桑の実のみのる頃に

hiro75

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第6話

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 変わりない朝が来た。

 おすみは、習慣どおり水を汲みに行く。

 老人は、すでに畑にいた。

 戻ってくると、弥平が棒切れを振っていた。

 強がっているのか。

 それとも、一晩休んで疲れがなくなったのか。

 どちらにしても、相当強靭な精神の持ち主である。

「お体のほうは、もうよろしんですか」

 と訊くと、弥平は恥ずかしそうに片笑窪を作った。

「いや、まだ少々。ですが、むかしからの癖で、これだけは………………」

「今日も畑に出られるのですか」

 嗜めるように訊くと、弥平は真面目な顔をして、「もちろん」と頷いた。

「昨日のご老体の言葉にいたく感動しました。百姓とは、即ち生きること。生きることとは、即ち百姓。ここにご厄介になっている間は、その極意のほんの一部でも学ばせていただきたいと思います」

 おおげさなと、おすみは思った。

 弥平も、自分で言いながら恥ずかしくなったようだ。

「本当のところは、ご老体に、もと侍も、やるときはやるのだというところを見せてやりたいと思いましてね。内緒ですよ」

 と付加えた。

 桑田屋に出ると、おしゃべりおかつがすぐさま寄ってきた。

「ねえ、おすみさん、知ってる?」と訊いてきたので、「あんたの言おうとしてることによってはね」と返してやった。

「もう、いけずなんだから」

 と、艶かしく肩をぶつけてくる。

「いけずもなにも、あんたが話しの内容を言わないからでしょう」

「分かったわよ。そんなに怒らなくてもいいでしょう。いいこと教えてあげようかと思ったのに」

 おかつは、唇を雀の嘴のように尖らせた。

 おしゃべり雀のようで、おすみはおかしくてしょうがない。

 笑いを堪えながら訊いた。

「実はね……」と、辺りに人が居ないのを確認して、それでもおすみだけに聞こえるような小さな声で言った、「この犬目の宿場に、例の宿場荒しが来てるんじゃなかって」

「宿場荒しが?」

 素っ頓狂な声を上げると、おかつが人差し指を雀の嘴にもっていった。

「『四つ目の虎』のところの子分たちがね、そう話しているのを聞いたの。陣屋から内々にお達しがあったんですって」

 内々の話が、すでにおかつの口にまで上がっているのだか、やれやれだとおすみは思った。

「でさあ、どうなの?」

 おかつが、意味ありげな顔で覗き込んだ。

 何のことだと聞き返した。

「何のことだじゃないわよ。あの人よ、昨日、虎八の子分と渡り合っていた人よ。あの人、怪しんじゃないの」

「宿場荒しだっていうの?」

 おすみは笑い出してしまった。

 確かに、左吉も弥平も少々変わった人間だ。

 だが、宿場荒しが、わざわざ貧乏百姓の家を選んで泊まるだろうか。

 おまけに、左吉は虎八や竜蔵一家と刀の商いをしているし、弥平にいたっては義父の畑仕事を手伝っているのだから。

 ―― それに、弥平さんは、そんなこと絶対にしないよ。だって、そんなことしそうな顔をしてないもの。

 それは、おすみの偏見だ。

「ない、ない、それは絶対にない」

 と、おすみは白い手を振った。

「ええ、なんで?」

「だって、あの人たち………………」

 家でのことを話してやると、おかつも、なるほどと納得したようだ。

「そうか、じゃあ、他の人か………………」

「人の心配してる前に、自分の心配したらどうだい。昨日泊まった客の中に怪しいやつはいなかったかい。あんた、何か盗まれちゃいないかい」

「いないわよ、そんなの。あたしだって気をつけてるんだから」

 おかつは、細い眉を顰め、頬をぷっくりと膨らませた。

 三日月が西の山にかかると、辺りが一段と暗くなる。

 おすみは、家路を急ぎながら考えていた。

 ―― あの人たちは宿場荒しなんかじゃない。おとっつぁんの話を聞いて、あんなに感に入った表情をしていたんだもん。百姓の言葉に恐れ入るようじゃあ、宿場荒しなんてできないよ。

 となると、弥平たちは宿場荒し以下の扱いになるのだが、おすみはそれに気がついていないようだ。

 ―― でも、虎八や竜蔵は、あの人たちを宿場荒しと思うかもしれない。そういえば、左吉さんは竜蔵の家で一杯やるって言ってたけど、大丈夫だろうね。行き成り引っ括られとかされてないだろうね。今頃、家のほうにも竜蔵や虎八の手が回ってるんじゃあ。

 それを思うと居ても立ってもいられなくなり、おすみの足が速くなった。

 おすみが桑の木を目指して歩を進めていると、その木の傍に何者かが立っているのが見えた。

 ―― やつらかい?

 とも思ったが、男は桑の木を見上げているようだ。

 虎八や竜蔵の子分なら、家の中を覗くようにして立っているはずだ。

 誰だろうと訝しげに眉を顰めながら近寄っていくと、弥平だと分かった。

 無事と分かってほっとした。

「弥平さん、どうかなさったんですか?」

 弥平は、おすみに顔を向けた。

「いや、お帰りなさい。おや、どうしました? 走って帰ってきたんですか? 誰かに付けられましたか?」

 額に薄っすらと汗を掻いていたので、弥平は心配したのだろう。

 いえ、何もと手で拭った。

「そうですか。夕方とはいえ、女の一人歩きは危ないですからね」

「そんな、こんなお婆さん、頼まれたって誰も付けやしませんよ」

「お婆さんだなんてとんでもない。おすみさんはまだ若いですよ」

 おすみは、頬の辺りにちりちりと毛虫が這うようなむず痒さを覚えた。

「いえ、そんな若いだなんて、弥平さんも口が上手いわ。もう三十過ぎの年増ですよ。夫を亡くした三十路女でございますよ」

「女は……」と、弥平は呟いた、「いくつになっても美しい」

 まともに目が合った。

 血が煮え滾り、体中を一気に駆け巡っていく。

 苦しい。

 胸が締め付けられるほどに狂おしい。

 風が火照った頬を撫でる。

 葉擦れは、耳朶に甘く響き渡る。

 それを言いそうだ。

 言ってしまいそうだ。

 が、咽喉の奥まで出かかった言葉を、ゆっくりと嚥下した。

 女は、体の芯から息を吐き出した。

「ああ、すみません。いえ、なに、美しい桑の木だなと思って」

 男は目を逸らし、再び見上げた。

 確かに、美しい。

 美しくて、大きい。

 ここ一番の大きさだろう。

 他のことでは滅多に自慢などしない義父も、この桑の木は誇りにしている。

 清吉もそうだった。

 桑の太い幹を優しく撫でながら言ったものだ。

「こいつとは、小さい頃から一緒だった。おらが死んだら、おらの魂は、この桑の木に宿るよ。そして、お前や金次を見守ってやる」

 そのときは、「縁起でもないことを言わないでおくれ」と怒ったが、数日後、清吉は帰らぬ人となった。

「桑の実が上手いんだ」とも言った、「甘くてな。おっかぁあは、あれでくわ餅を作ってくれたんだ。美味かったぞ」

 くわ餅の味は、おすみがしっかりと受け継いでいる。

 それを、美味い、美味いといって食べてくれる人はいないが………………

「桑の実は」と、弥平が訊いた、「いつごろ食べられるんですか」

 常盤色の実が、枝からたくさんぶら下っている。

 熟すのは、あと一月か、二月後だ。

「では、まだ食べられませんね」

 弥平は、残念そうに言った。

「ええ、あれでくわ餅を作るんです」

「へえ、くわ餅ですか、美味そうだな。食べてみたいな。ああ、一月ばかり、おすみさんの家に厄介になろうかな」

 冗談なのか、それとも本気なのか、弥平の言葉はどっちとも取れた。

「一月だけですか?」と、おすみは訊きそうになった。

 が、訊かなかった。

「お餅のためだけにですか。弥平さんって、随分食いしん坊なんですね」

 と笑った。

「本当ですね」

 弥平も、片笑窪を作って笑った。

「笑ったら、ますますお腹が空いてきた。家に入って、早く飯にしましょう。今日は左吉さんがいないので、彼の分まで食べられますからね」

 と、さも食いしん坊のような顔をして、ポンポンと腹を叩いた。

「あっ、左吉さん、竜蔵のところでしたよね」

「ええ、そうです。どうかしましたか?」

 おすみは迷った。

 昼間のことを言おうか、言うまいか?

 もし本当に弥平たちが宿場荒しなら、おすみは兇状持ちを助けたことになって、泣く羽目になるだろう。

 だが、弥平たちが宿場荒しと間違われて捕まっても、泣くことになるのは代わりない。

 ―― どのみち泣くんなら。自分の勘を信じて泣いたほうがいいよ。

 おすみは、昼間聞いたことを弥平に話した。

「うむ、そうですか」

 弥平は、腕組みをし、難しい顔をして考え込んだ。

 しばらく考え込んでいて、ふと顔を上げた。

「もしかして、おすみさんは私たちを宿場荒しと思ったのですか」

「滅相もない。あたしは、そんな………………」

 慌てて首を振ると、弥平は笑った。

「すみません、そんなつもりじゃなかったのです。いや、そう思われて当然ですからね」

 と、申し訳なさそうに言った。

「そうですか、陣屋からそんなお達しが出ていますか。うむ、左吉さん、一人でも大丈夫だと思いますが……」

 桑の木がざわめいた。

 二人は同時に顔を上げた。

 まるで怒っているかのようだ。

「風も出てきましたね。うむ、嫌な気配だ。まあ、兎も角、一先ず家に入って飯を食いましょう。腹が減っては、戦はできません。なに、左吉さんは大丈夫ですよ。あれでも、剣の腕は確かですから」

 弥平は、自分に言い聞かせるように何度も頷きながら家の中に入っていった。

 おすみも跡に続いた。

 桑の木が葉を揺さぶった。

 そこに、清吉がいるように思われた。
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