白雨のあとに

hiro75

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第4話

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 小屋に帰り着くまでに、新之助はちょっとばかり後悔した。

(あの金を取っておくべきだったかな)

 文の顔を思い出した。

(ぬっ、何ゆえ、俺は仇の娘のことなど心配しておるのだ)

 ではあるが、新之助とて鬼ではないし、人情というものも持っている。

 目の前で、年端もいかぬ女の子が苦しんでいれば、助けてやりたいという感情がこみ上げてくるものだ。

 しかし、庶民ならば、

「可哀想に、金なんて心配するな。おいらに任せておけよ」

 と、とんと胸を叩いて懐の深いところ見せることができるのだが、そこが武士の面倒くさいところで、体面だ、面子だ、とまるで蠅のように煩く付きまとって、融通の利かない身分であった。

(全く、武士なんてつくづく馬鹿げたものだ)

 と、新之助の頭を横切るのである。

 ふと足を止めた。

「何を考えているのだ、俺は。いかん、いかん、酔いが回ったかもしれん」

 頭を振って、また歩き出した。

 小屋の前で、ふっと大きな息を吐いて、ふんと丹田に力を入れ、新之助は戸を引いた。

 寝ている文の傍に寄り添うようにして、宗太郎と綾乃が座っていた。

 新之助は、眉を顰めた。

 敵同士が、まるで家族のように寄り添うとは。

(綾乃は、いったい何を考えておるのだ。本当に、もう仇討ちをする意志はないのか)

 新之助は、無性に腹が立った。

「お薬が効いたようで、いまはぐっすりと」

 綾乃は、文の顔を撫でながら新之助に言った。

 それは、まるで母親の手付きであった。

 その手付きに、また腹が立った。

 いや、今度は腹が立ったというより、嫉妬したといったほうがよい。

(ええい、夜具の中でも俺にあんな手付きなどしないのに)

 男の嫉妬は怖いものである ―― たかだが八つにもならない、しかも少女に嫉妬するのだから………………

 新之助は、自分でも異様な感情が湧き上がっているが分かっていた。

 こんな感情は、初めてだった。

(いかん、いかん、落ち着け、このままだと、いつ本間に切られるとも限らん)

 宗太郎を見た。

 彼は、心配そうな顔で文を見守っていた。

 その姿に、御前試合で綾乃の父を破った時の雄々しさはなかった。

(獅子が、野良犬になったか?)

 と、新之助は思った。

(いや、こいつは元々、野良犬だったのかもしれん。それを隠すために、本間は他流試合や御前試合の参加を断り続けたのかもしれん。いや、そうだ。義父上が負けたのは、あの人が傲慢であったからだ。あのときの殺気も、私の気のせいに過ぎない。あのとき、私は怪我をして弱っていたからな。心も弱っていたのだろう。うむ、そうに違いない。ならば、秘剣とて恐れるに及ばず。殺るか)

 新之助は、いまの自分が義父上以上に傲慢であることに気付かなかった。

 その驕りを持って、

「本間殿、宜しいか」

 宗太郎に呼びかけた。

 宗太郎は振り返り、しばらく新之助を見た。

 宗太郎のその目に、新之助はますます傲慢になった。

(これで、大手を振って故郷に帰れる)

 と、皮算用をした。

 宗太郎は、文を見た。

 そして、彼女の頬にすっと手を走らせ、何事が呟いた。

 綾乃は、その言葉にはっと宗太郎の顔を見た。

 宗太郎は、綾乃を見ることなく、新之助の後に続いて表に出た。

 山小屋をしばらく下ると小川があって、その小川をしばらく遡って行くと、刀を振り回すにはちょうどよい広さの場所に出た。

 新之助は、宗太郎と対面した。

「本間殿、なぜ我々がここに来たのかご存知でしょうな?」

 新之助は聞いた。

「はい」

 とだけ宗太郎は答えた。

(うむ、やはり野良だ)

 と、新之助は思った。

「では、仇討ち、お受けくださるな」

「もとより承知」

「それでは、明日、綾乃とともに……」

「いえ、それに及びません」

 宗太郎は、新之助の話を止めた。

「綾乃殿からは、すべては原田殿に任せてある、原田殿のお好きなように、と聞いておりますので」

 と、意外なことを言った。

「綾乃が?」

「はい」

 新之助は、眉を寄せた。

(綾乃、やはりもう仇討ちの意志はなしか。くそっ、ならば俺だけでも武士の本懐を果たしてやる)

 新之助は、左手で刀を僅かに持ち上げた。

 すると、宗太郎は新之助に背中を向けて、どかりと座り込んだ。

 新之助は、宗太郎の行為に唖然とした。

「な、何を?」

 思わず声が裏返ってしまった。

「さあ、どうぞ、お切りください」

 宗太郎は、うなじを差し出す。

「ほ、本間殿、わ、私は、仇討ちがしたいのです。無抵抗の者を切るなど、武士の品位が疑われます。さあ、立ち上がりなさい」

「申し訳ございません、原田殿。拙者、武士を捨てた身でございます。武士の魂たる刀も、借金の形に。もはや、武士の面汚し。いや、武士などと言えば、原田殿が不愉快に思われるかもしれません。いまは、ただの杣人、いや、ただの野良犬でございます」

 新之助は、宗太郎の言葉を聞いてどきりとした。

 まるで、自分の心を見透かされているようで恐ろしかった。

「野良犬ですと。何をおっしゃる。御前試合で、我が義父、原田半平太を破った男が」

「いえ、すべては、私の野良犬のような虚栄心から始まったのでございます。本間家の家訓を破り、御前試合に出てしまいました。殿直々のお達しでしたから、お断りもできませんでしたかが、私の心の中に御前試合に勝てば、本間の名を大きく広めることができる、こんな貧乏な生活からも解放される、妻に楽をさせてやれる、娘にも将来よい婿が来るだろうという思いがあったのは確かでした。そして、半平太殿に勝った時も、本間流が天山流に優ったのだと思いました。しかし、私は気付いていなかったのです。それが、すべて私の自惚れで、虚栄のなせるものであったと」

 新之助は、宗太郎の言葉をまるで自分のことのように聞いていた。

(自惚れか、ならば、いまの俺もそうかもしれん)

 とも思った。

「それに気付いたのが、半平太殿を切ったときでした。私は恐ろしくなりました。半平太殿の大きく見開いた、動かぬ目を見て。そこに映った私の顔を見て。野良犬のように腹を空かせて餌を探し回る、欲を満たすだけの私の顔を見て。私は、己を恥じ入りました。武士として、恥ずかしきことでありました。腹を切ろうと思いました。しかし、私の胸に妻と娘の顔が浮びました。駄目でした。どうしても腹に突き立てられませんでした。私は、妻と娘を連れて国を出ました。あとは…」

 宗太郎は項垂れた。

 野良犬のうなじが、月の光で青白く浮かび上がる。

「病弱だった妻には、旅は辛かったようです。半年もせず……、娘も生まれつき体が弱く、流れ流れてここまで来ましたが、今日、明日の命と怯える暮らし。夜も、風が戸を打てば、刺客ではと目を覚まします。もう、ほとほと疲れました。さあ、原田殿、ここは潔く、お願い仕る」

 宗太郎は手を足の付け根に添え、背筋を伸ばした。

「本間殿」

 新之助は、刀の柄に手をかけた。

 その時、宗太郎が言った。

「原田殿、最後にお願いが」

 新之助の手が止まった。

「何でござろうか?」

「はっ、娘、文のことでございます」

「文殿か?」

「はっ、あれは病弱。頼るべき者がなくては、生きてはいけますまい」

「うむ」

 育てて欲しいというのか、と新之助は思ったが、宗太郎の言葉は意外なものだった。

「時を経ずして、文も、私と妻のところに送っていただきたい」

 新之助は目を瞬かせた。

 そして、あの可憐な蕾を思い出した。

「しかし……」

「無残に蕾を散らす前に、蕾は蕾のままで」

 子どものいない新之助には、宗太郎の気持ちは分からなかった。

 親の了見で子を道連れにするとは、という思いがあった。

 しかし、親ならば、子の行く末を心配するのは当たり前か、とも思った。

「うむ、心得た」

 新之助は刀を抜き去り、振り上げた。

「忝い」

 宗太郎は、静かに言った。

 月の明かりに照らされて、刀が不気味に輝いた。

 刀は血を欲していた。

 仇の血を欲していた。

 仇を前に、飢えた狼の牙のように光っている。

 新之助の手に、その重みが伝わってくる。

 息が上がる。

(これで終わる。これで、すべて終わるんだ。武士の面子も立つ。国許にも帰れる。これで良いんだ)

 新之助は、息を抑えようと大きく吸って吐いた。

 それを数度繰り返した。

 だが、ますます息が上がっていく。

 そして、耳の奥にどくどくと血が流れていくのが聞こえる。

(よい、これでよい)

 と、何度も言い聞かせた。

 しかし、まるで蜘蛛の糸に搦め捕られたように、体が動かなかった。

(なぜだ、何を迷う。俺は、この日のために本間を追って来たのだぞ。義父の仇なのだぞ)

 新之助の思いとは裏腹に、体はますます硬直していった。

 新之助は、振り上げた刀を見上げた。

 刀が、狼の牙を剥き出しにして光っている。

 新之助は、その牙がまるで自分に向けられているように思った。

(なぜだ、なぜ?)

 狼の牙は、一段と重たくなっていく。

 宗太郎親子を切れば、すべてが終わる。

 ただそれだけのことなのに、新之助は刀を振り下ろせなかった。

 むしろ、得体の知れないものが刀に纏わり付いて押しつぶされそうになった。

(俺は、本当に本間殿を恨んでいるのか? 本当に本間殿は仇なのか? 俺はいったい……)

 彼の中に仇討ちの根幹を揺るがす疑念が生まれてとき、それは音を立てて崩れていった。

(こんな、こんな)

 新之助は、よろよろと後ろに退いた。

 そして、刀を静かに鞘に戻した。

 かちりという音を聞いて、宗太郎が目を開けた。

「原田殿?」

 新之助は、黙って月を見上げた。

 馬鹿げている、と思った。

 何もかも馬鹿げている、と思った。

 どうしようもないぐらい泣き叫びたかった。

 宗太郎も月を見上げた。

 満月だった。
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