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第1話
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考えが甘かった。
原田新之助は、空に垂れ下がる墨絵のような雲を見上げながらそう思った。
「一雨きそうですね」
と、彼の後ろに寄り添っていた妻の綾乃も空を見上げ、
「うむ」
と、新之助が答えたこところで、ざっと耳を打つような音が聞こえてきたかと思うと、鳥の子色の山道が焦茶色に変色していった。
「これは行かん。綾乃、急げ」
新之助は綾乃の細い手を取り、先を急いだ。
(やはり、あのとき無理にでも泊まっていれば)
と、新之助は思った。
これより半時前の話である。
新之助と綾乃は、寂れた宿場の小さな茶店に入った。
『おやじ、茶を二つ』
と新之助が言うと、ぎゅるるると彼の腹が鳴った。
『黍餅でもお持ちいたしましょうか?』
と、店のおやじが言ったが、
『いや、結構』
と、新之助は武士の体面を慮って、これを断った。
新之助と店のおやじの遣り取りを見ていた綾乃は、
『私、小腹が空きました。二つほどいただこうかしら』
と、おやじに言った。
『へいっ』
おやじは、にこにこして奥に下がって言った。
『二つも食べられるのか?』
と、新之助が聞くと、
『ええ』
と、綾乃は澄ました顔で答えた。
おやじが持って来た茶は渋かった。
渋みで、口の中が痺れた。
やはり餅が欲しかった。
新之助は、口の中の渋みを舌で拭き取りながら綾乃を見た。
綾乃の傍には、黍餅が一個と半分。
結局、一口齧っただけだった。
『もう、食べないのか?』
新之助が聞くと、綾乃はこれまた澄ました顔で、
『ええ』
と答えた。
『勿体ない』
『では、あなた、お召し上がりになって』
『いや、俺はいらん』
言い終わる前に、新之助の腹がぐるるると鳴った。
綾乃は笑いを堪えながら、
『勿体ないですわよ』
と言った。
新之助は黍餅を見た。
そして、もう一度綾乃を見た。
綾乃はそっぽを向いていたが、明らかに肩が激しく上下していた。
(よくできた妻だ)
と、新之助はぽんと黍餅を口に放り込んだ。
茶の渋みと混ざって美味かった。
一つ半を平らげ、新之助は茶店のおやじに聞いた。
『おやじ、次の宿場までどのくらいだ?』
『へえ、一里半ぐらいでしょうか』
『ならば、半時ほどか』
『へえ、しかし、山道ですから、それ以上かかるかと。おまけに、一雨きそうですし』
と、おやじは青空を見上げた。
空は、雲一つない。
『雨?』
と、綾乃は首を傾げた。
『へえ、西の山に雲がかかっておりますので』
確かに、山の頂からもくもくと雲が沸き立っていた。
『うむ、入道雲か。この辺りに宿は?』
と、新之助は聞いた。
『へえ、その角に一軒』
おやじが指差したのは、いまにも崩れそうな家だった。
『あれが宿か?』
『この宿場に泊まっていくものは滅多におりませんようで。鬼蜘蛛一家の塒になっておるのだそうで』
『鬼蜘蛛一家?』
『へえ、この辺りを仕切るやくざ者とか』
『なるほど』
新之助は、綾乃の顔を見た。
綾乃は、
『あなた、私ならもうしばらくは大丈夫ですから』
と言ったが、新之助は、『うむ』と考え込んだ。
綾乃は、生まれつき体が弱い。
(これ以上、無理をせるわけにはいかんな)
と、綾乃の顔を見た。
彼女の首筋には、うっすらと汗が滲んでいた。
かといって、やくざ者が屯する宿に、綾乃を泊まらせるのも気が引けた。
さて、どうするか、と新之助が考えていたところに、茶店に数人の、いかにもといった男たちが入って来て、綾乃の傍にどかどかと腰を下ろし、
『おやじ、茶出せ、茶。それから、今日の上がりもな』
と大声を上げた。
(まずいな)
と思った新之助は、
『綾乃、参るぞ。おやじ、銭はここに』
その場を立った。
すると、男の一人が目ざとく綾乃に目を付けた。
『こりゃ、良い女だぜ。ネエちゃん、どうだい、いまから俺たちに付き合えよ』
と、その男は綾乃の細い肩を抱いた。
綾乃は身を捩り、新之助の後ろに隠れた。
『なんだ、亭主連れかよ。よう、旦那、その女、いくらなら売ってくれるんだ』
男たちは下卑た笑いをした。
新之助は、それを無視して長椅子に銭を放り出し、綾乃を先に立てて茶店を出た。
『おい、こら待て!』
男たちは、新之助たちのあとを追って店を出た。
『おい、こっちが話しかけてるんだ。シカとすんじゃねえよ』
男たちは新之助と綾乃を取り囲んだ。
『すまぬが、先を急ぐので』
新之助たちが男たちの輪を抜けようとすると、彼らはさらに輪を小さくした。
『旦那よ。俺ら、その女が気に入ったんだ。ただとは言わねえよ。銭ならやるよ』
一人の男が小銭を新之助の足下にばら撒いた。
新之助は、足下にばら撒かれた銭を見て片眉を上げ、鯉口を切った。
輪が広がり、男たちは懐に手を入れた。
『けっ、俺たちゃ、侍なんて怖くねえんだぜ』
と、短刀を抜き去った。
その瞬間だった。
新之助が右足を少し前にすり出したかと思うと、男たちの手元から短刀が吹き飛んだ。
彼らは、しばらく何があったか分からなかったが、自分の手元が軽くなったのに気が付くと、
『お、覚えてろ!』
と、お決まりの台詞を吐いて、尻尾を丸めて逃げて行った。
新之助は、刀を静かにおさめた。
そして、足下にばら撒かれた小銭を拾って、
『おやじ、騒がせたな。迷惑料だ』
と、茶店のおやじに放り投げてやった。
『へ、へえ……』
おやじはそれを確りと受け取った。
『綾乃、参ろうか』
綾乃は小さく頷いて、新之助の頼もしい背中を追ったのであった。
だが、やはりおやじの言うとおりであった。
新之助一人なら造作もない山道だが、綾乃には辛すぎた。
おまけに、先だっての入道雲がいつの間にか空一面に広がり、刻々とその濃さを増していた。
(ええい、考えが甘かったか)
と思ったところで、激しい雨に見舞われたのであった。
新之助は先を急いだが、握っていた綾乃の手がみるみるうちに冷たくなっていくのが分かった。
綾乃の顔を見ると、彼女は唇まで紫色にして、白い息を吐いていた。
新之助は野羽織を脱ぎ、綾乃の頭から被せてやり、
「大丈夫か?」
と、肩を抱いた。
(うむ、少々熱い)
新之助は、綾乃の額に手を当てた ―― 若干熱っぽい。
「あなた、私なら大丈夫ですから」
と綾乃は言うのだが、その声は新之助にやっと聞こえるかどうかのか細いものだった。
(戻るか……)
新之助が思案していると、彼は山道から僅かばかり離れた所に小屋があるのを見つけた。
そして、綾乃の肩を抱きすくめながらその軒下に駆け込んだ。
「ごめん」
その小屋の中に呼びかけるが、返事はなかった。
「ごめん、どなたか居られぬか」
数度呼びかけ、
(無人の小屋か、ならば今晩はここで……)
戸を引こうとしたとき、音もなく開いた。
出て来たのは、青白い顔をした、年は八つくらいの女の子だった。
新之助は、こんな寂しいところで一人暮らしかと訝った。
「あの……、どちら様で?」
その少女は問うた。
「申し訳ない。旅の者だが、この雨で……、それに、妻の具合が少々……」
新之助が訳を語ると、
「まあ、それは大変、さあ、早く中へ」
少女は、新之助と綾乃を小屋の中に招き入れた。
中央に囲炉裏があるだけの、粗末な小屋だった。
少女は綾乃の傍に近寄ると、
「お着物を」
と、彼女の着物を慣れた手つきで脱がせた。
そして、肌襦袢だけになった綾乃の手を取り、囲炉裏の傍に敷かれていた筵に寝るように促した。
「すみません、こんな夜具しかなくて」
少女は、綾乃に筵をかけながら言った。
筵の中は温かかった。
そして、ほんのりと少女の香りがした。
「もしや、この夜具、お使いの物では?」
「お気になさらず、お休みください」
少女は優しく言った。
「そんな、いけませんわ」
綾乃は飛び起きたかったのだが、その前に酷い睡魔に襲われ、深い眠りに落ちたのであった。
「忝い」
新之助が頭を下げると、少女は、
「とんでもございません。さあ、お侍様もお上がりになって」
囲炉裏の傍に座るように言った。
少女は、綾乃の着物を火の傍に広げ始めた。
その仕草は、百姓や杣人の娘とはかけ離れたものだった。
(侍の娘か?)
と、新之助は首を捻った。
綾乃の着物を全て干し、少女が一息付いたところで、新之助は少女に問うた。
「拙者、原田新之助、こちらは妻の綾乃でございます。訳あって、二人で旅をしております。ときに、お名前は?」
「文でございます」
と、少女は丁寧に頭を下げた。
「文殿は、お一人か?」
「いえ、父様と一緒に。父様は、山で働いております。今日はこの雨ですから、もうじき戻って来ると思いますが」
文は、格子窓を見上げた。
窓から雨が入り込んでいる。
少女は、すっと立ち上げると、釣り戸を下ろした。
その手付きも、山小屋育ちの娘のものではなかった。
「文殿は、武家の出か?」
新之助は尋ねた。
「……いえ」
彼女は答えた。
「では、父上は?」
「……さあ……」
とだけ答えた。
「左様か……」
と会話が途切れた。
囲炉裏の炎に照らされた文の顔は、人形のように美しかった。
まるで白磁のような真っ白な肌をしていた。
いや、恐ろしいぐらいに青白かった。
(どこか具合でも悪いのか?)
新之助は心配した。
こんこんと文は空咳をした。
「文殿、お体の具合が良くないのでは?」
「いえ、生まれつき体が弱くて、母様と同じなんです」
このとき、新之助は初めて文から母という言葉を聞いた。
「お母上は?」
「亡くなりました」
屈託なく言った。
「それは……」
新之助には、小屋の空気が酷く冷たくなったように感じられた。
(いらぬことを)
と自分を責めた。
静寂の中、文がすっと立ち上がった。
「父様ですわ」
土間に降り、戸口を引いた。
すると、頬かむりをして、粗末な着物に身を包んだ男が入って来た。
全身ずぶ濡れで、体の線が分かるほど服が張り付いていた。
新之助は、雨露に輝く男の姿を見て、侍の体だと感じた。
「お帰りなさいませ、父様。お客様がいらしてるの」
文は、男が板間の縁に腰掛け、草鞋を脱ぐのを手伝いながら言った。
「お客様?」
「はい、この雨に降られて、それに奥様が少し具合が悪いとかで」
「そうか……」
と、男は板間に上がった。
新之助は、居住まいを正した。
「原田新之助でございます」
と頭を上げたとき、新之助は頬かむりを取った男の顔に愕然とした。
それは、新之助が長年探し求めていた仇討ちの相手、本間宗太郎であった。
宗太郎も、あっとなったようだ。
新之助の顔を見るなり、目を見開き、まるで凍りついたように動かなくなってしまったのだから。
新之助は、鼓動が速くなっているのに気が付いた。
そして、唾液が引き潮のように胃袋に引き込まれ、口の中がからからに乾いていくのが分かった。
(居る! 目の前に、本間が居る!)
新之助は、上がる息を抑えながら、手元に置いた刀との距離を測っていた。
(切るか……)
新之助の背中に、つっと冷たい汗が滴り落ちていった。
「父様、どうなされたの?」
重苦しい空気を破ったのは、文だった。
「いや」
宗太郎は、一言だけ答えた。
「すみません。無愛想な父様で」
宗太郎の代わりに、文が頭を下げた。
それに弾かれたように、新之助の緊張の糸が切れた。
初めて、全身に汗を掻いているのを知った。
宗太郎は、新之助に対面するように囲炉裏の傍に腰を下ろした。
そして、ちらりと横たわる人を見た。
「奥様の綾乃様です。お熱があるようで」
咽喉がつっかえて声も出ない新之助の代わりに、文が言った。
「うむ」
宗太郎は頷くと、新之助に顔を隠すように俯いた。
だが、囲炉裏の炎は、その男の顔をくっきりと浮かび上がらせた。
新之助は、間違いないと確信した。
(本間宗太郎、こんなところに居たのか。お前のために、幾年を費やしたか)
新之助は、手元の刀を引きつけた。
宗太郎は、囲炉裏の隅に差さっていた火箸を取り上げた。
二人の火花によって、囲炉裏の炎がさらに激しく燃え上がった。
その炎を挟んで、二人の男が己の殺気を徐々に高めながら対峙していた。
その炎に水を差したのは文だった。
「原田様、何もありませんけど」
彼女は、新之助に椀を差し出した。
「えっ?」
山菜の粥である。
新之助は、文を見た。
どうぞ、という笑顔だ。
宗太郎を見た。
彼は火箸を置き、自在鉤にぶら下がった鍋の中の粥を自分の椀によそっていた。
(毒が入っているのではあるまいな?)
新之助は訝り、宗太郎が口を付けるまで待った。
彼は、美味そうに粥を啜った。
(まあ、そこまで卑怯者ではあるまい、本間殿も)
と新之助も思い直し、文から椀を受け取って、ずずずっと啜った。
胃袋の底まで熱くなり、冷え切った体の隅々までその温もりが伝わっていった。
湯気の向こうの男は、何事もなく粥を啜っていた。
(あの頃より、少し衰えたか?)
新之助は粥を啜りながら、五年前の宗太郎の顔を思い返していた。
原田新之助は、空に垂れ下がる墨絵のような雲を見上げながらそう思った。
「一雨きそうですね」
と、彼の後ろに寄り添っていた妻の綾乃も空を見上げ、
「うむ」
と、新之助が答えたこところで、ざっと耳を打つような音が聞こえてきたかと思うと、鳥の子色の山道が焦茶色に変色していった。
「これは行かん。綾乃、急げ」
新之助は綾乃の細い手を取り、先を急いだ。
(やはり、あのとき無理にでも泊まっていれば)
と、新之助は思った。
これより半時前の話である。
新之助と綾乃は、寂れた宿場の小さな茶店に入った。
『おやじ、茶を二つ』
と新之助が言うと、ぎゅるるると彼の腹が鳴った。
『黍餅でもお持ちいたしましょうか?』
と、店のおやじが言ったが、
『いや、結構』
と、新之助は武士の体面を慮って、これを断った。
新之助と店のおやじの遣り取りを見ていた綾乃は、
『私、小腹が空きました。二つほどいただこうかしら』
と、おやじに言った。
『へいっ』
おやじは、にこにこして奥に下がって言った。
『二つも食べられるのか?』
と、新之助が聞くと、
『ええ』
と、綾乃は澄ました顔で答えた。
おやじが持って来た茶は渋かった。
渋みで、口の中が痺れた。
やはり餅が欲しかった。
新之助は、口の中の渋みを舌で拭き取りながら綾乃を見た。
綾乃の傍には、黍餅が一個と半分。
結局、一口齧っただけだった。
『もう、食べないのか?』
新之助が聞くと、綾乃はこれまた澄ました顔で、
『ええ』
と答えた。
『勿体ない』
『では、あなた、お召し上がりになって』
『いや、俺はいらん』
言い終わる前に、新之助の腹がぐるるると鳴った。
綾乃は笑いを堪えながら、
『勿体ないですわよ』
と言った。
新之助は黍餅を見た。
そして、もう一度綾乃を見た。
綾乃はそっぽを向いていたが、明らかに肩が激しく上下していた。
(よくできた妻だ)
と、新之助はぽんと黍餅を口に放り込んだ。
茶の渋みと混ざって美味かった。
一つ半を平らげ、新之助は茶店のおやじに聞いた。
『おやじ、次の宿場までどのくらいだ?』
『へえ、一里半ぐらいでしょうか』
『ならば、半時ほどか』
『へえ、しかし、山道ですから、それ以上かかるかと。おまけに、一雨きそうですし』
と、おやじは青空を見上げた。
空は、雲一つない。
『雨?』
と、綾乃は首を傾げた。
『へえ、西の山に雲がかかっておりますので』
確かに、山の頂からもくもくと雲が沸き立っていた。
『うむ、入道雲か。この辺りに宿は?』
と、新之助は聞いた。
『へえ、その角に一軒』
おやじが指差したのは、いまにも崩れそうな家だった。
『あれが宿か?』
『この宿場に泊まっていくものは滅多におりませんようで。鬼蜘蛛一家の塒になっておるのだそうで』
『鬼蜘蛛一家?』
『へえ、この辺りを仕切るやくざ者とか』
『なるほど』
新之助は、綾乃の顔を見た。
綾乃は、
『あなた、私ならもうしばらくは大丈夫ですから』
と言ったが、新之助は、『うむ』と考え込んだ。
綾乃は、生まれつき体が弱い。
(これ以上、無理をせるわけにはいかんな)
と、綾乃の顔を見た。
彼女の首筋には、うっすらと汗が滲んでいた。
かといって、やくざ者が屯する宿に、綾乃を泊まらせるのも気が引けた。
さて、どうするか、と新之助が考えていたところに、茶店に数人の、いかにもといった男たちが入って来て、綾乃の傍にどかどかと腰を下ろし、
『おやじ、茶出せ、茶。それから、今日の上がりもな』
と大声を上げた。
(まずいな)
と思った新之助は、
『綾乃、参るぞ。おやじ、銭はここに』
その場を立った。
すると、男の一人が目ざとく綾乃に目を付けた。
『こりゃ、良い女だぜ。ネエちゃん、どうだい、いまから俺たちに付き合えよ』
と、その男は綾乃の細い肩を抱いた。
綾乃は身を捩り、新之助の後ろに隠れた。
『なんだ、亭主連れかよ。よう、旦那、その女、いくらなら売ってくれるんだ』
男たちは下卑た笑いをした。
新之助は、それを無視して長椅子に銭を放り出し、綾乃を先に立てて茶店を出た。
『おい、こら待て!』
男たちは、新之助たちのあとを追って店を出た。
『おい、こっちが話しかけてるんだ。シカとすんじゃねえよ』
男たちは新之助と綾乃を取り囲んだ。
『すまぬが、先を急ぐので』
新之助たちが男たちの輪を抜けようとすると、彼らはさらに輪を小さくした。
『旦那よ。俺ら、その女が気に入ったんだ。ただとは言わねえよ。銭ならやるよ』
一人の男が小銭を新之助の足下にばら撒いた。
新之助は、足下にばら撒かれた銭を見て片眉を上げ、鯉口を切った。
輪が広がり、男たちは懐に手を入れた。
『けっ、俺たちゃ、侍なんて怖くねえんだぜ』
と、短刀を抜き去った。
その瞬間だった。
新之助が右足を少し前にすり出したかと思うと、男たちの手元から短刀が吹き飛んだ。
彼らは、しばらく何があったか分からなかったが、自分の手元が軽くなったのに気が付くと、
『お、覚えてろ!』
と、お決まりの台詞を吐いて、尻尾を丸めて逃げて行った。
新之助は、刀を静かにおさめた。
そして、足下にばら撒かれた小銭を拾って、
『おやじ、騒がせたな。迷惑料だ』
と、茶店のおやじに放り投げてやった。
『へ、へえ……』
おやじはそれを確りと受け取った。
『綾乃、参ろうか』
綾乃は小さく頷いて、新之助の頼もしい背中を追ったのであった。
だが、やはりおやじの言うとおりであった。
新之助一人なら造作もない山道だが、綾乃には辛すぎた。
おまけに、先だっての入道雲がいつの間にか空一面に広がり、刻々とその濃さを増していた。
(ええい、考えが甘かったか)
と思ったところで、激しい雨に見舞われたのであった。
新之助は先を急いだが、握っていた綾乃の手がみるみるうちに冷たくなっていくのが分かった。
綾乃の顔を見ると、彼女は唇まで紫色にして、白い息を吐いていた。
新之助は野羽織を脱ぎ、綾乃の頭から被せてやり、
「大丈夫か?」
と、肩を抱いた。
(うむ、少々熱い)
新之助は、綾乃の額に手を当てた ―― 若干熱っぽい。
「あなた、私なら大丈夫ですから」
と綾乃は言うのだが、その声は新之助にやっと聞こえるかどうかのか細いものだった。
(戻るか……)
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そして、綾乃の肩を抱きすくめながらその軒下に駆け込んだ。
「ごめん」
その小屋の中に呼びかけるが、返事はなかった。
「ごめん、どなたか居られぬか」
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「あの……、どちら様で?」
その少女は問うた。
「申し訳ない。旅の者だが、この雨で……、それに、妻の具合が少々……」
新之助が訳を語ると、
「まあ、それは大変、さあ、早く中へ」
少女は、新之助と綾乃を小屋の中に招き入れた。
中央に囲炉裏があるだけの、粗末な小屋だった。
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「お着物を」
と、彼女の着物を慣れた手つきで脱がせた。
そして、肌襦袢だけになった綾乃の手を取り、囲炉裏の傍に敷かれていた筵に寝るように促した。
「すみません、こんな夜具しかなくて」
少女は、綾乃に筵をかけながら言った。
筵の中は温かかった。
そして、ほんのりと少女の香りがした。
「もしや、この夜具、お使いの物では?」
「お気になさらず、お休みください」
少女は優しく言った。
「そんな、いけませんわ」
綾乃は飛び起きたかったのだが、その前に酷い睡魔に襲われ、深い眠りに落ちたのであった。
「忝い」
新之助が頭を下げると、少女は、
「とんでもございません。さあ、お侍様もお上がりになって」
囲炉裏の傍に座るように言った。
少女は、綾乃の着物を火の傍に広げ始めた。
その仕草は、百姓や杣人の娘とはかけ離れたものだった。
(侍の娘か?)
と、新之助は首を捻った。
綾乃の着物を全て干し、少女が一息付いたところで、新之助は少女に問うた。
「拙者、原田新之助、こちらは妻の綾乃でございます。訳あって、二人で旅をしております。ときに、お名前は?」
「文でございます」
と、少女は丁寧に頭を下げた。
「文殿は、お一人か?」
「いえ、父様と一緒に。父様は、山で働いております。今日はこの雨ですから、もうじき戻って来ると思いますが」
文は、格子窓を見上げた。
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その手付きも、山小屋育ちの娘のものではなかった。
「文殿は、武家の出か?」
新之助は尋ねた。
「……いえ」
彼女は答えた。
「では、父上は?」
「……さあ……」
とだけ答えた。
「左様か……」
と会話が途切れた。
囲炉裏の炎に照らされた文の顔は、人形のように美しかった。
まるで白磁のような真っ白な肌をしていた。
いや、恐ろしいぐらいに青白かった。
(どこか具合でも悪いのか?)
新之助は心配した。
こんこんと文は空咳をした。
「文殿、お体の具合が良くないのでは?」
「いえ、生まれつき体が弱くて、母様と同じなんです」
このとき、新之助は初めて文から母という言葉を聞いた。
「お母上は?」
「亡くなりました」
屈託なく言った。
「それは……」
新之助には、小屋の空気が酷く冷たくなったように感じられた。
(いらぬことを)
と自分を責めた。
静寂の中、文がすっと立ち上がった。
「父様ですわ」
土間に降り、戸口を引いた。
すると、頬かむりをして、粗末な着物に身を包んだ男が入って来た。
全身ずぶ濡れで、体の線が分かるほど服が張り付いていた。
新之助は、雨露に輝く男の姿を見て、侍の体だと感じた。
「お帰りなさいませ、父様。お客様がいらしてるの」
文は、男が板間の縁に腰掛け、草鞋を脱ぐのを手伝いながら言った。
「お客様?」
「はい、この雨に降られて、それに奥様が少し具合が悪いとかで」
「そうか……」
と、男は板間に上がった。
新之助は、居住まいを正した。
「原田新之助でございます」
と頭を上げたとき、新之助は頬かむりを取った男の顔に愕然とした。
それは、新之助が長年探し求めていた仇討ちの相手、本間宗太郎であった。
宗太郎も、あっとなったようだ。
新之助の顔を見るなり、目を見開き、まるで凍りついたように動かなくなってしまったのだから。
新之助は、鼓動が速くなっているのに気が付いた。
そして、唾液が引き潮のように胃袋に引き込まれ、口の中がからからに乾いていくのが分かった。
(居る! 目の前に、本間が居る!)
新之助は、上がる息を抑えながら、手元に置いた刀との距離を測っていた。
(切るか……)
新之助の背中に、つっと冷たい汗が滴り落ちていった。
「父様、どうなされたの?」
重苦しい空気を破ったのは、文だった。
「いや」
宗太郎は、一言だけ答えた。
「すみません。無愛想な父様で」
宗太郎の代わりに、文が頭を下げた。
それに弾かれたように、新之助の緊張の糸が切れた。
初めて、全身に汗を掻いているのを知った。
宗太郎は、新之助に対面するように囲炉裏の傍に腰を下ろした。
そして、ちらりと横たわる人を見た。
「奥様の綾乃様です。お熱があるようで」
咽喉がつっかえて声も出ない新之助の代わりに、文が言った。
「うむ」
宗太郎は頷くと、新之助に顔を隠すように俯いた。
だが、囲炉裏の炎は、その男の顔をくっきりと浮かび上がらせた。
新之助は、間違いないと確信した。
(本間宗太郎、こんなところに居たのか。お前のために、幾年を費やしたか)
新之助は、手元の刀を引きつけた。
宗太郎は、囲炉裏の隅に差さっていた火箸を取り上げた。
二人の火花によって、囲炉裏の炎がさらに激しく燃え上がった。
その炎を挟んで、二人の男が己の殺気を徐々に高めながら対峙していた。
その炎に水を差したのは文だった。
「原田様、何もありませんけど」
彼女は、新之助に椀を差し出した。
「えっ?」
山菜の粥である。
新之助は、文を見た。
どうぞ、という笑顔だ。
宗太郎を見た。
彼は火箸を置き、自在鉤にぶら下がった鍋の中の粥を自分の椀によそっていた。
(毒が入っているのではあるまいな?)
新之助は訝り、宗太郎が口を付けるまで待った。
彼は、美味そうに粥を啜った。
(まあ、そこまで卑怯者ではあるまい、本間殿も)
と新之助も思い直し、文から椀を受け取って、ずずずっと啜った。
胃袋の底まで熱くなり、冷え切った体の隅々までその温もりが伝わっていった。
湯気の向こうの男は、何事もなく粥を啜っていた。
(あの頃より、少し衰えたか?)
新之助は粥を啜りながら、五年前の宗太郎の顔を思い返していた。
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そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
シンセン
春羅
歴史・時代
新選組随一の剣の遣い手・沖田総司は、池田屋事変で命を落とす。
戦力と士気の低下を畏れた新選組副長・土方歳三は、沖田に生き写しの討幕派志士・葦原柳を身代わりに仕立て上げ、ニセモノの人生を歩ませる。
しかし周囲に溶け込み、ほぼ完璧に沖田を演じる葦原の言動に違和感がある。
まるで、沖田総司が憑いているかのように振る舞うときがあるのだ。次第にその頻度は増し、時間も長くなっていく。
「このカラダ……もらってもいいですか……?」
葦原として生きるか、沖田に飲み込まれるか。
いつだって、命の保証などない時代と場所で、大小二本携えて生きてきたのだ。
武士とはなにか。
生きる道と死に方を、自らの意志で決める者である。
「……約束が、違うじゃないですか」
新選組史を基にしたオリジナル小説です。 諸説ある幕末史の中の、定番過ぎて最近の小説ではあまり書かれていない説や、信憑性がない説や、あまり知られていない説を盛り込むことをモットーに書いております。
焔の牡丹
水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。
織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。

本能寺燃ゆ
hiro75
歴史・時代
権太の村にひとりの男がやって来た。
男は、干からびた田畑に水をひき、病に苦しむ人に薬を与え、襲ってくる野武士たちを撃ち払ってくれた。
村人から敬われ、権太も男に憧れていたが、ある日男は村を去った、「天下を取るため」と言い残し………………男の名を十兵衛といった。
―― 『法隆寺燃ゆ』に続く「燃ゆる」シリーズ第2作目『本能寺燃ゆ』
男たちの欲望と野望、愛憎の幕が遂に開ける!
本所深川幕末事件帖ー異国もあやかしもなんでもござれ!ー
鋼雅 暁
歴史・時代
異国の気配が少しずつ忍び寄る 江戸の町に、一風変わった二人組があった。
一人は、本所深川一帯を取り仕切っているやくざ「衣笠組」の親分・太一郎。酒と甘味が大好物な、縦にも横にも大きいお人よし。
そしてもう一人は、貧乏御家人の次男坊・佐々木英次郎。 精悍な顔立ちで好奇心旺盛な剣術遣いである。
太一郎が佐々木家に持ち込んだ事件に英次郎が巻き込まれたり、英次郎が太一郎を巻き込んだり、二人の日常はそれなりに忙しい。
剣術、人情、あやかし、異国、そしてちょっと美味しい連作短編集です。
※話タイトルが『異国の風』『甘味の鬼』『動く屍』は過去に同人誌『日本史C』『日本史D(伝奇)』『日本史Z(ゾンビ)』に収録(現在は頒布終了)されたものを改題・大幅加筆修正しています。
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