桑の実のみのる頃に

hiro75

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最終話

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 夏に入って、桑の実が熟した。

 おすみは、金次に実を採らせて、くわ餅を作った。

 金次は「美味い、美味い」と頬張った。

 老人も、「今年の桑の実は馬鹿に甘い」と喜んで食べた。

 おすみも口に運んだ。

 ほんのりとした甘酸っぱさが口の中に広がり、それが妙に物悲しかった。

 おすみの生活に変わりはない。

 朝早くから水を汲み、飯を作って、桑田屋へ働きに出る。

 桑田屋で、おかつのおしゃべりに耳を傾けながら、女中仕事をする。

 夕方になって家路につき、晩飯を食って寝る。実に単調な一日である。

 老人も、朝から畑に出て、休みなく働き、夜は草鞋を編む生活をしている。

 変わったといえば、弥平が腰を下ろしていた場所に、金次の顔があるという点だろうか。

 金次は、あれ以来性根を入れ替えて、朝早くから畑仕事に出ている。

 まだまだ一人前とはいえないが、祖父に教わりながら一心に仕事をしている。

 青白かった顔も、幾分日焼けをして男らしい顔になった。

 さて、左吉と弥平が間違われた宿場荒しだが、

「知ってる、おすみさん、御城下で捕まったんですって。聞けば、女の二人組みだったそうよ」

 と、おかつから聞いた。

 ―― 女の二人組みだって。左吉さんや弥平さんとは随分違うじゃないかい。全く、虎八や竜蔵もいい加減だね。

 雀のおしゃべりを聞きながら、おすみは太い眉を寄せた。

 その虎八一家と竜蔵一家だが、余程左吉と弥平の脅しが効いたようだ。

 あの騒動があった翌月には、何処ともなく姿を消した。

 事情を知らぬ宿場や村の者は、何が起こったのかと首を傾げていたが、「まあ、兎も角、これで強請りもたかりもなくなるから良かったわ」と、胸をなで下ろしていた。

 犬目村は、久しぶりに穏やかな一年が過ぎ去った。

 翌天保九年、再び桑の実が色付く季節がやってきた。

 犬目村の生活は以前より随分良くなった。

 犬目村だけでなく、郡内地方の村々の生活が良くなったようだ。

 これは、新しく代官になった ―― 正しくは、郡内地方が韮山代官の管轄に入ったのであるが、その韮山代官である江川太郎左衛門えがわたろうざえもんのお陰だと、郡内地方の人々は、「世直し江川大明神」という幟旗を神社に立て、彼の徳政を称えた。

 その韮山代官が、突然、おすみの家に訪れることになった。

「なぜ、こんな百姓の家に?」

 老人は首を傾げて、話を持ってきた名主に訊いた。

「いや、さっぱり分からん」と、名主も首を傾げた、「村々の状況を見たいと仰せで、順繰りに回っていらっしゃるようだが、兎も角、そういうことなので、粗相のないようにな。それと、お代官様は、おすみさんのくわ餅が食べたいそうだ」

 おすみは慌てた。

 何ゆえ自分のくわ餅なのか?

 くわ餅なら、他でもっと美味いものを食べさせてくれるだろう。

 しかも、名指しとは………………

 兎も角、おすみは作れるだけのくわ餅を拵えた。

 当日、おすみと義父、そして金次は、桑の木の根元でへいつくばって韮山代官を迎えた。

 馬の蹄の音と、数人の足音が聞こえきた。

 近くで蹄が止まった。

 おすみは鯱張った。

 軽い足音が近づいてきた。

 三人の前で止まった。

「ご老体、元気であったか? お言葉に甘えて寄らせてもらったぞ」

 その声に聞き覚えがあった。

 おすみは、上目遣いで見た。

 思わず声を上げてしまった。

「左吉さん!」

 陣笠の下に、ぎょろりとした大きな目が覗いている。

「無礼者!」と、お付きの者が叫んだ、「このお方は、韮山代官江川英竜ひでたつ様だぞ」

 おすみたは、ぎょっと顔を強張らせ、地べたに額を擦り付けた。

 ―― まさか、まさか、あの左吉さんが、お代官様だったなんて………………

 額から汗が噴き出た。

「よい、よい、わしは左吉じゃ、なあ、おすみさん」

 と、独特な笑い声を上げながら家の中に入っていった。

 ―― いたんだ、本当に神様はいたんだ。江川大明神様が………………

 顔を上げたおすみの額には、土埃がべっとりと付いていた。

 英竜は、上がり框に腰掛けた。

 老人と金次は、その傍らに神妙に腰を下ろした。

 おすみは、大わらわでくわ餅の準備をした。

「あの時は、実に世話になったな」

「とんでもございません。私どもも、お代官様とはつゆ知らず、ご無礼をいたしました」

「いや、とんでもない」

 刀売りに身を変えていたのは、大坂で起こった乱の首謀者(大塩平八郎)が甲斐に潜伏しているという噂を確かめるためと、郡内の村々の実情をきちんと見ておきたかったからだ、と英竜は語った。

「郡内を韮山代官に任せるというのを、お偉方からそれとなく聞いておったしな。騒動の原因がどこにあったのか、そして、今後わしが治めるときに、どのような点に気をつけるべきなのか、事前に調べておこうと思ったのじゃ」

 英竜は、老人が差し出した白湯を美味そうに啜った。

「お陰で、よい見分になった。特に、ご老体に会えたことが、何よりも収穫であったぞ」

「とんでもございません。私など……」

「いや、あの時のご老体の言葉は、胸に沁み渡った。百姓即ち『生』、『生』即ち百姓。この言葉、この江川の胸に、いまも確りとあるぞ」

「お恥ずかしい限りでございます。お代官様に向って、あのような馬鹿な言葉を。お忘れください」

 老人は、恐れ入るように頭を下げた。

「なんの、あの言葉があったからこそ、わしのいまのまつりごとがあるのじゃ」

「とんでもない、お代官様は、『世直し江川大明神』と称えられております」

「いや、いや、これもご老体の言葉があったからじゃ。田畑を耕し、命を育む。まさに、『生』そのものの百姓があってこそじゃ。その百姓が、みんな幸せに暮らせる世の中を、上に立つわしらが作っていかねばならぬ。汗水垂らし、命を削って、必死で働いているそなたたちを守っていかねばならぬのじゃ。それが、わしの仕事じゃ」

 英竜は、懐から風呂敷包を取り出した。

 包を開けてみると、一足の草鞋が出てきた。

「ほれ、これは、あの時、ご老体がくれた草鞋じゃ。履かずに取ってあったのよ」

「そのようなもの、捨ててもらって結構でしたのに」

 老人は、呆れたように言った。

「とんでもない、これには、百姓の命が入っておる。ご老体の命も入っておる。そう思うと、踏みつけるようなことはできなんだ」

「そのようなこと……」

「これは、我が家の家宝とさせてもらうよ」

 と、丁寧に包んで、再び懐に仕舞った。

 英竜は、傍らでがちがちになっている金次に目を向けた。

「金次、しっかり性根を入れ替えて、畑仕事に励んでおるか」

「へ、へい」

 金次は、床に額を擦りつけた。

「ご老体や、おすみさんを泣かせるようなことはしておらぬか」

「め、滅相もございません」

 声が上擦った。

「手を見せてみろ」

 金次は、恐る恐る手を出した。

「うむ、いい手だ。百姓のいい手をしておる。命を育む手だ。金次、その手を大事にせいよ」

 金次は、何度も何度も頭を下げた。

 話が途切れたところで、おすみはくわ餅を出した。

「おお、これがおすみさんのくわ餅か、これを食べるのを楽しみにしておってな」

 英竜は、相貌を崩した。

弥九郎やくろうがな、いや、弥九郎というのは、ほれ、わしと一緒にいた弥平さんだよ」

 弥平の名を聞いて、おすみの心がざわめき立った。

「弥平は、本当の名を斎藤弥九郎というのだが、いや、この男、実は江戸では凄腕の剣豪として知られておってな。道場である練兵館は、千葉周作ちばしゅうさくの玄武館、桃井春蔵もものいしゅんぞうの士学館と並んで、江戸の三大道場に数えられほどだ」

 なるほど、強いわけだとおすみは思った。

「そうそう、あいつ、おすみさんに、侍の魂を捨てたとか何とか申しておったじゃろう。あれは全部嘘じゃ。弥九郎のやつ、おすみさんに会ったら謝っておいてくれと言っておったぞ」

 英竜は、苦笑いをした。

「で、その弥九郎が、ご老体のところに行くのなら、是非にとも、おすみさんのくわ餅を貰ってきてくれと言いよってな、そんなに美味いものかと、用意してもらったのじゃ」

 英竜は、どれと一つ口に放り込んだ。

「うむ、これは美味い。この甘酸っぱさがなんともいえんな。なるほど、弥九郎が欲しがるわけだ」

 と、次から次へと口の中に放り込んでいく。

「おう、そうじゃ、おすみさん、弥九郎にも頼まれたから、二つ、三つ、包んでくれんか」

 むろん、そのつもりであった。

「そう言えば」と、英竜は老人の顔を見て言った、「こんどわしが、郡内のほうへ足を伸ばすといったら、弥九郎のやつ、いたく悔しがっておてな」

「ほう、それはまた……」

 老人は首を傾げた。

「うむ、どうやらあやつ、この辺りに、気になる女でもいたようじゃ。あの堅物が惚れたぐらいじゃからな、どんな女か見てみたいものよ。のう、おすみさん」

 英竜と目が合って、胸が波打った。

「いえ、そんな、あの……、あたし、お餅包みます」

 しどろもどろになりながら、土間に飛び降りた。

「おっかぁ、くわ餅なら、ここにたんとあるずら」

 金次の言葉どおり、英竜の前に山と積んである。

「何を赤くなってるんだ。熱でもあるんでねえか」

 金次は首を傾げた。

 それを見た英竜は、かかかっと乾いた笑い声を上げた。

 老人も、笑みを零した。

 おすみは、頬を熟しながら、くわ餅を丁寧に包んだ。くわ餅を待ち侘びる人の、片笑窪を思い出しながら。

 澄み渡る夏の空に、桑の木が、さわさわと優しい音を奏でている。(了)
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