桑の実のみのる頃に

hiro75

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第5話

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「いや、これはおすみさんに恥ずかしいところを見せてしまったな。ちょっと目を閉じただけだったんだが………………」

 弥平は、まだ眠たそうに目をしょぼしょぼさせた。

 おすみと左吉が帰って来ると、弥平は大鼾を掻いて眠り扱けていた。

 一度や二度揺り動かしても起きず、左吉が弥平の耳元で大声を出して飛び起きた。

 よっぽど畑仕事が堪えたのだろう、飯を食うのも大儀そうだった。

 そのまま寝かせおいてあげたほうが良かったかなと、おすみは可哀想になった。

 左吉のほうはお構いなしに、今日の釣果について、まるで大きな鯛を吊り上げたかの如く話した。

「虎八親分さんは、刀を随分気に入りましてね。あと、十本ほど欲しいと」

「それで、竜蔵親分のほうは?」

 弥平は、うどんをゆっくりと咀嚼しながら訊いた。

「こちらも上々です。虎八親分さんのほうでは、十本ほどお買い上げくださいましたと言ったら、すかさず、こちらは二十本ほど買うと申されましてね。いや、実に大当たりでしたよ」

 行商で持ち歩いていたのは十本である。

 取り敢えずは、明日五本ずつ双方に納める。

 残りは、江戸に帰って買い付けてくるということに決まったようだ。

「おまけに、竜蔵親分さんに甚く気に入られましてねえ。明日の晩、一献やろうということなりました」

 左吉は咽喉で笑った。

「どうです、弥平さん、明日の晩は?」

 弥平は、「いや、ちょっと………………」と口を濁した。

 相当堪えているようだ。

 飯を食べている最中も、肩を叩いたり、腰を叩いたりしている。

「明日も畑仕事がありますので」

 その畑仕事すらできないかもしれないといった様子だ。

 おすみは、弥平が余りにも哀れになった。

 幾ら泊めてもらったお礼だからといって畑仕事をしてもらっても、体を壊されたのではこちらも立つ瀬がない。

「弥平様、もうよろしんですよ、そんなに無理なさって畑仕事などなされなくても。泊めてもらったお礼だからって、体を壊されては………………、ねえ、おとっつぁん」

 黙って草鞋を編んでいた老人も頷いた。

「そのとおりでございますよ、お客様。我々は、お礼をしてもらいたいがために、お二人をお泊めしたわけではございませんので。困ったときは、お互い様でございます」

 その通り。

 困ったときはお互い様。

 これは、貧しい者にとっては常識である。

 いつ自分が同じ目に合うともしれないのだから。

「それに、あれは百姓の仕事でございます。お武家様には、ちと堪えましょう」

 二人の男は、はたと顔を見合わせた。

 すぐさま弥平は、おすみを見た。

「今朝の話を老人にしたのか」と問い質すような目だったので、おすみは慌ててを振った。

「ご老体は知っておらましたか。我々がもとは武士だったことを?」

「分かりますとも。話し方といい、物腰といい、百姓や商いをしている人間とは遥かに違います」

 左吉と弥平はお互いを見やった。

 自分たちでは、どこが違うのか分かっていないようだ。

「それだけで分かりましたか?」

 弥平が訊いた。

 すると、老人は相貌を崩して笑った。

「まあ、それもありましたが、あなた様の仕事を見させてもらいまして分かりました」

 弥平は首を傾げた。

「昼間、あなた様が鍬を振るっているところを見させていたただきましたが、あれは毎日畑仕事をやっている者のそれではありません。商人や職人のそれでもありません。あれは、侍が刀を振り下ろしている姿でございます」

「ほう、しかし、鍬を振り下ろす姿を見ただけで、よく分かりましたな」

「ええ、もちろん。我々は、腰を軸にして体全体で鍬を振るいます。ですが、お武家さんは下半身を固定させて、上半身だけで我武者羅に土を起こします。ですから、変なところに力が入って、体中が痛くなるのです」

「ああ、なるほど」と、弥平は納得したような声を上げた、「それで、おかしいと思ったのだ」

 老人の真似をして鍬を振るってみたが、どうも上手くいかない。

 老人は、一振りするたびに、赤茶けた地面を黄金色の大地へと変えていく。

 しかし、目の前の大地は、弥平の鍬を嫌がるように押し返す。

 何度地面に突き立てても弾き返される。

 力任せにやって、ようやく鍬を差し込むことができた。

「そうか、あれは私が上半身だけで耕そうとしていたからですね。うむ、そうか。それと分かったら話しは早い。明日は、ご老体が言われたとおり、体全体を使って耕しましょう。よし、明日は全ての畑を耕してみせますぞ」

「おやおや、弥平さんは本当に百姓になるつもりでないだろうね」

「いや、本当だ。ここで百姓をやるのもいいな」

 男たちは、顔を見合わせて笑った。

 おすみは、弥平の言葉を聞いて耳を赤くした。

 畑を耕す弥平の傍に、自分がいる。

 ああ、何と素晴らしい光景だろうか。

 が、おすみはすぐに現実の世界に引き戻された。

「いや、いや、それはお止めなされ」と、老人は言った、「先程も言いましたが、あれは百姓の仕事でございます。お武家様が、お慰みにするような仕事ではございません」

 弥平は、いささかムッとした表情をした。

「ご老体には悪いが、私はこれでも覚えはいいほうですぞ」

「そのようなことを言っているのはございません。どんな仕事でも、年月を経ればそれなりのものになるでしょう。剣術もそうでございましょう」

「まあ、それはそうでござろうが、しかし、剣術と畑仕事を一緒にされるのは聊か不本意でござる」

 弥平には珍しく声を強めた。

「おや、そうでございますか」

 老人も、珍しく手を休めた。

「私は、剣術に命をかけてきました。いまは、このような身なりをしていますが……、それこそ稽古をしていた間は、己の全てをかけてきた。それを、畑仕事と一緒くたにされるのは、ちと納得がいきません」

 弥平は老人を睨みつけた。

 おすみは、はらはらした思いで二人を交互に見た。

 鼓動が早い。

 ああ、喧嘩にならなければいいが………………

 それは、傍らで見ていた左吉も同じようだった。

 彼も、珍しく大きな目を瞬かせて、心配そうな顔で二人を見ていた。

 薪が爆ぜた。

 老人は、静かに言った。

「それでございますよ。あなた様は、剣術の稽古に命をかけられた。それは武士であり、それが仕事だからです。では、百姓はどうか? 百姓は畑仕事に命をかけます。あなた様が、剣の一振り、一振りに命を込められるように、百姓も、鍬の一振り、一振りに命を込めます。命を恵む大地に感謝し、新たなる命の恵みを祈りながら。百姓は、己の命を削って大地を耕していきます」

 そのとおりだと、おすみも思う。

 百姓は、簡単な仕事だと思われがちだ。

 田畑の真ん中で鍬を振るって、ときどき茶や菓子を食べる。

 種を撒いて、後は見ているだけ。

 収穫の時期がくれば、誰よりも先に美味い米や野菜が食べられる。

 年でも取ったら田舎に移って、畑でも耕して楽に生きようか。

 百姓なんて、楽な仕事だ。

 そう考えている甘っちょろい連中が多いのだ。

 ―― 馬鹿言ってんじゃないよ。そうだよ、おとっつぁんの言うとおりだよ。百姓は、命を削って仕事をしてるんだ。

 冷たい風の中で、田畑を耕す。

 照り付ける日差しの下で、草を毟る。

 臭い思いをして糞尿を撒き、重い思いをして水を運ぶ。

 乾いた大地と格闘し、燃え盛る太陽と対峙する。

 日照り、蝗、野分に水害。あらゆる困難が、これでもかと百姓に襲い掛かる。

 そんな思いをして収穫を迎えても、百姓が米を食えるはずがない。

 すべて、年貢として巻き上げられ、彼らが口にするのは雑穀や屑野菜である。

 過酷だ。

 世の中に、これほど過酷な仕事があろうかと疑ってしまいたくなるほど、過酷なのだ。

「ですから、私たちは天の恵みを絶対に無駄にはいたしません。それには、天の命とともに、我々百姓の命も染み込んでいるのですから。この藁の一本、一本にも」

 老人は、再び草鞋を編み始めた。

「鍬と同じ、剣術と同じでございます。こうやって、ひと編み、ひと編み、命を込めるのでございます」

 老人の話を聞いて、左吉も弥平も押し黙ってしまった。

 特に弥平は打ち萎れたように、肩を落としていた。

 老人の草鞋を編む音と、薪が燃える音だけが部屋に響き渡った。

 重苦しい空気を破るように、左吉が笑いだした。

「負けだ、負け。弥平さん、あんたの負けだよ。そうだ、ご老体の言うとおりだよ。どんな仕事も命がけだ。この世に、適当にやってできる仕事なんざないよ。みんな、必死になってやってるんだ。武士だけが偉いと思っているのは、そいつは侍の思い上がりだな。なあ、弥平さん」

 そう言って、弥平の背中を叩いた。

 弥平も、「ああ、そうだな」と頷いた。

 それを見て、おすみは安堵した。

「それにしてもご老体」と、今度は左吉が訊いた、「ご老体は良く物事を知っておられるようだ。どこぞやで、勉強なされたのかな」

「いえ、私は生まれてからこのかた、ずっとここで百姓をしております」

「ほう、それにしては博学ですな。それだけの知識を持っておられるのだ、その方面の才を伸ばそうとはお思いにならなかったのか」

 その方面の才とは何かと、老人は訊き返した。

「江戸に出て、名のある学者の門を叩くとか」

 老人は、咽喉の奥で笑った。

「そのようなことをして何になりましょう。百姓は、百姓。田畑を耕すのが本分でございますから」

 おすみは、ふと清吉のことを思い出した。

「しかし、学問は大切ですぞ」と、左吉は身を乗り出しながら言った、「私もむかし、生きる道に迷い、いろいろと書物を繙きました。大変ためになりましたぞ」

 老人が珍しく声を上げて笑ったので、おすみは思わず目を瞬かせた。

「百姓は、書物を読まなくとも、生きる道を知っております」

 今度は、左吉がムッとした表情を見せた。

「ほう、では、生きる道とは何でございましょう。百姓の意見をお聴きしたい」

 聊か、百姓という言葉に侮蔑が籠もっていた。

「生きるとは、百姓そのものでございます」

 左吉は首を傾げた。

 おすみも、太い眉を寄せた。

「田畑を耕し、米や大根を作る。これが、生きることでございます」

「うむ、私が馬鹿なのだろうか。ご老体のおっしゃっていることが分かりかねますが」

 左吉が馬鹿ならば、自分は大馬鹿だなとおすみは感じた。

「生きるという漢字を書いてみなされ」

 左吉は、火箸で囲炉裏の灰に「生」と書いた。

 おすみも傍らから覗き込んだ。

 桑田屋で女中をしているので、簡単な漢字ぐらいは読めた。

 老人の目は、己の手許にあった。

「よく御覧ください。生という漢字、土を耕しているように見えませんか」

 左吉と弥平は首を捻ったが、おすみは、あっとなった。

「ほら、こうです」と、灰の上に書かれた字をなぞった、「上が鍬の形で、下が土という漢字です」

 なるほど、言われてみれば、鍬で土を耕しているように見える。

「うむ、そうか、なるほど」

 二人の男は唸り、膝を叩いた。

「『生』というもともとの漢字は、『土から草の芽が息吹く』と書いたと聞いております。すなわち、田畑を耕し、新たな芽を息吹く百姓の姿こそが、『生』そのものなのでございますよ」

 おすみは、郡内騒動のときに、老人が清吉に言った意味を理解した。

 ―― そうだ、おとっつぁんは、これが言いたかったんだ。百姓の本分は、畑を耕し、作物をなすこと、それは命を作ること。命を作る百姓が、命を奪うようなことをしてはならない。そう言いたかったのね。

 老人の言葉に心を熱くした。

 それは、おすみだけではなかったようだ。

 左吉も弥平も、彼女が気付いたときには囲炉裏の傍でへいつくばっていた。

「ご老体、その言葉、心に深く染み渡りました。まさしく、百姓こそが人の姿でございます。これまでのご無礼、お許しください」

 その畏まりように、かえっておすみのほうが慌ててしまったほどだ。

「これほどの博識、もとは、さぞかしご高名な学者とお見受けしました」

「いや、いや」と、老人は手を振った、「先程も言いましたとおり、私は子どものころから百姓でございます。ただ、百姓でも、これぐらいのことは知っております」

「し、しかし………………」

「さあ、さあ、お二人ともお顔を上げてください。お客様がそのようなことをなされては、主人の立つ瀬がありません。おい、おすみ、咽喉が渇いた。白湯でも入れてくれ。お客様方にもな」

「あっ、はい」

 慌てて土間に飛び降りた。
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