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第1話
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おすみは立ち止まり、後ろを振り返った。
春陽はすでに姿を消し、西の山際を鮮やかに染めている。
東の大地は漆黒の闇に支配され、遠くに犬目宿の明かりが点々と灯っていた。
犬目は、甲州街道の小さな宿場町である。
おすみは、目を凝らして、来た道を見詰めた。
甲州街道をすぐ脇に逸れると、山の谷間に痩せこけた田畑が申し訳程度に広がっている。
その田畑の間の、僅かに盛り上がった赤茶けた土が、おすみの通い慣れた道であった。
来た道は、夜の帳が下ろされて、半分以上が姿を消していた。
うかうかしていると、おすみも闇の世界に呑み込まれて、姿を消すことになるであろう。
しかし、おすみはその場に立ち止まったまま、じっと道を見詰め続けた。
いる。
闇と光の狭間に蠢く影がいる。
―― 誰かに付けられている。
通いで女中をしている旅籠「桑田屋」を出てきたころからだろうか。
誰かに付けられているような気がしてならなかった。
太い眉を寄せ、眉間に皺を刻んで闇を見詰める。
夜は、馬よりも速く駆けてくる。先ほどより、一丈ほど闇が迫ってきている。
いまは、蠢く影を見つけることはできない。
―― 気のせいか………………
おすみは、手に提げていた風呂敷包みを、胸に抱えるようにして持ち直し、家路を急いだ。
しばらく赤茶けた砂ぼこりを立てながら歩いていると、足音が二つほど多いことに気が付いた。
歩を止めた。
足音も止まった。
―― やっぱり付けられてる、それも二人。
おすみは、すうっと大きな息を吸うと、後ろを振り返ることなく、一目散に走り始めた。
足音も、慌てたように付いてきた。
―― 宿場荒し?
その言葉が浮かんだのは、昼間にその話が出たからだ。
甲州街道沿いの宿場が、次々と被害にあっていた。
宿に泊まっては、客の金品から帳場の金まで盗んでいく。
その手並みが鮮やかなので、誰も男の姿を見たことがない。
いや、男かどうかも分からない。
奴さんは二人連れ、ということだけ分かっていた。
ただ、宿場荒しならば、宿に泊まるはずだ。
わざわざ、こんな田舎道に入り込む必要もない。
―― さては、虎八の子分だね。そうだよ、きっと、虎八のところの若いもんだよ。全く、しつこいね。
虎八とは、犬目の下宿を縄張りにしている博徒の親分である。
おすみにべた惚れで、「妾にならねえか」としつこく迫っていた。
おすみは、ほっそりとした頬に、意志の強そうな濃い眉と、きりりと上がった勝気そうな目元をしている。
鼻は緩やかに落ちていき、ふっくらと厚ぼったい唇が色っぽい。
若いころから、「犬目小町」などと評されて、おすみに会いたいがために、桑田屋に泊まる馴染み客も多かった。
いまでは、顔は青白く、目の下に刻みつけられたような隈が浮かんで、幾分やつれたように見えるが、それでも、「病み上がりのような、その気だるさがまた艶っぽい」と、男たちの評判だった。
虎八も、彼女の色気に当てられた口だった。
おすみは、虎八の申し出を考えることもなく断った。
今年で三十二であるが、四十過ぎの男の世話になるほど苦労はしていないつもりであるし、博徒の妾になるつもりもない。
加えて、虎八の顔が生理的に受け付けない。
虎八はやくざの親分でありながら、陣屋から手札を貰っている目明しでもあった。
子分からは、「四つ目の虎」と恐れられていた。
本人は、「四方に睨みを利かせる虎よ」と大威張りだが、村や宿場の者たちは、「賽の目の四だよ」と陰で笑っている。
虎八の鼻は上反り、桑の実がすっぽり収まるほどの穴が丸見えだったので、達磨のような目玉と相まって、それが賽の目の四に見えるのだ。
おすみの好みは、目元は涼やかで、鼻筋は躊躇いもなく落ちていくような、すっきりとした顔の男だ。
初めから虎八に望みはなかったのだ。
だが、虎八を断ったのは、妾と博徒、そして顔の件だけではない。
死んだ亭主の一件があったからだ。
―― そうだよ、あんなやつと一緒になったら、あの人が浮かばれないよ。
一方、虎八は、断られたからといって簡単に引き下がるような男ではない。
徒党を組んで、おすみの働いている桑田屋に押しかけたり、若い者を使って旅籠の周りをうろつかせたりと、嫌がらせを続けていた。
自分が迷惑するならそれでいいのだが、店に迷惑をかけるわけにはいかない。
おすみは、桑田屋の女主人のおえいに、「店に迷惑をかけるので辞めたい」と伝えたが、このおえいが気骨のある女で、「あんな連中、相手にするんじゃないよ。うちは、おすみちゃんが居てくれなくちゃ、客足が落ちるんだから、働いてくれなきゃこまるよ」と笑顔で言ってくれた。
ただ、おすみの目にも、旅籠の客が減っているのは明らかだった。
おすみは、これ以上、おえいさんに甘えてられないね、と考えている。
虎八の手は、桑田屋だけでなく、おすみの一人息子にも及んでいた。
「ちょいと、金次に手を出さないでおくれな。あの子は、まだ十五なんだよ」
その年頃の男子といえば、体も大きくなり、親への反抗心も湧いてくる。
直接本人に注意したところで、聞き耳を持たない。
そこで、おすみは虎八に直談判したのだが、肝心の虎八は、それを聞いて鼻で笑った。
「俺が誘ったじゃねえよ。あいつのほうから来やがったのさ。金次はなかなか見込みがあるぜ。顔は、親父に似て大人しそうに見えるが、度胸は清吉(せいきち)よりはよっぽどあらな」
清吉は、おすみの死んだ亭主の名だ。
父親と二人で、小さな田畑を作っていた。
清吉は、穏やかな性格で、争いごとを好まない男だった。
酒も煙草もやらない、女や博打なんてもっての他の働き者だった。
ただ、幾ら働いても、貧しさからは抜け出せなかった。
貧しいのは、みな同じである。
どうせ同じなら、働き者の男がいい。
おすみは、数ある男の申し込みを断って、十五の春に清吉の下に行った。
清吉が、おすみ好みの顔をしていたのも、彼女の心に拍車をかけた。
ふられた男の中には、若い虎八もいた。
その清吉が死んだのは、昨年の冬だった。
村の寄り合いに出た帰りだった。
雪で白んだ田んぼの中に、うつ伏せて死んでいた。
「きっと、酒に酔って、誤って嵌まり込んだのだろう」ということで済まされた。
おすみは納得がいかなかった。
元来、清吉は酒を飲まない ―― どうして酒に酔うことができるのか?
寄り合いに集まった者も、清吉が酒を飲むところを見た者はいなかったし、清吉が虎八の子分に絡まれているところを目撃した者もいた。
―― これは殺しだ。きっと虎八のところの子分が殺したに違いないよ。
虎八一家は、強請り、たかりは当然のこと。
若いやつらも血の気の多い者ばかりで、気に食わない相手は殺せばいいという、どうしようもない連中の集まりだった。
おすみは名主や組頭に訴えたが、みんな虎八一家を恐れて口を噤んだままだった。
陣屋にも訴え出たが、当時は郡内騒動の後処理の真っ最中ということもあって、清吉の一件は処理済みということで門前払いを食らわされた。
噂では、虎八が陣屋の手代に金をやって、ことを有耶無耶にしたとか。
―― 全く、この世には、神も仏もないのかい。
夫を失った悲しみと、力の強いものだけが得をするという世の中の不条理に、おすみは涙を溢れさせた。
―― こんな世の中、本当に生きていく価値があるのかねえ………………
清吉の下にいっちまおうかとも思った。
その方が、随分楽だ。
―― でも、金次がいるし。清吉さんのおとっつぁんだって、息子を失った上に、あたしまでいなくなったんじゃ………………
それは何とか思いとどまった。
ただ、流れる涙を抑えることはできずに、赤茶けた畦道に濃い染みを作りながら、家まで帰ったことを昨日のように思えている。
この道を通れば、そのことが思い出されて、自然と涙が溢れてくるものだ。
だが、いまはそうはいかない。
虎八の手下に付けられているのだから、泣く暇もない。
むしろ、怒りが込み上げてくる。
―― 家まで付いてきて、どうしようっていうんだい? 夜道で掻っ攫おうっていうんじゃないだろうね。それともなにかい、あの人と同じように、あの世に送ろうってことかい? そうかい、それなら、そうして欲しいね。早くあの人のところにいけるんだからね。
とは思いながらも、おすみの足は一段と早くなっていた。
後ろから付いてきている足も、追いつこうと必死なようだ。
半里近く駆けたところで、大きな桑の木が見えてきた。
近くに、明かりも見える。
おすみと義父が住む家である。
格子窓の間からは、煙が上がっている。
その明かりと煙が立ち昇るのを見て、おすみは愁眉を開いた。
立ち止まることなく家に近付き、勢いよく戸を引き開け、土間に駆け込んだ。
家に飛び込むと、すぐさま引き戸を閉め、おすみはその場にへたり込んだ。
青白い頬は薄桃色に染まり、額には薄っすらと汗を掻いていた。
至極息苦しい。
胸も大きく波打っている。
おすみは、二、三度喘ぐように大きな息をした。
「どうした、おすみ」
囲炉裏の傍らに腰を落とし、草鞋を編んでいた老人が、窪んだ目を大きく見開いて訊いた。
「あうっ……、あっ……、あっ……」
息が詰って声が出ない。
焦れば焦るほど、咽喉が窄まっていった。
「どれ、水を飲めし」
老人は土間に下り、水甕から柄杓で水を掬った。
おすみは、老人の手を借りながら、生ぬるい水を一気に飲んでいった。
老人は、清吉の父親で、おすみの義父であった。
清吉亡き後、身寄りのないおすみは、義父を本当の父だと思って尽くしてきた。
老人も、おすみを本当の娘のように扱ってくれる。
老人は、優に六十を過ぎているのだが、いまも矍鑠と畑仕事に出ている。
そのせいで四角張った顔はほどよく日焼けして、薄い唇と相まって、精悍な顔つきをしていた。
咽喉が潤ったためか、人心地付いた。
声も戻った。
「お、おとっつぁん、つ、付けられた。虎八のやつらだ」
「付けられた? 今度は、おまんさんを付けとるんか」
老人は、半ば呆れたような口調で言った。
おすみから嫌がらせを受けていることは聞いていた。
それを聞いて老人は、「全く、暇なことをするやつらだ。そんな暇があるなら、畑でも耕したらよかろうに」と、もっともな感想を述べた。
今回も、「夜中に女の尻を追いかける暇があるなら、草鞋の一つでも編んでいたほうがよかろうに」とでも思ったのだろう。
やれやれといった表情で老人は訊いた。
「ここまで付けられたんか?」
おすみが首を縦に振ろうとした瞬間に、引き戸が二度叩かれた。
おすみは身を凍らせた。
―― 来た、付けて来ただけじゃなくて、家にまでのり込んでくるのかい?
再び胸が大きく波打っていった。
顔が硬直しているおすみとは反対に、老人のほうは穏やかな顔になった。
「おすみ、開けてやれ」
「で、でも、おとっつぁん、虎八のやつら……」
「虎八のやつらだったら戸は叩かん。断りもなく戸を開ける」
「じゃあ、宿場荒しじゃあ?」
「宿場荒し? ならなおのこと、心配ない。うちには盗まれるものはない」
それもそうだと、おすみは思った。
それでも、恐る恐る戸を引き、暗闇に顔を出した。
二人の見知らぬ男が立っていた。
格好から行って、行商か何かであろう。
後ろに立っている男のほうは、大きな荷物を背負っていた。
手前にいた、大きな目をした男が、愛想よく訊いてきた。
「すみません、この辺りに旅籠はございませんか」
この辺りは全て農家である。
おすみがそれを教えてやると、男は仕舞ったというような顔をして、額をぴしゃりと叩いた。
春の夜空に、乾いた音が響いた。
「いや、これは参った、そうでしたか。いや、実はこの道を歩いていくお人の姿があったので、こちらにも宿があるのかと思ったのですよ」
付けてきたのは、どうやらこの男たちで間違いないようだ。
「いや、なにせ、前の宿場にはちょいと素性のよろしくない方々が屯なさっていましたので、もう少し枕を高くして眠れそうな宿を捜していたのですが、そうでしたか、いや、これは参った。また一里先まで戻らないといけないね、さん」
男は、さも大儀そうに言った。
おすみには、その言葉の端々に、「良ければ泊めていただけないか」というような気持ちが暗に籠もっているように思われた。
男たちの頭の先からつま先まで、舐めるようにして見た。
どちらも虎八の子分たちのような荒くれ者には見えない。
もちろん、宿場荒しにも見えない。
虎八たちを、「素性のよろしくない方々」と言っているので、堅気の人間だろう。
それも、使っている言葉が馬鹿に丁寧なので、江戸の大店の人間かもしれない。
―― それに、この人たちは、あたしに付いてきたんだし………………
道に迷ったのが、何となく自分の責任のような感じがして、おすみは居た堪れなかった。
おすみは義父を見た。
義父は、おすみを一瞥して言った。
「これから宿場まで戻られるのも難儀じゃろうて。それに今日は新月、夜道は危ない。囲炉裏端で雑魚寝になりますが、それでもよろしければ、お止まりください」
老人がそう言うと、男たちは安堵の表情を浮かべた。
おすみも笑顔を零した。
男たちと目があった。慌てて、綻んだ頬を引き締め、男たちを招きいれた。
「いや、そうですか、それはまことに忝い。それでは失礼して」
二人の男が敷居を跨いだ。
春陽はすでに姿を消し、西の山際を鮮やかに染めている。
東の大地は漆黒の闇に支配され、遠くに犬目宿の明かりが点々と灯っていた。
犬目は、甲州街道の小さな宿場町である。
おすみは、目を凝らして、来た道を見詰めた。
甲州街道をすぐ脇に逸れると、山の谷間に痩せこけた田畑が申し訳程度に広がっている。
その田畑の間の、僅かに盛り上がった赤茶けた土が、おすみの通い慣れた道であった。
来た道は、夜の帳が下ろされて、半分以上が姿を消していた。
うかうかしていると、おすみも闇の世界に呑み込まれて、姿を消すことになるであろう。
しかし、おすみはその場に立ち止まったまま、じっと道を見詰め続けた。
いる。
闇と光の狭間に蠢く影がいる。
―― 誰かに付けられている。
通いで女中をしている旅籠「桑田屋」を出てきたころからだろうか。
誰かに付けられているような気がしてならなかった。
太い眉を寄せ、眉間に皺を刻んで闇を見詰める。
夜は、馬よりも速く駆けてくる。先ほどより、一丈ほど闇が迫ってきている。
いまは、蠢く影を見つけることはできない。
―― 気のせいか………………
おすみは、手に提げていた風呂敷包みを、胸に抱えるようにして持ち直し、家路を急いだ。
しばらく赤茶けた砂ぼこりを立てながら歩いていると、足音が二つほど多いことに気が付いた。
歩を止めた。
足音も止まった。
―― やっぱり付けられてる、それも二人。
おすみは、すうっと大きな息を吸うと、後ろを振り返ることなく、一目散に走り始めた。
足音も、慌てたように付いてきた。
―― 宿場荒し?
その言葉が浮かんだのは、昼間にその話が出たからだ。
甲州街道沿いの宿場が、次々と被害にあっていた。
宿に泊まっては、客の金品から帳場の金まで盗んでいく。
その手並みが鮮やかなので、誰も男の姿を見たことがない。
いや、男かどうかも分からない。
奴さんは二人連れ、ということだけ分かっていた。
ただ、宿場荒しならば、宿に泊まるはずだ。
わざわざ、こんな田舎道に入り込む必要もない。
―― さては、虎八の子分だね。そうだよ、きっと、虎八のところの若いもんだよ。全く、しつこいね。
虎八とは、犬目の下宿を縄張りにしている博徒の親分である。
おすみにべた惚れで、「妾にならねえか」としつこく迫っていた。
おすみは、ほっそりとした頬に、意志の強そうな濃い眉と、きりりと上がった勝気そうな目元をしている。
鼻は緩やかに落ちていき、ふっくらと厚ぼったい唇が色っぽい。
若いころから、「犬目小町」などと評されて、おすみに会いたいがために、桑田屋に泊まる馴染み客も多かった。
いまでは、顔は青白く、目の下に刻みつけられたような隈が浮かんで、幾分やつれたように見えるが、それでも、「病み上がりのような、その気だるさがまた艶っぽい」と、男たちの評判だった。
虎八も、彼女の色気に当てられた口だった。
おすみは、虎八の申し出を考えることもなく断った。
今年で三十二であるが、四十過ぎの男の世話になるほど苦労はしていないつもりであるし、博徒の妾になるつもりもない。
加えて、虎八の顔が生理的に受け付けない。
虎八はやくざの親分でありながら、陣屋から手札を貰っている目明しでもあった。
子分からは、「四つ目の虎」と恐れられていた。
本人は、「四方に睨みを利かせる虎よ」と大威張りだが、村や宿場の者たちは、「賽の目の四だよ」と陰で笑っている。
虎八の鼻は上反り、桑の実がすっぽり収まるほどの穴が丸見えだったので、達磨のような目玉と相まって、それが賽の目の四に見えるのだ。
おすみの好みは、目元は涼やかで、鼻筋は躊躇いもなく落ちていくような、すっきりとした顔の男だ。
初めから虎八に望みはなかったのだ。
だが、虎八を断ったのは、妾と博徒、そして顔の件だけではない。
死んだ亭主の一件があったからだ。
―― そうだよ、あんなやつと一緒になったら、あの人が浮かばれないよ。
一方、虎八は、断られたからといって簡単に引き下がるような男ではない。
徒党を組んで、おすみの働いている桑田屋に押しかけたり、若い者を使って旅籠の周りをうろつかせたりと、嫌がらせを続けていた。
自分が迷惑するならそれでいいのだが、店に迷惑をかけるわけにはいかない。
おすみは、桑田屋の女主人のおえいに、「店に迷惑をかけるので辞めたい」と伝えたが、このおえいが気骨のある女で、「あんな連中、相手にするんじゃないよ。うちは、おすみちゃんが居てくれなくちゃ、客足が落ちるんだから、働いてくれなきゃこまるよ」と笑顔で言ってくれた。
ただ、おすみの目にも、旅籠の客が減っているのは明らかだった。
おすみは、これ以上、おえいさんに甘えてられないね、と考えている。
虎八の手は、桑田屋だけでなく、おすみの一人息子にも及んでいた。
「ちょいと、金次に手を出さないでおくれな。あの子は、まだ十五なんだよ」
その年頃の男子といえば、体も大きくなり、親への反抗心も湧いてくる。
直接本人に注意したところで、聞き耳を持たない。
そこで、おすみは虎八に直談判したのだが、肝心の虎八は、それを聞いて鼻で笑った。
「俺が誘ったじゃねえよ。あいつのほうから来やがったのさ。金次はなかなか見込みがあるぜ。顔は、親父に似て大人しそうに見えるが、度胸は清吉(せいきち)よりはよっぽどあらな」
清吉は、おすみの死んだ亭主の名だ。
父親と二人で、小さな田畑を作っていた。
清吉は、穏やかな性格で、争いごとを好まない男だった。
酒も煙草もやらない、女や博打なんてもっての他の働き者だった。
ただ、幾ら働いても、貧しさからは抜け出せなかった。
貧しいのは、みな同じである。
どうせ同じなら、働き者の男がいい。
おすみは、数ある男の申し込みを断って、十五の春に清吉の下に行った。
清吉が、おすみ好みの顔をしていたのも、彼女の心に拍車をかけた。
ふられた男の中には、若い虎八もいた。
その清吉が死んだのは、昨年の冬だった。
村の寄り合いに出た帰りだった。
雪で白んだ田んぼの中に、うつ伏せて死んでいた。
「きっと、酒に酔って、誤って嵌まり込んだのだろう」ということで済まされた。
おすみは納得がいかなかった。
元来、清吉は酒を飲まない ―― どうして酒に酔うことができるのか?
寄り合いに集まった者も、清吉が酒を飲むところを見た者はいなかったし、清吉が虎八の子分に絡まれているところを目撃した者もいた。
―― これは殺しだ。きっと虎八のところの子分が殺したに違いないよ。
虎八一家は、強請り、たかりは当然のこと。
若いやつらも血の気の多い者ばかりで、気に食わない相手は殺せばいいという、どうしようもない連中の集まりだった。
おすみは名主や組頭に訴えたが、みんな虎八一家を恐れて口を噤んだままだった。
陣屋にも訴え出たが、当時は郡内騒動の後処理の真っ最中ということもあって、清吉の一件は処理済みということで門前払いを食らわされた。
噂では、虎八が陣屋の手代に金をやって、ことを有耶無耶にしたとか。
―― 全く、この世には、神も仏もないのかい。
夫を失った悲しみと、力の強いものだけが得をするという世の中の不条理に、おすみは涙を溢れさせた。
―― こんな世の中、本当に生きていく価値があるのかねえ………………
清吉の下にいっちまおうかとも思った。
その方が、随分楽だ。
―― でも、金次がいるし。清吉さんのおとっつぁんだって、息子を失った上に、あたしまでいなくなったんじゃ………………
それは何とか思いとどまった。
ただ、流れる涙を抑えることはできずに、赤茶けた畦道に濃い染みを作りながら、家まで帰ったことを昨日のように思えている。
この道を通れば、そのことが思い出されて、自然と涙が溢れてくるものだ。
だが、いまはそうはいかない。
虎八の手下に付けられているのだから、泣く暇もない。
むしろ、怒りが込み上げてくる。
―― 家まで付いてきて、どうしようっていうんだい? 夜道で掻っ攫おうっていうんじゃないだろうね。それともなにかい、あの人と同じように、あの世に送ろうってことかい? そうかい、それなら、そうして欲しいね。早くあの人のところにいけるんだからね。
とは思いながらも、おすみの足は一段と早くなっていた。
後ろから付いてきている足も、追いつこうと必死なようだ。
半里近く駆けたところで、大きな桑の木が見えてきた。
近くに、明かりも見える。
おすみと義父が住む家である。
格子窓の間からは、煙が上がっている。
その明かりと煙が立ち昇るのを見て、おすみは愁眉を開いた。
立ち止まることなく家に近付き、勢いよく戸を引き開け、土間に駆け込んだ。
家に飛び込むと、すぐさま引き戸を閉め、おすみはその場にへたり込んだ。
青白い頬は薄桃色に染まり、額には薄っすらと汗を掻いていた。
至極息苦しい。
胸も大きく波打っている。
おすみは、二、三度喘ぐように大きな息をした。
「どうした、おすみ」
囲炉裏の傍らに腰を落とし、草鞋を編んでいた老人が、窪んだ目を大きく見開いて訊いた。
「あうっ……、あっ……、あっ……」
息が詰って声が出ない。
焦れば焦るほど、咽喉が窄まっていった。
「どれ、水を飲めし」
老人は土間に下り、水甕から柄杓で水を掬った。
おすみは、老人の手を借りながら、生ぬるい水を一気に飲んでいった。
老人は、清吉の父親で、おすみの義父であった。
清吉亡き後、身寄りのないおすみは、義父を本当の父だと思って尽くしてきた。
老人も、おすみを本当の娘のように扱ってくれる。
老人は、優に六十を過ぎているのだが、いまも矍鑠と畑仕事に出ている。
そのせいで四角張った顔はほどよく日焼けして、薄い唇と相まって、精悍な顔つきをしていた。
咽喉が潤ったためか、人心地付いた。
声も戻った。
「お、おとっつぁん、つ、付けられた。虎八のやつらだ」
「付けられた? 今度は、おまんさんを付けとるんか」
老人は、半ば呆れたような口調で言った。
おすみから嫌がらせを受けていることは聞いていた。
それを聞いて老人は、「全く、暇なことをするやつらだ。そんな暇があるなら、畑でも耕したらよかろうに」と、もっともな感想を述べた。
今回も、「夜中に女の尻を追いかける暇があるなら、草鞋の一つでも編んでいたほうがよかろうに」とでも思ったのだろう。
やれやれといった表情で老人は訊いた。
「ここまで付けられたんか?」
おすみが首を縦に振ろうとした瞬間に、引き戸が二度叩かれた。
おすみは身を凍らせた。
―― 来た、付けて来ただけじゃなくて、家にまでのり込んでくるのかい?
再び胸が大きく波打っていった。
顔が硬直しているおすみとは反対に、老人のほうは穏やかな顔になった。
「おすみ、開けてやれ」
「で、でも、おとっつぁん、虎八のやつら……」
「虎八のやつらだったら戸は叩かん。断りもなく戸を開ける」
「じゃあ、宿場荒しじゃあ?」
「宿場荒し? ならなおのこと、心配ない。うちには盗まれるものはない」
それもそうだと、おすみは思った。
それでも、恐る恐る戸を引き、暗闇に顔を出した。
二人の見知らぬ男が立っていた。
格好から行って、行商か何かであろう。
後ろに立っている男のほうは、大きな荷物を背負っていた。
手前にいた、大きな目をした男が、愛想よく訊いてきた。
「すみません、この辺りに旅籠はございませんか」
この辺りは全て農家である。
おすみがそれを教えてやると、男は仕舞ったというような顔をして、額をぴしゃりと叩いた。
春の夜空に、乾いた音が響いた。
「いや、これは参った、そうでしたか。いや、実はこの道を歩いていくお人の姿があったので、こちらにも宿があるのかと思ったのですよ」
付けてきたのは、どうやらこの男たちで間違いないようだ。
「いや、なにせ、前の宿場にはちょいと素性のよろしくない方々が屯なさっていましたので、もう少し枕を高くして眠れそうな宿を捜していたのですが、そうでしたか、いや、これは参った。また一里先まで戻らないといけないね、さん」
男は、さも大儀そうに言った。
おすみには、その言葉の端々に、「良ければ泊めていただけないか」というような気持ちが暗に籠もっているように思われた。
男たちの頭の先からつま先まで、舐めるようにして見た。
どちらも虎八の子分たちのような荒くれ者には見えない。
もちろん、宿場荒しにも見えない。
虎八たちを、「素性のよろしくない方々」と言っているので、堅気の人間だろう。
それも、使っている言葉が馬鹿に丁寧なので、江戸の大店の人間かもしれない。
―― それに、この人たちは、あたしに付いてきたんだし………………
道に迷ったのが、何となく自分の責任のような感じがして、おすみは居た堪れなかった。
おすみは義父を見た。
義父は、おすみを一瞥して言った。
「これから宿場まで戻られるのも難儀じゃろうて。それに今日は新月、夜道は危ない。囲炉裏端で雑魚寝になりますが、それでもよろしければ、お止まりください」
老人がそう言うと、男たちは安堵の表情を浮かべた。
おすみも笑顔を零した。
男たちと目があった。慌てて、綻んだ頬を引き締め、男たちを招きいれた。
「いや、そうですか、それはまことに忝い。それでは失礼して」
二人の男が敷居を跨いだ。
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夫を失い、子を二度も失って、仏壇のまえで供養の経をあげるだけの毎日を送っていた信玄の娘――見性院のもとに、慶長十六年のある日、奇妙な依頼が舞い込んだ。それはなんと、家康の孫を預かって欲しいというのである――
会津松平家の家祖、会津中将保科正之を世に送りだしたのは、信玄の娘だった。
数奇な運命をたどった二人の物語。
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
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