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第3話
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戸を開けると、険しい山の稜線から、ようやく燃え出たばかりの朝日が、おすみの顔を優しく撫ぜた。
輝きを失っていた山肌に朝日が照らされ、女の柔肌の如く染まっていく。
夜の冷気によって凍てついた大地が、温かい日差しを受けて溶け始め、霞が女の色香の如く立ち昇っていた。
庭の片隅にある桑の木が、鈍い音を立てながら、命の源となる朝日のほうへと枝を張り伸ばしていく。
雀が、日に煌めく朝露を啜り、小さな体に太陽の命を漲らせながら明けの空に飛び立っていった。
おすみは、朝日に手を翳す。
水仕事や畑仕事で荒れている。
指先はささくれ立ち、女中仕事をしていても、着物に引っ掛けて痛みが走る。
死んだ清吉は、おすみの荒れた手を撫でながら、「すまねえ、本当にすまねぇ。俺にもう少し甲斐性があったら、こんな苦労はさせねぇのに」と、何度も何度も謝ってくれた。
おすみは、その思いだけでよかった。
手を摩ってくれるだけで、嬉しかった。
「しょうがないもの、百姓の手だもの」と、おすみは清吉に言った。
―― そうだよ、しょうがないじゃないか、百姓の手だものね。
と、自分で、自分の手を摩った。
いまは、その手を優しく摩ってくれる人さえいない。
―― 弥平さんは、この手を見たらどう思うだろうね。
おすみは、ふとそんなことを思った。
―― 汚い手だと思うはずだよ。そりゃそうだよ、江戸には綺麗な手をした人が待っているんだろうから。
それでも、一度ぐらいはこの手に触って欲しいという思いが、おすみの脳裏を横切った。
―― な、何考えてんだよ、あたしは。清吉さんに申し訳ないよ。馬鹿なこと考えてないで、朝の支度をしなくては。
慌てたように、近くの川へ水を汲み行った。
老人は、すでに床を抜け出している。
赤茶けた大地に、細い体で鍬を振り下ろしているのが見える。
おとっつぁんは今日も早い、と半ば感心し、半ば呆れながら川縁に下りていった。
川の水は、恐ろしいほどに澄んでいる。
余りに澄んでいて、おすみの顔も映り込まない。
川の底を、流れに逆らって数匹の小魚が泳いでいる。
まだ半分寝ているのか、ときたま水に流され、慌てて体を起こしている。
手を差し込む。
ひび割れた指先が沁みる。
おすみは、指先の痛さに耐えながら顔を濯いだ。
体中の眠気が抜けて、精気が漲ってゆく想いがした。
水桶をいっぱいにして川縁から上がると、家のほうから、男の掛け声が聞こえてきた。
おすみは、なにごとかと首を傾げながら家に急いだ。
庭先に入ると、もろ肌を脱いだ男が、棒切れを木刀代わりして素振りをしていた。
男は、弥平だった。
おすみは、しばし弥平の硬く引き締まった背中に見惚れた。
それは、棒切れを振り下ろすたびに波打ち、しっとりと掻いた汗が日の光を帯びて艶かしく輝いていた。
腕は、若鹿の足の如く筋肉が詰り、澄んだ空に優美な半円を描いて、涼やかな春風を起した。
おすみは、己の体が一気に熱くなっていくのに気がついていた。
―― なんだろう。この感じ。体が火照るような気だるさは。そうだよ、春のせいだ。春の日差しのせいだよ。本当に、罪作りなお天道様だね。
おすみは、素知らぬ顔で照り付ける太陽を見上げた。
「おや、おすみさん、おはようございます」
おすみの気配に気が付いた男が振り返り、愛嬌のある笑窪を作った。
「あっ、お、おはようございます。お早いですね? 昨夜は良く眠れましたか?」
頬が真っ赤になっていないだろうかと、おすみは気になった。
「ええ、お陰さまでよく眠れました。左吉さんは、まだぐっすりと休んでおりますよ」
開いた戸の奥に、左吉の両足が覗いている。
「おすみさんこそ早いですね。いつも、このぐらいですか」
「私は遅いほうですよ。おとっつぁんは、もう畑に出てますし」
弥平は、遠くを見る目をした。なるほど、そこに老人の姿が見受けられ、大地に鍬を叩きつける乾いた音が響き渡っていた。
「うむ、ご老体はお若い」
弥平も、半ば感心したような、半ば呆れたような口調で言った。
「弥平様は、剣術のお稽古ですか」
おすみは、弥平が木刀代わりにしていた棒切れを見た。
「ええ、一応、刀売りですから。刀のことを知らないといけませんからね」
と、一振りした。
「というのもありますが、実を言いますと、私はむかし剣術を習っていたのですよ。そのときの朝稽古の癖が未だに抜けなくて」
おすみは、双眸を見開いた。
「まあ、刀売りになるためにですか?」
「いやいや、刀売りになったのは……、その……、金に困ったからです」と、弥平は躊躇いがちに話し出した、「昨夜、左吉さんが、金に困った侍の刀を買い取って売りさばいているとは言いましたが、実のところ、金に困っていたのは私のほうだったのです」
弥平は、恥ずかしそうな顔をしながら頭を掻いた。
「剣の修行がしたくて江戸に出てきたのですが、いまどき剣術だけでは食べていけませんからね」と、昨夜の無口が嘘のようにしゃべりだした、「その点は、この地方の百姓と同じです。銭がなければ、飯も食えませんから。そのころ、同じ剣術道場に通っていた左吉さんと会いましてね」
「じゃあ、左吉様もお侍様ですか?」
「ええ、もと」
弥平は、「もと」という言葉にことさら力を入れた。
なるほど、どうりで言葉使いが馬鹿丁寧なはずだ。
「左吉さんも金に困っていましてね。背に腹はかえられませんから、結局、武士の魂よりも命を取りました」
左吉と、何か商売をやろうではないかという話になった。
だが、剣術しかしてこなかった人間にできそうなことなど、そう簡単には見つからない。
四十手前の男では、いまさら手に職も付けられない。
「えっ、じゃあ、左吉さんと同い年ですか?」
おすみは、驚いて聞いた。
「いえ、私のほうが年上ですよ」
さらに驚いた。
どうみても弥平のほうが年若に見える。
人は見かけによらないものだと、おすみは思った。
「もしかして、私のほうが年下に見えましたか」
「ええ、てっきり」
「なるほど、こいつは左吉さんに自慢してやろう」
弥平は、形のいい顎を摩りながら、笑みを零した。
「まあ、年も年ですし、いまさら丁稚奉公もできませんからね」
考えた末、刀売りの行商を始めたということだった。
「江戸では、貧乏侍が溢れてましたからね。金欲しさに、質屋に武士の魂を入れていくんです」
天下泰平の世の中である。
刀や槍などが何の役に立とうか?
江戸の質屋では、がらくた同然に扱われる。
左吉は、それに目を付けた。質屋で安く買い叩いて、地方で売りさばくのだ。
地方に散った博徒ややくざ者は、侍の使っていた良い得物を手に入れたがる。
「お陰で、なかなかよい商いをさせてもらいました。中には、細工の上手い、良い刀もありましてね、これが地方の豪商にはいい値で売れるんです。家宝なんですよ。侍が、どうしても金に困って、家宝の刀にまで手を出すんです。まあ、そうなったら、侍も終わりですが。ああ、私がこんなことをいったらいけませんね」
弥平は、屈託もなく笑った。
おすみは、何と言っていいのか分からず、弥平につられて愛想笑いをした。
「やあ、冷たそうな水だ」
一頻り笑うと、弥平はおすみの持っていた水桶に目を向けた。
「ああ、どうぞ、さっき汲んできた水ですから、冷たくて気持ちがいいですよ」
「やあ、それは忝い」
男は、水桶の中に手を突っ込み、顔を濯いだ。
おすみは、さり気なく手拭いを差し出した。
手渡すときに、弥平の手に触れた。
あっと、おすみは慌てて手を引っ込めたが、弥平はそれに気がついていなかったようだ。
―― なに慌ててんだい、あたしは。初心な生娘でもあるまいし。
とは思ったものの、妙に頬が熱かった。
「いや、水が減ってしまったな。私がもう一度水を汲んできましょう。畑の傍にあった川でしょう?」
「いえ、そんな、結構ですよ。あたし、もう一度行って来ますから」
おすみは遠慮したのだが、弥平のほうはどうしても譲らず、水桶を半ば奪われるような形になってしまった。
「飯付きで泊めていただくのですから、これぐらいのことはしないと。昼間も、左吉さんは例のお客さんのところに行きますが、私はご老体の畑仕事を手伝わせていただきますので」
「まあ、そんなことまで………………」
「いえ、これでも毎日鍛えていますので。ところで……、先程からこちらを覗いている男がいるのですが」
弥平の視線を追うと、桑の木の後ろに隠れるようにして、顔には未だ子どもっぽさが残る男が、こちらの様子を窺っていた。
「あっ、金次」
思わず口にしてしまった。
「ああ、あの子が……、いや、私は水を汲んできましょう」
弥平は、気を利かして川のほうへと下りていった。
おすみは、金次に駆け寄った。
どうせ金目当てに寄ったのだろう。
土場で張る金がなくなったら帰って来る。
生活もぎりぎりなのだから、金をやらずにおけばいいのだが、土場で借金でも拵えて、虎八のところから抜けられなくなったら困る。
―― 馬鹿息子だけど、あたしの子どもだものね。
甘いとは分かっていても、ついつい渡してしまうのである。
おすみは、自分自身に呆れながらも懐に手を入れた。
金次は、上目遣いで母親を睨んだ。
「なんだよ、あの男」
「泊り客だよ。宿場のほうは性質の悪いやつらが多くて、安心して泊まれないっていうから、泊めてやってんだよ」
おすみは、金次に当て付けるように言った。
「本当かよ。もしかして、色じゃねだろうな。おやじが亡くなって、もう男を連れ込んだんじゃねえだろうな」
おすみは、かっと金次を睨みつけた。
「金次、親に向ってなんだい、その口の利き方は。母ちゃんはね、父ちゃんが亡くなってから、じいちゃんとお前のためだけに必死になって働いてきたんだよ。幾らお前でも、そんな口の利き方は、母ちゃん許さないよ」
太い眉を寄せて怒った。
金次は、「ちぇっ、どうだかな」と唾を吐き捨て、踵を返した。
「ちょいと、金次、どこ行くんだい。金じゃないのかい。折角帰って来たんだから、朝飯でも食っていきなよ。金次」
呼び止めても、金次は振り返ることなく宿場のほうへと、肩で風を切るようにして歩いていった。
金次と入れ替わるように、老人が畑から帰ってきた。
「おすみ、朝飯にしようか。どうした、おすみ」
「うん、おとっつぁん、金次が………………」
「ああ、いましがた会った。あいさつもせんと通り過ぎよったわ」
「すみません、あたしの育て方が悪いばかりに、おとっつぁんにまで迷惑かけて」
「いや、おまんは、ようやっとる。あそこまで育てただけで、十分じゃ。あいつも百姓の息子だ。自分の生き方ぐらい分かっておるよ。おまんが気にすることじゃない。それよりも、朝飯にしよう。お客さんも起してな」
老人は、家の中に入っていった。
おすみは、それでもなお、金次の後姿を寂しそうに見送った。
春風に、後れ毛が靡いた。
輝きを失っていた山肌に朝日が照らされ、女の柔肌の如く染まっていく。
夜の冷気によって凍てついた大地が、温かい日差しを受けて溶け始め、霞が女の色香の如く立ち昇っていた。
庭の片隅にある桑の木が、鈍い音を立てながら、命の源となる朝日のほうへと枝を張り伸ばしていく。
雀が、日に煌めく朝露を啜り、小さな体に太陽の命を漲らせながら明けの空に飛び立っていった。
おすみは、朝日に手を翳す。
水仕事や畑仕事で荒れている。
指先はささくれ立ち、女中仕事をしていても、着物に引っ掛けて痛みが走る。
死んだ清吉は、おすみの荒れた手を撫でながら、「すまねえ、本当にすまねぇ。俺にもう少し甲斐性があったら、こんな苦労はさせねぇのに」と、何度も何度も謝ってくれた。
おすみは、その思いだけでよかった。
手を摩ってくれるだけで、嬉しかった。
「しょうがないもの、百姓の手だもの」と、おすみは清吉に言った。
―― そうだよ、しょうがないじゃないか、百姓の手だものね。
と、自分で、自分の手を摩った。
いまは、その手を優しく摩ってくれる人さえいない。
―― 弥平さんは、この手を見たらどう思うだろうね。
おすみは、ふとそんなことを思った。
―― 汚い手だと思うはずだよ。そりゃそうだよ、江戸には綺麗な手をした人が待っているんだろうから。
それでも、一度ぐらいはこの手に触って欲しいという思いが、おすみの脳裏を横切った。
―― な、何考えてんだよ、あたしは。清吉さんに申し訳ないよ。馬鹿なこと考えてないで、朝の支度をしなくては。
慌てたように、近くの川へ水を汲み行った。
老人は、すでに床を抜け出している。
赤茶けた大地に、細い体で鍬を振り下ろしているのが見える。
おとっつぁんは今日も早い、と半ば感心し、半ば呆れながら川縁に下りていった。
川の水は、恐ろしいほどに澄んでいる。
余りに澄んでいて、おすみの顔も映り込まない。
川の底を、流れに逆らって数匹の小魚が泳いでいる。
まだ半分寝ているのか、ときたま水に流され、慌てて体を起こしている。
手を差し込む。
ひび割れた指先が沁みる。
おすみは、指先の痛さに耐えながら顔を濯いだ。
体中の眠気が抜けて、精気が漲ってゆく想いがした。
水桶をいっぱいにして川縁から上がると、家のほうから、男の掛け声が聞こえてきた。
おすみは、なにごとかと首を傾げながら家に急いだ。
庭先に入ると、もろ肌を脱いだ男が、棒切れを木刀代わりして素振りをしていた。
男は、弥平だった。
おすみは、しばし弥平の硬く引き締まった背中に見惚れた。
それは、棒切れを振り下ろすたびに波打ち、しっとりと掻いた汗が日の光を帯びて艶かしく輝いていた。
腕は、若鹿の足の如く筋肉が詰り、澄んだ空に優美な半円を描いて、涼やかな春風を起した。
おすみは、己の体が一気に熱くなっていくのに気がついていた。
―― なんだろう。この感じ。体が火照るような気だるさは。そうだよ、春のせいだ。春の日差しのせいだよ。本当に、罪作りなお天道様だね。
おすみは、素知らぬ顔で照り付ける太陽を見上げた。
「おや、おすみさん、おはようございます」
おすみの気配に気が付いた男が振り返り、愛嬌のある笑窪を作った。
「あっ、お、おはようございます。お早いですね? 昨夜は良く眠れましたか?」
頬が真っ赤になっていないだろうかと、おすみは気になった。
「ええ、お陰さまでよく眠れました。左吉さんは、まだぐっすりと休んでおりますよ」
開いた戸の奥に、左吉の両足が覗いている。
「おすみさんこそ早いですね。いつも、このぐらいですか」
「私は遅いほうですよ。おとっつぁんは、もう畑に出てますし」
弥平は、遠くを見る目をした。なるほど、そこに老人の姿が見受けられ、大地に鍬を叩きつける乾いた音が響き渡っていた。
「うむ、ご老体はお若い」
弥平も、半ば感心したような、半ば呆れたような口調で言った。
「弥平様は、剣術のお稽古ですか」
おすみは、弥平が木刀代わりにしていた棒切れを見た。
「ええ、一応、刀売りですから。刀のことを知らないといけませんからね」
と、一振りした。
「というのもありますが、実を言いますと、私はむかし剣術を習っていたのですよ。そのときの朝稽古の癖が未だに抜けなくて」
おすみは、双眸を見開いた。
「まあ、刀売りになるためにですか?」
「いやいや、刀売りになったのは……、その……、金に困ったからです」と、弥平は躊躇いがちに話し出した、「昨夜、左吉さんが、金に困った侍の刀を買い取って売りさばいているとは言いましたが、実のところ、金に困っていたのは私のほうだったのです」
弥平は、恥ずかしそうな顔をしながら頭を掻いた。
「剣の修行がしたくて江戸に出てきたのですが、いまどき剣術だけでは食べていけませんからね」と、昨夜の無口が嘘のようにしゃべりだした、「その点は、この地方の百姓と同じです。銭がなければ、飯も食えませんから。そのころ、同じ剣術道場に通っていた左吉さんと会いましてね」
「じゃあ、左吉様もお侍様ですか?」
「ええ、もと」
弥平は、「もと」という言葉にことさら力を入れた。
なるほど、どうりで言葉使いが馬鹿丁寧なはずだ。
「左吉さんも金に困っていましてね。背に腹はかえられませんから、結局、武士の魂よりも命を取りました」
左吉と、何か商売をやろうではないかという話になった。
だが、剣術しかしてこなかった人間にできそうなことなど、そう簡単には見つからない。
四十手前の男では、いまさら手に職も付けられない。
「えっ、じゃあ、左吉さんと同い年ですか?」
おすみは、驚いて聞いた。
「いえ、私のほうが年上ですよ」
さらに驚いた。
どうみても弥平のほうが年若に見える。
人は見かけによらないものだと、おすみは思った。
「もしかして、私のほうが年下に見えましたか」
「ええ、てっきり」
「なるほど、こいつは左吉さんに自慢してやろう」
弥平は、形のいい顎を摩りながら、笑みを零した。
「まあ、年も年ですし、いまさら丁稚奉公もできませんからね」
考えた末、刀売りの行商を始めたということだった。
「江戸では、貧乏侍が溢れてましたからね。金欲しさに、質屋に武士の魂を入れていくんです」
天下泰平の世の中である。
刀や槍などが何の役に立とうか?
江戸の質屋では、がらくた同然に扱われる。
左吉は、それに目を付けた。質屋で安く買い叩いて、地方で売りさばくのだ。
地方に散った博徒ややくざ者は、侍の使っていた良い得物を手に入れたがる。
「お陰で、なかなかよい商いをさせてもらいました。中には、細工の上手い、良い刀もありましてね、これが地方の豪商にはいい値で売れるんです。家宝なんですよ。侍が、どうしても金に困って、家宝の刀にまで手を出すんです。まあ、そうなったら、侍も終わりですが。ああ、私がこんなことをいったらいけませんね」
弥平は、屈託もなく笑った。
おすみは、何と言っていいのか分からず、弥平につられて愛想笑いをした。
「やあ、冷たそうな水だ」
一頻り笑うと、弥平はおすみの持っていた水桶に目を向けた。
「ああ、どうぞ、さっき汲んできた水ですから、冷たくて気持ちがいいですよ」
「やあ、それは忝い」
男は、水桶の中に手を突っ込み、顔を濯いだ。
おすみは、さり気なく手拭いを差し出した。
手渡すときに、弥平の手に触れた。
あっと、おすみは慌てて手を引っ込めたが、弥平はそれに気がついていなかったようだ。
―― なに慌ててんだい、あたしは。初心な生娘でもあるまいし。
とは思ったものの、妙に頬が熱かった。
「いや、水が減ってしまったな。私がもう一度水を汲んできましょう。畑の傍にあった川でしょう?」
「いえ、そんな、結構ですよ。あたし、もう一度行って来ますから」
おすみは遠慮したのだが、弥平のほうはどうしても譲らず、水桶を半ば奪われるような形になってしまった。
「飯付きで泊めていただくのですから、これぐらいのことはしないと。昼間も、左吉さんは例のお客さんのところに行きますが、私はご老体の畑仕事を手伝わせていただきますので」
「まあ、そんなことまで………………」
「いえ、これでも毎日鍛えていますので。ところで……、先程からこちらを覗いている男がいるのですが」
弥平の視線を追うと、桑の木の後ろに隠れるようにして、顔には未だ子どもっぽさが残る男が、こちらの様子を窺っていた。
「あっ、金次」
思わず口にしてしまった。
「ああ、あの子が……、いや、私は水を汲んできましょう」
弥平は、気を利かして川のほうへと下りていった。
おすみは、金次に駆け寄った。
どうせ金目当てに寄ったのだろう。
土場で張る金がなくなったら帰って来る。
生活もぎりぎりなのだから、金をやらずにおけばいいのだが、土場で借金でも拵えて、虎八のところから抜けられなくなったら困る。
―― 馬鹿息子だけど、あたしの子どもだものね。
甘いとは分かっていても、ついつい渡してしまうのである。
おすみは、自分自身に呆れながらも懐に手を入れた。
金次は、上目遣いで母親を睨んだ。
「なんだよ、あの男」
「泊り客だよ。宿場のほうは性質の悪いやつらが多くて、安心して泊まれないっていうから、泊めてやってんだよ」
おすみは、金次に当て付けるように言った。
「本当かよ。もしかして、色じゃねだろうな。おやじが亡くなって、もう男を連れ込んだんじゃねえだろうな」
おすみは、かっと金次を睨みつけた。
「金次、親に向ってなんだい、その口の利き方は。母ちゃんはね、父ちゃんが亡くなってから、じいちゃんとお前のためだけに必死になって働いてきたんだよ。幾らお前でも、そんな口の利き方は、母ちゃん許さないよ」
太い眉を寄せて怒った。
金次は、「ちぇっ、どうだかな」と唾を吐き捨て、踵を返した。
「ちょいと、金次、どこ行くんだい。金じゃないのかい。折角帰って来たんだから、朝飯でも食っていきなよ。金次」
呼び止めても、金次は振り返ることなく宿場のほうへと、肩で風を切るようにして歩いていった。
金次と入れ替わるように、老人が畑から帰ってきた。
「おすみ、朝飯にしようか。どうした、おすみ」
「うん、おとっつぁん、金次が………………」
「ああ、いましがた会った。あいさつもせんと通り過ぎよったわ」
「すみません、あたしの育て方が悪いばかりに、おとっつぁんにまで迷惑かけて」
「いや、おまんは、ようやっとる。あそこまで育てただけで、十分じゃ。あいつも百姓の息子だ。自分の生き方ぐらい分かっておるよ。おまんが気にすることじゃない。それよりも、朝飯にしよう。お客さんも起してな」
老人は、家の中に入っていった。
おすみは、それでもなお、金次の後姿を寂しそうに見送った。
春風に、後れ毛が靡いた。
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