の学問である仏教があった。

 実際、彼の周辺は、仏教を学ぶのに適した環境であった。

 馬子のもとには、舶来の仏像や経典が集められ、帰化した僧侶たちも多数集ってきた。

 初めて仏像を目にした時、厩戸皇子は驚嘆した。

 それは金色に輝き、この世の果てまでも照らし出していた。

 それまで自然崇拝が一般的であったこの国では、神というものは抽象的で捉えようがなく、人々は見えない神の存在に畏怖していた。

 しかし、この仏という神は、彼の目の前で具象化し、荘厳であった。

 何より、その穏やか顔に厩戸皇子は惹かれた。

 彼は、次第に仏の教えに傾倒していった。

 二十歳で推古女帝の摂政となった厩戸皇子は、国政に参加することになるが、仏教を探求すればするほど、仏と政の矛盾に苦慮していった。

 また、朝廷内の最高責任者という身分での仏教探求にも、限界を感じだしていた。

 仏教の真髄とは、過去の自分を捨て去り、新しい自分に生まれ変わることである。

 過去の自分とは、欲望に満たされた自分であるし、新しい自分とは、全てを捨て去った自分である。 

 厩戸皇子は、この〝過去の自分〟に悩まされ続けた。

 自分を正しく律していても、彼の周囲はそれを許さない。

 ―― 権謀渦巻く政の世界

    愛憎に満ちた一族

    四苦溢れるこの世

 このような外部からの圧力に、彼は心身ともに疲労していったのだ。

 それを思うと、穢れた過去を捨て去り、いままさに仏の世界へと旅立とうとしている彼は、幸せの絶頂にあった………………

 燭台の灯りは、息子たちの影を揺らし続ける。

 月はない。

 厩戸皇子はそっと目を開き、消えかかる息とともに、こう漏らした。

 それは、仏教探研究者として歩んだ、四十九年の彼の答えだった。

世間虚假せけんこけ唯佛是眞ゆいぶつぜしん(この世は虚しい仮の姿だ、ただ仏だけが真実なのだ)」

 偉大なる道の探求者は、静かに息を引き取った。

 推古天皇の治世二十九(六二二)年二月二十二日夜半のことである。 
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